第53話

 フェンは人の姿で、きちんとロキの渡した衣服を纏っている。服を着ている時なら抱きついていいと言ってあったから、この姿で船室にロキが来るのを待っていたのかもしれない。


「ロキ、またすごくいい匂いがしてる」


 ロキを抱き寄せたフェンのその言葉にロキはびくりと体を震わせた。

 思わず恐怖の目をフェンに向けてしまう。フェンはそれに気がついたようだった。

 何があったかも言っていないのに、「大丈夫、俺が守ってあげる」と額にキスを落としたフェンに、ロキは膝の力が抜けるほどの安心感を覚えた。


「フェン、この揺れはいったいどうしたんだ⁈」


 フェンの腕にしがみつきながらロキは尋ねた。船は先ほどからぐらぐらと揺れ続けている。


「わかんない! けど、甲板の方にさっきヴァク達が走って行ったよ!」


 やはり攻撃を受けているのか? 

 ロキは息を飲んだ。


「俺たちも行ってみよう!」


 ロキが言うと、フェンは頷いてロキの手を握り、廊下に飛び出し甲板を目指した。

 港に到着してから混乱があればそれに乗じて逃げ出すこともできたが、今はまだ海の上のはずだ。ここで船が沈んではヨトに着く前に死んでしまう。


「しかし、こんな巨大な船に攻撃を仕掛けるなんて、相手はいったい」


 人間の所業ではないだろうことは想像できた。

 であれば、ヨトに領土を奪われた別の巨人族の勢力か、はたまた神やエルフか……

 そこまで考え、ロキの脳裏にある神の名前が浮かんだ。


「まさか……オーディン……?」


 ロキとフェンは甲板へと続く階段を駆け上がった。下階には逃げ惑う一般の乗客がいたが、甲板に足を向けるのは船乗りや武装した巨人族たちだ。

 階段を上り切ると、船端に等間隔に備え付けられた捕鯨砲のような装置の前で、それぞれ船乗り達が構えをとっていた。


「打てっ!」


と言う号令のあと、鼓膜を劈くような爆発音が鳴り、空気を切り裂く甲高い音と共に先端からいくつもの太い銛が発射された。火薬の匂いが立ち込めている。

 ロキとフェンはその銛が発せられた方角を確かめて、その光景に驚愕した。


「ミッドガルドの大蛇……」


 フェンの呟きを聞いて、ロキはごくりと唾を飲んだ。

 遠くに見えていたはずの黄色い目玉が、今は目線をうんと持ち上げないと見えないほどの高い位置にある。大きな丸がギョロリと船体を見下ろしていた。大蛇の顎はこの巨大な船を齧りとってしまいそうなほどに大きい。


「巨人族の船は襲わないんじゃなかったのかよ!」


 ロキの叫び声は、再び鳴った砲撃音に掻き消えた。

 大蛇は身体中を銛で刺されながらも、大きな動きで船体を揺らした。

 頭を下げて水中に潜るのかと思ったら、どうやらその尾を振り上げたようだ。ヴァクのが切ったと言っていたその先端は、たしかに不自然に途切れている。


「危ないっ!」


 どこからともなく声が聞こえた。その声に素早く反応したのはフェンで、ロキの体を抱えると甲板の中腹に向けて走り出した。

 衝撃音と共にまた船体が揺れ、ロキとフェンは二人してバランスを崩して転がった。

 ロキがフェンの腕の中でどうにか顔を上げて振り返ると、先ほどまで立っていた場所に大蛇の尾が打ちつけられているところだった。


--あーん、間違えちゃったぁ……!


「えっ⁈」


 突然聞こえたその声に、ロキは顔を上げる。

 しかし、声の主はわからなかった。周囲はその声が聞こえなかったのか、甲板の上を右往左往しながら、次の砲撃の準備を整えている。

 大蛇は進路を塞ぐように回り込んだ。ロキはフェンに支えられてなんとか立ち上がるとそちらに顔を向ける。船首では大きな炎が上がっていた。


「あ、違う……あれ、ヴァクだ!」


 揺らめく炎かと思われたそれは、焔のようなヴァクの赤い髪だった。大蛇のせいで水飛沫が上がっていると言うのに、その髪は不自然にゆらめいている。

 ヴァクは大鎌を構え、真っ直ぐに大蛇を見据えていた。


「このバケモンがっ! 頭をぶったぎって皮を剥いで蒲焼きにしてやるっ!」


 こちらまで聞こえるほどに腹の底から大声をあげて、ヴァクは甲板を踏み締めた。反動で船体が揺れ動くほどの高さまで飛び上がると、両手で大釜を振り翳している。


--やぁーん! やめてぇっ!


 また先ほどの声が聞こえた。しかし、やはり声の主はわからない。

 飛び上がったヴァクを避けるように、大蛇が振り上げた尾をビタンと海面に叩きつけると、壁のように水面が盛り上がった。

 ヴァクの姿がその水壁に呑まれていく。

 同時に船体が今までにないほど激しく揺れた。ロキは慌てて床に座り込むが、船体は大きく沈んだと思ったら、反動で勢いよく浮かび上がった。


--ごめーん! 


「うっわぁぁぁぁぁっ!」


 巨人族らは堪えていたが、身軽なロキの体は宙に投げ出された。浮遊感に驚き中空をかくが、その手は何も掴むことができない。



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