第14話.風呂を堪能する

 畑仕事を終えて管理小屋に戻るガブリエラの脳内は一言で埋め尽くされていた。


(風呂釜は明るいうちに沸かす)


 土と汗にまみれた今、昨晩の失敗を繰り返すわけにはいかない。扉の前に立ったガブリエラは自身を見下ろして思った。


(靴も手袋も土まみれ……このまま室内に入っては床まで汚してしまうな)


 少し逡巡してから砂利の上でブーツを脱いだ。多少みっともないけれど外で着脱することにして、室内に入れないと決めたのだ。扉の脇にブーツを並べ、甲の部分に革手袋を置く。行儀は悪いと理解しつつも裸足で浴室まで駆け込んだ。騎士宿舎でもやらずにいたことをやってのけている自分の適応力はなかなかのものではないだろうか。


(贅沢に肩まで浸かってしまおうか)


 汲み上げポンプのハンドルを漕ぎながらこれからの入浴に思いを馳せる。

 手桶に溜まった水を風呂釜に移し替えてはハンドルを漕ぐの繰り返し。あれだけ畑を耕したというのに疲れを全く感じないのは、肉体労働後の入浴がご褒美に等しいからに違いない。

 ぎりぎりまで溜まった水に満足して浴室を出たガブリエラは騎士宿舎で室内履きに利用していたスリッパを引っ張り出して履くことにした。


(あぁ、楽だ……もうずっとこれでいいな)


 ランプを手に取り、スリッパのままで小屋の裏手に向かう。砂利敷きだから汚れないし、うるさくないのもいい。

 キッチンのかまどと同じ要領で火を灯してしばらく様子を見ていると、外壁に沿って組まれた煙突から白煙が上がる。ちゃんと機能していることに安心して再び居間に戻った。このとき、ようやく掛け時計に気を留めて現時刻に驚いた。


「昼を随分と回っているじゃないか、気付かなかった」


 ジェラルドのお茶のお陰か、さほど空腹は感じていない。喉を潤すくらいでいいかな、と食料用バスケットに詰め込んだ果物を吟味し、掌サイズのスイカを食すことにした。

 ざっくりと半分に切って皿に乗せただけのものにスプーンを添える。しかしまだテーブルには着かず、作り付けの棚からペンとインク、ノートを取り出した。いずれも購入したばかりの新品だ。


「枯れた草木を焼却。畑の一角を耕起。草木灰、肥料を混ぜて土壌改良を試みる」


 ここで腰を据え、今日行った仕事をノートに簡潔に記す。


「野焼きを行う際は前日までに相談役に知らせること。畑仕事の際は帽子を着用すること、と」


 ジェラルドから受けた指摘もそのまま書き添えた。

 ワーケンダー伯爵家の書斎で読んだ歴史書を意識して、日々の領内での出来事を書き残していくことにしたのだ。

 かつてこの地がエンバス王太子からどのような扱いを受けていたかを知る術がない。王太子本人が残さなかったのか、王家が秘しているだけなのか、それすらも定かではないから、もしガブリエラの後にこの地を継ぐ者が現れたときのために多少なりとも役立つものを残しておきたいと思った。


「あとは……何だろうな」


 特筆すべき事象があっただろうか、と今日を振り返りながらスイカを一欠片口に運ぶ。瑞々しくて甘くて美味しい。

 このスイカやバスケットに収まっている果物もジェラルドが勝手に購入を決めたものだった。清貧な生活を目指していたガブリエラには果物は贅沢な嗜好品に含まれるので、自腹を切って入手する機会は全くなかった。しかしこうして手元にあるのならば食べない選択肢はない。


(美味しいな)


 ついつい伸びる手に逆らわずスイカを味わっていて、ふと気付く。赤い実に点々と埋まった黒い種。そう、これもれっきとした種だ。


(畑に蒔いたら育つのでは?)


 ごくごく普通の疑問だった。スイカの栽培地を見たことはないのでどのように実が生るのかもわからない。

 はっと指南書の存在を思い出す。様々な植物の生態について記されているページを繰って、目当ての記載を見つけた。そこには畑に広々と蔓を伸ばすスイカの挿絵があり、春蒔きの種が夏に実をつけると書いてある。


(夏に実が生るはずなのに、この時季に出回っているのか)


 何の気なしに食べたスイカの実態を知って、これを育てた人がいるのだと思うと感慨深いものがあった。


(今まで気にしたことがなかったな)


 スイカは果物でもあり野菜でもある、と視線を落とすページに記されている。収穫までにさほど日数は掛からない、とも。

 スプーンで選り分けた種をじっと見つめる。もし発芽したら面白いな、と思った。

 その後、キッチンの片隅、洗われた食器の横で小皿にスイカの種が小さな山を作っていたのは言うまでもない。



◇◆◇



 スリッパを脱いで裸足になったガブリエラは浴室で風呂釜を観察していた。

 書き物を終え、小屋の周囲にぐるりと設置された常夜灯のオイルを補充し、再度苗鉢の様子を確認しているうちに日は傾き、空が茜色に染まり始めた頃だった。

 なみなみと張った水は仄かな湯気を立ち上らせ、その温度が上昇していることを視覚で伝えてくる。ではどのくらいの温かさなのかと指先を僅かに浸してみれば、すでに水ではなく湯と言えるほどにしっかりとした温もりが伝わってきた。


(よし、入ろう!)


 入浴に差し支えない温度と判断して着替えとタオルを用意した。

 初めて見た日から期待に胸を膨らませていたかまど風呂。畑仕事をして汗と土と疲労にまみれたこの身体を清めるためにようやく入ることが出来る。ガブリエラは内心で興奮を抑えきれない。

 艶出しタイルの上に汚れた衣類を脱ぎ置き、手桶で風呂釜から湯を掬って掛け湯をする。


「あぁ……」


 温かい湯が肌を滑り落ちていくだけで、どうしてこんなに気持ちいいのだろうか。

 今一度湯を汲んで肩から流し掛けたとき、左腕にピリッと痛みが走ってはっとする。


(そうだ、忘れていた)


 見下ろした二の腕には指一本ほどの長さの縦に走る裂傷。修道院で王女襲撃を阻止した際の傷だ。

 幸いにも深い怪我ではなく、皮膚は繋がっているので包帯はとっくに外していた。腕を動かす拍子にうっすら痛むこともあったが、痛みすら生活の一部になっていて負傷の事実をすっかり失念していた。


「何ともない、か」


 日中にあれだけ鍬や鋤を振るったけれど、傷口が悪化した様子はない。もう一度緩やかに湯を掛ければ熱に慣れたのか、今度は湯が肌を伝う感触だけを感じた。


(この地を下賜されると知ったときにはまだ止血していなかったっけ)


 王城の謁見の間で褒賞を言い伝えられたあの日はさほど遠い日ではないのに、ここ最近の日々が濃密に記憶されていて懐かしく思えてしまう。

 丹念に汗を洗い流したガブリエラはいよいよ風呂釜に浸かる瞬間を迎えた。やや高い位置にあるので釜のふちをしっかり握り、そろそろと片足を突っ込んだ。足先からじわりと伝わる熱が早く早くと全身を誘い込むような気持ち良さを伴っている。えい、と大股で風呂釜に入り込み、膝、腿、腹、胸と湯の中に身を沈めていった。


「はー……」


 肺の奥から息が漏れる。膝を三角に折り曲げて釜の縁に後頭部をもたせ掛けると身体から力が抜けていく感覚に襲われる。


「ずっとここで暮らしたい……」


 壁の高い場所に設えられた窓からは夕日が差し込み、浴室をオレンジ色に染め上げていた。そんな中、中木で休憩する小鳥たちのさえずりが微かに聞こえてくる。目を閉じると揺蕩う水音と相まって心地良い癒やしの音楽となった。


(こんな長閑な入浴は、それこそ五年ぶりかな)


 オークス家が没落するまでは当たり前だった長風呂も今となっては久しいものだ。あの頃は足を伸ばして入れた浴槽だったけれど、身を小さくして肩まで浸かるこの風呂釜も悪くない。

 無意識に動かした右手が左腕の二の腕を撫で、また傷のことを思い出す。と同時にぼんやりと気懸かりが呼び起こされた。


(姫様を襲ったあの女性はどうなったんだろう)


 隙だらけの動きであっさりと捕縛された、ぎょろぎょろと目を血走らせた女。人を襲うことに不慣れな様子は誰かと裏で繋がっている雰囲気は感じられなかった。

 捕縛後は取り調べを受けて然るべき罰を受けることになるのだが、それを審議するのは護衛騎士の役目ではない。怪我の治療としばらくの休日を与えられた後は犯人との接点などなく、そうこうしているうちに褒賞の話が出てしまった。


(団長に聞いておくべきだったか)


 それともジェラルドが何かを知っていないだろうか。尋ねてみてもいいかもしれない。


(姫様を襲うなど馬鹿なことをしたものだ)


 周囲にあれだけの護衛騎士がいるのだから、すぐに捕縛されるのは火を見るより明らかだ。後先も考えられないほどに切羽詰まっていたのか、それとも捕まることを前提にしでかした事件なのか。犯罪者心理はわからない。


(生み出すものなんて何もないのに)


 護衛騎士の一人を傷付け、本人は捕らえられた。害そうと狙った王女に刃を掠らせることもなく。何の思いも果たせずに女は罰されることになるのだ。

 愚かだ、と思う。

 うっすらと瞳を開き、オレンジ色に染まった浴室を焦点を定めずに眺める。


 甘言に惑わされて犯罪の片棒を担がされた挙げ句に全てを失った人々が脳裏をよぎる。貴族の資格を剥奪されただけで済んだのだからまだましと言えるかもしれないが、一端いっぱしの貴族として有り続けるために欲をかいた結果が没落なのだからお笑い種もいいところだ。

 両手で湯を掬ってばしゃりと顔を洗う。


(つまらないことを思い出すのは止めよう)


 勢いを付けて立ち上がったガブリエラは風呂釜から抜け出て洗濯に取り掛かった。

 汚れた衣類を濡らして専用の石鹸を擦り付ける。騎士団所属中に何度か経験しているので勝手はわかっているものの、素っ裸で洗濯をした経験はなく。途中で肌寒さを感じたら風呂釜に戻り、身体を温めてから洗濯を再開するという気ままな方法で作業を済ませると、次いで自身の汚れを落としに掛かる。


(あ、優しい香り)


 ジェラルドがぽいぽいと選んだうちのひとつに石鹸があった。ガブリエラ自身にこだわりはなかったので好きに選ばせておいたら、こんなにも香り高い石鹸を選んでいたとは。高級店で買ったわけではないから彼に備わった審美眼がものを言ったのだろうか。

 もこもこ柔らかい泡で身体を撫でていくと肌の表面からぬめりが落ちてさっぱりとした感覚が戻ってくる。


(落ち着くな……)


 癒やしの匂いに包まれて髪まで洗いきったガブリエラは顎が水面に触れるほどにしっかりと風呂釜に身を浸した。

 心地良い温度に穏やかな香り、風が起こすざわめきと小鳥たちのささやかなおしゃべりを堪能しながら、管理小屋で初めての入浴を終えた。

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