地雷女vs空手男

なつくもえ

プロローグ 夕日の中での誓い


 古ビル二階の鉄戸を開ける。道場の室内は、窓からは射しこんだ夕日の光で茜色に染まっていた。

 入り口横、薄汚れた靴箱周りを除けば、室内の床は青の防音マットが敷き詰められている。使い古されたキックミットやグローブが置かれた棚、吊るされたボロいサンドバッグ、鍛錬用の砂袋などが壁周りに沿って設置され――道場の中央では、すでに着替えを終えた天宮先輩が正座を組んで黙想していた。


「――早いですね」


 西日を受けて赤く染まった彼女のうしろ姿をしばし見つめ、俺は思い切ったように声をかけた。

 天宮先輩は伏せていた顔を上げ、ポニーテールを揺らし俺の方を振り向くと、目を細めて微笑した。


「卒業生は帰るだけだからね。在校生の方が、片付けで面倒だったんじゃない?」

「大したことはないですよ」


 答えて、俺は荷物を下ろすと着替え用のパーテーションに入った。


「それにしても……果たし状なんて、時代錯誤なことをするな。キミは」


 カーテンの向こうで天宮先輩の笑い声が響く。


「果たし状って、そんなつもりはないですよ。ただ最後にもう一度、相手してもらいたかっただけです」


 白い道着に着替え、俺は洗い過ぎて色落ちした茶帯を締めた。


「そんなこと、言ってくれればいつでも受けたのに」


 パーテーションを開けると、腰に手を当てた天宮先輩がこちらを向いて立っていた。

 受験に入ってから髪は肩よりも長くなった。やや釣り目がちの大きな瞳。鼻筋の通った顔立ち。

 身長は一六〇を少し超えたくらいだが、今年の全日本でも彼女の相手になる者はいなかった。


「勉強で忙しかったんじゃないんですか。その前は大会の稽古もあったし」

「気を遣ってくれたの?」


 微笑に悪戯じみたものが混じる。俺は視線を外した。


「立会人もなし、か。……まあ、お互い手の内はわかってるし、潰し合うような組手がしたいわけじゃないでしょ?」


 問いの返事を待たず、先輩は重ねて言う。


「そりゃそうですよ。……まだ、俺が先輩に勝てるとは思えませんし」

「ふむ、謙虚じゃない」

「せめて黒帯取ってからと思ってたけど、もう、時間もないし」

「――そうだね」


 視線を彼女に戻す。不敵な笑顔がそこにあった。


「三分でいい?」


 膝を屈伸しながら天宮先輩が言う。軽くジャンプして、俺も身体の状態を整えにかかる。


「はい」


 シャドー二ラウンド。充分に身体を暖め、彼女と向き合う。

 道場の壁柱に張り付いたタイマーに先輩が手をやる。

 ピッ、というカウントを始める音。互いに礼をし、俺たちは構えて距離を測る。


「――しっ!」


 出入りの砂。半歩距離を詰めた天宮先輩の左下突きが右腹に突き刺さる。速くて重い。

 俺はすかさず右膝を返し、それ受けた天宮先輩は胸へのワンツー、左のフェイントから右上段回し蹴りを放つ。

 近距離での首に巻きつくような蹴りだ。かろうじて俺は防御し、たたらを踏んで後退。追い打ちをかけようとする彼女を左前蹴りで牽制する。

 距離が空いた。身長差はニ十センチ以上。リーチの長さなら俺が有利だ。


「――ふっ!」


 今度は俺から仕掛ける。左のインローからの上段蹴り。天宮先輩は軽い下段を前足に重心をかけて堪え、高い蹴りを右腕で受けると同時に踏み込んでくる。

 合わせて、俺は右中段回し蹴りを放つ。先輩は左脛で受け、受けた脚で返しの中段蹴り。肘で防ぎ、俺は左ストレートで間合いを作り右の膝に繋げる。

 右手で捌き、先輩は左脚を下げた。瞬間、彼女の左脚は滑らかな軌道を描き、俺の右側頭部に斬りかかる。

 かろうじて受けた――が、衝撃が強い。右腕が痺れ動きが止まる。追撃の右前蹴り。俺はバランスを崩し尻餅をついた。


「――どうした?」


 見下ろす天宮先輩。余裕の滲んだ笑みが顔に浮かぶ。


「もう終わりかい? 蔵坂暁くん」


 夕日の陽光を背にした彼女の姿は、その体躯以上に大きく見えて――美しかった。


「……まだまだ」


 額の汗を拭い、俺は立ち上がる。

 この人の動きに見惚れて、この人に追いつきたくて、空手を続けた。今までも、これからも。


「やっと身体が動いてきたところですよ」

「そうこなきゃね」


 楽しそうに言って、彼女は唇の端を吊り上げる。

 その表情と言葉に胸の中で何かが湧き上がり、それは身体中の神経を巡って俺を奮い立たす。

 俺は憧れていた。天宮さくらという存在に、どうしようもないほど、俺は憧れ焦がれていたのだ――。

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