第2話 恋人の形
人生には様々な岐路が存在する。
その岐路の分だけ、人生の羅針盤が存在し。
時にはその羅針盤を止めて、立ち止まる事も必要だ。
でもその羅針盤を止められなかったら・・・。
「今日もありがとうございました」
「こちらこそ。いつもながら音楽関係の解説は評判が良いですよ」
「添乗員の岸さんにそう言っていただけると本当に嬉しいです」
「特に楽友協会とかね」
「あっまあ、音楽をやっていましたから」ちょっと見栄をはる。
「そうか、美保さん、ピアニストですものね」
「あっ、いや」ピアニストと言うのはちょっとこそばゆい。
話をごまかす。
「今日の客は、ほぼ新婚旅行の人ばかりみたいでしたけど、そういうツアーだったんですか」
「そういう訳でもないんだけれど。ツアー自体が高額なんで、どうしてもそういう人ばかりなのよ」
「一生に一度の思い出、という感じですね」
「ええ」
仕事を終えた私は小さなアパートに帰る。
仕事はツアーガイドだ。
ピアニストと言われて否定しなかった。
これも小さな見栄かなと思う。
あと少しで三十代が終わる。言うところのアラフォーというやつか。
今日の新婚カップルたちを見て、ちょっと複雑だ。
私は音楽を捨てられなかった。
自分の力量にある程度自信もあった。
だからこのウイーンに留学したかった。
ピアノに突っ走らなければ、あんな風に、このウイーンに旅行客として孝と来れたかもしれない。でも間違ったとは思いたくはない。
そもそもピアニストは嘘ではない。
これでも音大主席だ。そのままの勢いで、卒業後ウイーンへの留学を決めた。
渋る両親を説得して、恋人の孝に別れを告げて、私にはピアニストとして、輝かしい未来があるはずだった。
でも世の中は甘くない。
卒業して始めはパブのようなところで弾いたりしていたが、それも卒業後五年くらいで声もかからなくなった。
思えばその時に羅針盤を止めていれば、日本で別の人生があったかもしれない。
もし孝が待っていてくれていたら、孝と普通に結婚して、普通の家庭をもっていたかもしれない。
でも私は諦められなかった。
両親や、孝に大見得を切った。
絶対にピアニストになって、日本に帰って来ると。
だから今更帰れない。そんな恥ずかしいことは出来ない。
でもそのせいで私は、このウイーンで細々とガイドなんかをしながら食いつないでいる。
もう自分がピアノを弾けることさえ忘れかけているのに。
日本に帰りたくないと言えば嘘になる。
「ガイドさん、ピアニストなんですか」と新婚カップルに尋ねられた。
「ええ、一応」
「どおりで楽友協会の解説素敵でした。すごいですね。ウイーン在住のピアニストに楽友協会の解説してもらえるなんて。やっぱり思い切ってこのツアーにして良かったね」
「本当だね。高かったけど」
「そんなこと言わないの。新婚旅行なんだから」
「おふたり、お幸せになってくださいね」
私は新婚カップルから離れる。
こんな風に言われることは珍しくない。
だから日本になんか帰れない。
「美保」と声を掛けられた。
「えっ」私は、声の方を向いた。
「たかし、孝なの」
「そうだ。このツアーのガイドやっているって聞いて来た。探したよ。ウイーンなんて全然分からないし、言葉だって」
「なんでここに」
止められなかった羅針盤が止まった瞬間だった。
ウイーンでも一番安いレストランで食事をした。
孝は、何も変っていない。
あの時から孝は止まったままだ。
「美保、いつ帰って来るんだ」
「帰らないよ、だってこっちの生活、凄く充実していて、楽しいし」
「ピアノは?」
「弾いているよ」
「どこで、いつ」
「どこって・・・」
「俺の時間は止まったままだ」
「なんで。孝、普通に就職したよね。あれから十五年だよ。結婚して、子供つくって。家が手狭になったと言い合ってさ。背伸びして住宅ローン組んで、毎月少ないお小遣いで。
でも、休みの日には奥さんと子供と一緒にどこかに出かけて。疲れ切って次の日会社に行って、上司から家族サービスは程々にって怒られてさ。ヤダあたしなんで、泣いているんだろう」
「美保、美保。俺はそれを、お前としたいんだ」
「えっ」
「俺、お前の夢かなえてやりたかった。だからそんな些細なことはおれが我慢すれば良いと思っていた。でも、お前じゃなきゃだめなんだ」
「でも、あたし。ピアノをやるために・・・」孝は私を見つめる。
もう私にピアノはないことが分かっているかのように。
「ピアノ、諦めてくれ。みんなには、俺が無理矢理ピアノを諦めさせたって言う。俺が美保の夢を諦めさせて。無理矢理連れて帰って来たって言うつもりだ。だからお前だってしょうがなくピアノを諦めて、俺のために日本に帰って来る、そうだろ」
「そんな事」
「そんなことだろ」
「そんなに、優しくしないでよ。あたしボロボロなんだから。良いんだよ。抱きしめてくれるだけで、良いんだよ」
止まっていた羅針盤が、別の形で動きだした瞬間だった。
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