第4話

 悲鳴を上げるかのように嘶いた馬は、混乱したのか前足を大きく振り上げた。木製の柵を踏みつけたその音に驚き、他の馬たちも前足を上げる。

 シタルや男たちが驚き声を上げて身をすくめた。

 ロキはその隙に、馬小屋の扉から外へと転がるように飛び出した。ただでさえ着古して黄ばんだシャツが土煙で汚れたが、そんなことを気にしている場合ではない。

 とりあえず、人の多いところへとロキは走った。しかし、たどり着いた村の中心部の通りで(とはいえ田舎なので人通りはまばらだが)、タークらに追いつかれてしまう。

 衣服を引っ張られた拍子にロキは前方につんのめり、そのまま地面にうつ伏せに押さえつけられてしまった。

 周囲にいた通行人が何事かと騒ぎに目を向けている。

 タークはロキの上に跨り、前髪を掴み上げる。ロキは無理やり背中を逸らすように引っ張られ、呻き声を上げた。


「おい! 怪我させるんじゃねぇぞ!」


 ドスドスと重たい足音が近づきシタルの声が聞こえる。


「た、助けて……」


 ロキは手を伸ばした。

 通行人の男がこちらを見ている。しかし視線を逸らすと何も見なかったと言いたげに、そそくさと立ち去ってしまった。

 その男だけではない。通りすがりの夫婦も、老人も、騒ぎを聞いて店から顔を覗かせた店主も、みんなロキの助けを求める声に応えることなく、一様に視線を逸らした。

 隣町の大商人や村の荒くれ者たちの不興を買ってまで、得体の知れない余所者であるロキを助けようとするものなどいなかったのだ。


「おら、立てよ!」


 乱暴に襟首を引っ張られ、喉が圧迫される。

 苦しいのと同時に、やたらと腹が立った。

 薬なんてなかったんだ。騙したやつにも、騙された自分にも、腹が立って仕方ない。


「くっ……そっぉっ!」


 ロキは先ほどと同じように今度は地面の砂を握った。勢いに任せて体ごと振り返り、タークの顔に向けて投げつける。


「うわっ!」


 タークは驚いて目を瞑ると、体を後ろにのけぞらせた。その隙にロキはタークの腕からするりと抜ける。

 誰も助けてくれないのなら、自分の力で逃げるしかない。今度ロキが目指すのは村の脇を流れる川だ。


「待てコラッ!」

「そっち行ったぞ!」

「回り込め!」

「殴るなら顔じゃなくて体だぞっ!」


 なんとも物騒な声が背中に降り注いだ。ロキは地面に手をつきあちこち壁にぶつかりながらもどうにかこうにか走り続け、川に降りる坂道を転がり落ちた。

 川幅は二馬身ほどで流れは穏やかだ。もっと上流は流れが早く、もっと下流は川幅が広いと聞いたこともあるが、なんせロキは村からいくらも離れたことがないので、それを確かめたことはない。

 川原には丸く角が削られた石が、大小幾つも転がっている。それで足を滑らせながらも、ロキは水面に飛びついた。

 銀色の鱗が指先や頬から徐々にロキを包み込んでゆく。やがて背ビレや尾ビレを纏い、ロキは銀の魚体を煌めかせる一匹の美しい鮭になった。

 ドプンッと音を立てて、その体は水中に沈んでいく。ゆらゆらと揺れる水面越しに、追いついたタークたちがあちこち首を振りながらロキの姿を探す様子が見えた。

 まさか、人が鮭に姿を変えるなどということは思ってもいないはずだ。彼らは川の中にも目を向けたが、今は暗い時間で尚且つ岩陰に隠れた鮭のロキを見つけられはしない。

 やがてこっちだあっちだとタークが指差し、男たちは村の中に向けて散り散りになった。まだロキを探す気なのだろう。

 ロキは鮭の姿のまま、騙されたことへの悔しさから尾ビレでパシンと水面を弾いた。

 ロキの住む小屋はこの川を登った、村の外れの更に外れの林の中にある。とにかく、家に帰ろうとロキはヒレを震わせた。

 流れに逆らわなければならないが、問題ない。何せ鮭なのだ。まあ、少し疲れはするけども。

 

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