止められなかった羅針盤
帆尊歩
第1話 二人の形
人生には様々な岐路が存在する。
その岐路の分だけ、人生の羅針盤が存在し。
時にはその羅針盤を止めて、立ち止まる事も必要だ。
でもその羅針盤を止められなかったら・・・。
本棚から崩れてきたものは大量の書類だった。
一人暮らしはとかく物がたまる。
絶対に使わないものや、どう考えてもいらないもの、将来、もしかしたら使うかも、でとってあるもの。
特に深刻なのは、紙だ。
中でも年賀状。
これは捨てられない。
崩れ落ちて来たのは聡美からの年賀状だ。
聡美からは毎年来るので三十枚ある。
何気なしに見ていく、聡美の人生がそこにつづられている。
入社したころ。
彼氏が出来たこと。
会社を辞めて結婚したこと。
子供が出来たこと。
家族の成長。
そんなものに感情は動かされなかった。
あたしは勝ち組だ。
聡美は脱落者だ。
でも聡美の幸せはなんとなく、胸くそ悪い。
どうしてだろう。
認めたくはないけれど。
羨ましいのか?
今年の年賀状は「孫の世話をさせられて、大変です。今更ながら忘れてしまった子育てを、もう一度思い返している今日この頃です」あたしには忘れてしまえるような子育てだってなかったのに。
五十を超えて、なんの不自由もない。
キャリアウーマンと呼ばれ、マンションも買った。
独身を謳歌してきた。
仕事だって順調だ、早々といなくなった聡美当ての年賀状には、係長になりました。
課長補佐になりました。
課長になりました。
次長になりました。
部長になりました。
思えばくだらない報告だ。
最近は聡美の年賀状に、なぜ負けているのかと、考えることもある。
いやいや、心を奮い立たせて、あたしが勝ち組、聡美は、負け組と暗示に掛ける。
「圭子、あたし。孝一さんと結婚しようと考えているの。どう思う」二人で残業した後にご飯を食べに行ったときだ。
「おめでとう、と言いたいところだけど。仕事は?」
「もちろん辞める」
「もったいないよ、あたしたち二十五歳でやっと認められてきたのに。これからじゃない。聡美だって、やっと仕事任されて。あれうまく行けば係長になれるよ」
それが三十年前だ。
結局聡美は結婚して会社を辞めた。
あたしはそのままがんばって、仕事を続けた。
おかげで今じゃ部長と呼ばれている。
でもこの年で、男で、私のキャリアなら、役員になっている。
結局は、聡美が会社を辞めて得た物、それを私は捨ててきたのに、いったい何が残った。
このマンションと。
車と、貯金。
どこで間違えたのだろう。
私だって付き合った男性はいた。
結婚だって考えた。
結局、収入が私より少なかったとか。
会社の規模が小さかったとか、今にして見ればどうでもいいこと。
人生の羅針盤をちょっとだけでも止めていれば。
「部長、メシでも行きましょうよ」
「良いけど、って、あなたは取締役で、私の上司でしょう。何よそれ」
「いや部長を部下なんて思えませんよ。だってうちの部署の実績は僕ら、というか部長の実績が大きい。取締役になるなら僕じゃなく部長だ」
「仕方ないでしょう。取引相手はガテン系ばかり、責任者が私じゃ押さえられない」
「にしても」
「いいの。状況が分かると、我が儘は言えない。あなたの方が、抑えが効く。私じゃあ、なめられるだけ。頼りにしてますよ。第三営業本部長」と言ってあたしは元部下の上司の肩を思い切りたたいた。
ちょっと前のあたしが上司のころなら、パワハラと言われそうだけれど。
止められなかった羅針盤が止まった瞬間だった。
「あー、ビールがうまい。初仕事、うまくいって良かったね、本部長」あたしは居酒屋で上司の肩をたたいた。
「部長のおかげですよ」
「いや、あんたの貫禄のせいだよ。あたしじゃあ、ああはいかなかった。やっぱり最後の押しは、男なんだよね。悔しいけど。でも上司が、あんたなら許す。頑張れ、本部長。部長のあたしがついているぞ」
「すでに出来あがっているじゃないですか」
「出来上がってなんてないぞ。まだまだこれからだ、人生は」
「いや、いや、思い切り出来上がってますって。でも頼りにしてます」と言って二つ年下の元部下の上司は頭を下げた。
「あっそうだ。聡美、覚えてる」
「圭子さんの同期の聡美先輩ですよね」
「あいつ、おばあちゃんになったのよ」
「そうなんですか」
「年取るわけだわ。あれ、そういえばあんた、奥さんの」
「はい。来月三回忌です」
「そっかー、早いね」
「年取るわけですよね。でも以外とじわじわくるんですよね」
「なにが」
「寂しいって事に」
「何言ってんのよ。奥さんと楽しい生活を何十年も過ごしたんだから。あたしなんかずっとお一人だぞ。てね」
「部長、さらに回ってます?」
「イヤ別に」
「圭子さんは、一人で寂しくないですか」
「なによそれ、急に名前で呼ぶな。あたしは別に寂しくなんか」
「俺は寂しい。圭子さんは、上司で、先輩で、年上で。でも今は俺が上司です」
「だから何よ」
止まっていた羅針盤が別の形で動きだした瞬間だった。
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