第154話








 バルドルとはフェンリルの部屋の出口で分かれ、ロキは神殿の二階にあるテラスから、鶫になって飛び立った。

 籐のカゴの持ち手を足で掴むがなかなかバランスが難しい。必死に翼を動かし、ようやく風を掴んだところで体勢が安定した。このまま城壁を越えて東方へ向かう。朝日が登る場所だ。帰りは夕陽の落ちる方向、ユグドラシルを右前に見るのだとバルドルに教えられていた。

 よし、とロキが意気込み、風を切っていた翼をもう一度羽ばたかせた瞬間。何かの衝撃が足元に走り、体が大きくぐらついた。

 驚きロキが視線を落とすと、籐のカゴに弓矢が突き刺さっている。幸い上手く中心を外れフェンリルは穏やかに眠っているが、もう一本放たれた矢がロキの翼の脇を掠めた。

 慌てて軌道を辿るとまたもう一本、今度は籐のカゴの持ち手部分を貫いた。片側が壊れて、籠は支えを失い傾いた。中に引いていたお包みごと、フェンリルの体が滑り落ちる。

 ロキは息を飲み、ほとんど反射的に籐籠を捨てると、嘴を真下に向けて急降下した。中空でその姿を人に戻して、両手でお包みを抱き止める。


「いってて……」


 幸いにも、ロキが落ちたのは神殿の低木の上だ。それが緩衝材がわりになり、尻は痛んだがすぐに立ち上がることができた。腕に抱き留めたフェンリルも無傷なようで、驚いたことにまだすやすやと眠っている。


「どこに行こうというんだい、ロキ? フェンリルを連れて」


 声の方向へロキは顔を上げた。

 そこに立っていたのはミーミルだ。

 真っ白な長衣に身を包み、金の髪を垂らした彼の背後には、ずらりと神殿に支える神々が並んでいた。幾人かは弓を構えていて、どうやら彼らがロキ目掛けて矢を放ったようだ。


「ミーミル! 見逃してくれ、これには事情があるんだ!」


 ロキはフェンリルを守るかのように抱きしめながら、一歩後ずさった。

 走って逃げるには城壁の扉は遠い。それに、仮に扉から出られたとしても、その道は真っ白な階段一つだけ。巻くこともできず、フェンリルを抱いたままではすぐに追いつかれるだろう。


「事情? はて、いったいどんな?」


 ミーミルは穏やかな笑みを見せながら、自らの首の縫い跡を撫でた。いつもの彼と変わらぬ様子に、ロキはどこか安堵する。


「じ、実は……」


 ロキは語りかけて、言葉を止める。

 叡智の預言者ミーミルは人格者だ。ロキの考えを受け入れてくれる可能性はある。しかし、彼の背後に並んだ神々は突然矢を放つような者たちだ。彼らに聞かれたくないと示すように、ロキがミーミルに目配せをすると、ミーミルはゆっくりとした足取りで一人ロキに歩み寄った。


「ミーミル、あの……」

「知ってるよ」

「へ?」


 ミーミルは囁くようにロキの耳元に口を寄せた。


「バルドルの予言……黄昏を知っている」

「あ……も、もしかして、聞いてたのか⁈」


 ロキの部屋でバルドルと話をした時、部屋のドアは開いていた。バルドルは声がでかいし、ミーミルは廊下でその声を聞いていたのかもしれない。

 そのロキの問いに、ミーミルは静かに頷いた。


「あ、じゃ、じゃあ、ミーミル、協力してくれ! 俺はオーディンもフェンリルも失いたくないんだ! とにかくフェンリルを逃して、その後で黄昏を防ぐ手立てを……うぐっ!」


 突然、ロキはミーミルに胸ぐらを掴み上げられた。


「なっ……にっ、ミーミル……」


 呻きながら、ロキはミーミルを睨みつけた。


「ダメだよ、止めちゃダメだ、黄昏を」

「……は?」


 ミーミルはロキ以外の誰にも聞こえないほどの声量で言葉を続ける。


「フェンリルはわたさない。この子には役目があるからね? そして、お前は……用無しだ」

「あ、なっ!」


 ロキの体を突き飛ばし、ミーミルは腕から小さなフェンリルを奪うように抱き上げると、身を翻しながら背後の神々を振り返った。


「なんて馬鹿なことを言うのだロキ! 器を連れ去ろうなどとは!」


 そのミーミルの叫ぶ声に、ロキは驚き一瞬言葉を失った。


「嘆かわしい! 主神オーディンの寵愛を受けておきながら、主を裏切るつもりか!」


 ミーミルの芝居は続く。


「ちがう! 俺はオーディンを裏切ろうなんて思ってない!」


 ロキは叫び、ミーミルに奪われたフェンリルを取り戻そうと手を伸ばした。しかし、その体は駆け寄ってきた神々によって取り押さえられてしまう。


「離せっ! 誤解だ! 俺はオーディンもフェンリルも両方助ける方法をっ……!!」


 もがき抵抗したロキの後頭部に衝撃が走った。

 誰かが殴りつけたようだ。言葉を失ったロキの視界はぐらぐらと揺れ、直後体が脱力した。


「拘束しろ」


と誰かの声が聞こえたが、抵抗もできないまま、ロキの意識はゆっくりと遠のいていった。







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