灼熱のパイクタウン
蛇ノ目魚ノ目
第1話
いつも薄暗い部屋の中で、ある日妹がふと言った。
「本物の光が見たい」
僕はというと、ついに頭がおかしくなったのかと思いこう返した。
「……死ぬ気か?」
本物の光とは、つまり太陽の光のことであろう。今では過去の映像以外で見ることが叶わなくなったそれを生で見ようとすれば、必然的に出ていかなければならない。
今や地表温度摂氏80℃超は当たり前の地獄と化した、地上へである。
僕らが住むここは数十階層にも及ぶ地下世界。地上の灼熱から逃れるため数百メートルの深さに渡って掘り抜かれた巨大な
地上への距離は、すなわち死への距離だった。
【14】
「で、連れてってやんのかい」
「仕方ないさ、妹の頼みだ」
ホクロ屋のオバァといえば14階層では知らぬ者のいない名うての調達屋だ。
鼻の横っちょにある干しブドウみたいな大きなホクロが店名の由来と信じていたのは僕だけじゃなく、本当の店名が「
「まずはいつものパッチを頼むよ。最優先で欲しい」
「ああ、またアプデがかかってたからそうだろうと思ってたよ。ちょっと待ちな、――ほら」
カウンターの裏からオバァが差し出してきたのは切手サイズの紙片だ。特定の脳アプリに干渉して機能をこっそりと誤魔化すためのパッチで、それの最新版。紙片の表面には「2077/8/19版_最新版_本当.batのコピー(2)」と印字されている。僕の来店を見越して突貫で用意しておいてくれたらしい。僕はそれを舌の上に乗せて裏面のサイケな苦味をゆっくりと浸透させる。オバァは今では珍しくなった、味覚からのインストール方式を好んで用いる。
一昨日に更新がかかった久遠グループ謹製脳アプリ〈勤労感謝の日々〉はその名の通り住民の勤労意欲向上を目的としたアプリだ。モールの住民は15歳になるとインストールが義務付けられていて、規定の時間労働を行わないでいると、期間に応じて大音量の社歌を始めとした様々な勤労勧奨プログラムが脳内に流される仕組みだ。久遠グループは「産めよ増やせよ働けよ」を社是に掲げるモーレツ日本企業なのだ。
僕はと言うと、15歳を迎えて以来実に3年もの長きに渡って久遠グループが求めてくる正規の「仕事」に就いていない。普段の食い扶持はもっぱらオバァの使いっ走りのようなもので、欺瞞パッチが無ければ押し寄せる勤労勧奨プログラムの荒波でとっくの昔に廃人となっていたに違いない。
アプリの更新により今まで騙せていたサボりカウンターが再起動し、この二日間脳内でがなり立てていた社歌が薬液の浸透と共にゆっくりと遠ざかっていくのを感じながら、僕はパッチの分も含めてまとまった枚数の日本銀行券をカウンターに置いていく。
16階層より下では久遠Payによる電子決済以外はほとんど受け付けてもらえないが、この辺りではまだまだ現金のほうが都合がいい。
「で、地上を目指すから他にも色々用意してほしくてさ」
「つってもねぇ、あからさまな武器はお上に目を付けられるから……ほら、こんなもんくらいしか無いよ」
そう言ってオバァが引っ張り出してきたいくつかの品はなるほど確かに武器ではなかったが、オバァが渡してくるからには間違いなく違法に手が加わっているはずで、使い方次第で必ず役に立つだろう。
「あとはまぁ、これもか。正直、地上に出て生きていけるとは思えんけど、せめて無事は祈っておいてやるよ」
最後のひと品は内側にペルチェ素子のプレートを装甲よろしく敷き詰めた冷却ジャケットだった。大容量の携帯バッテリーももちろん付いている。地上に出るなら絶対に必要になるものだ。
「充分だよ。もう会うこともないだろうけど、最後まで世話になっ――」
店の外から複数の悲鳴と慌ただしい足音が聞こえてきたのはその時だった。
「ち、ちくしょう! あいつらいきなり来やがって――おい、バァさんも早く逃げろ! 奴らだ――久遠の執行部隊だ!」
オバァの店の前を駆け抜けざまに告げていった男に遅れて、14階層に拡声器を通した大声が響き渡る。
『えー、テステス。14階層の皆さん、あなた方には久遠グループの定めた正しい労働の理念に反する違法な生活の疑いがかけられています。監査への協力は当モールの住民に義務付けられており、速やかに我々の指示に従い――そこぉ! 跪いて両手を上げんかぁ!』
執行部隊の大音声、彼らが駆る三輪バギーの走行音、ゴム弾の掃射音、ガラスの破砕音、住民の悲鳴。それらが渾然一体となった混沌が階層の端から迫っている。
モールに住むすべての住民に自社の管理下で整然と労働させたいと考える久遠グループは、当局の目が届きにくい上層階へ抜き打ちで執行部隊を送り込むことがある。彼らに捕まれば脳アプリを誤魔化す違法なパッチなどひとたまりもなく削除され、水耕プラントの
「ああ、こりゃいかんね。あんた、さっさと逃げな。なぁに、ワシらはこんなの慣れっこじゃから逃げおおせてみせるさね」
「――無事で!」
裏手の隠し扉から飛び出し、オバァと逆方向へ走り出す。迫る音からしてかなり大規模な監査だ。おそらく14階層だけでは済まないだろう。僕はフロアの隅の防火扉をこじ開けると、真っ暗な階段室を駆け上がり上層を目指した。
【14→11】
「兄さん!」
数時間かかって11階層にたどり着いたところで、階段の陰から飛び出してきた妹と合流する。
ここで紹介しておこう。
年は14歳。同じ保育施設で育っただけで血は繋がっていない。背は低めで細身。僕と同じ髪に僕と同じ目の色をしていて、血の繋がりはないはずなのにどこか雰囲気が似ている。犬が好きでいつも飼いたい飼いたいとうるさいが、このモールでそんなものを飼えるのは30階層より下の富裕層ぐらいなので、僕は彼女の誕生日のたびに必死で説得する羽目になる。目に入れても痛くない、僕の愛する妹だ。
「おまたせ。心細かったろ?」
「うん、でも兄さんならぜったい迎えに来てくれると思ってたから」
ここから上の階へはこの階段は繋がっていないから、11階層を横断して10階層へ繋がる道を探さなければならない。何度か訪れたことはあるとはいえ、上層ほど治安が悪いこのモールにあって、ここが生きた人間の住む最上階であることを考えるととても安心できたものじゃない。
「よっ――と」
僕は11階層へ繋がる防火扉のロックを壊すと、リュックからオバァにもらった武器をひとつ取り出して右手に構えた。圧縮空気式のネイルガン――先端を押し付けなくても発射できるよう改造されている。
「じゃあ、行くよ? 僕から離れないようについてくるんだ。何か怪しいものを見つけたら教えてくれ」
「うん、わかった」
神妙な顔で妹が頷くのを見届けると、僕はそうっと防火扉を押し開けた。僅かな隙間が開いただけで漏れ出してくるのは上層階特有の蒸し暑い空気だ。地熱ジェネレーターの電力は下層階に優先で割り振られるため、ここまで上のフロアとなると空調も照明もほぼ機能していない。生活に最低限必要な電力は無断で設置された自家発電装置が頼りだ。
「わ……なんか、散らかってるね?」
妹の感想は端的だが的を射ている。同じ上層階という括りでも、14階層と比べるとだいぶ荒れ方がひどい。ガラスというガラスが砕け散り、壁という壁が落書きで埋まっているのは以前オバァの使いで訪れたときから何も変わっていない。
ただ――静かすぎる。
事実上久遠の支配から見放されたことで、猥雑で退廃的だが自由と活気に満ちていたはずの11階層は、在りし日の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
住民の姿が無いのだ。十歩も歩けば絡んできたはずのモヒカンたちが一人も姿を見せない。代わりにフロアのタイルに刻まれているこれは――三輪バギーのタイヤ痕?
「隠れろっ」
通路の奥、角の向こうから僅かに響く複数人の足音を聞きつけ、僕と妹は手近な飲食店の座席にしゃがみこんだ。原材料は下水管直送の再生食ダイナーの前を、完全武装の久遠執行部隊が通り過ぎていく。14階層を襲ったのとは別部隊だろう――おそらく15階層より上、いわゆる上層階と呼ばれるフロア全てに同時に執行部隊が送り込まれているらしい。
「11階層なんて今までの監査でもほとんどシカトされてたのに……なんで今になって……」
まさか返事が返るとは思っていなかった。
「限界が近づいてるからさ。脳アプリで人格を壊した安価な労働力が必要になっている。下層の住民のためにな」
「なっ!?」
振り向けば、奥の8人席に一人で腰掛けた若い執行部隊員が茶色いシチューを飲み干すところだった。
「再生食とはどんなものかと食べてみたが――この階層ではこんなものしか食べるものがないのか。まともな労働力になる体を維持できているのか疑問だな」
「君は……」
黒のアラミドジャケットに防刃ベスト、光源の乏しい上層階用の暗視ゴーグルを首に下げ、ゴム弾装填の小銃を背負ったその男に、僕は見覚えがあった。
「3年ぶりか。あの選抜試験以来見ていなかったが……まさか今もこんな階層にいるとはな。正直目を疑ったぞ」
僕と同じ年のその男は、僕と同じ保育施設で育ち、同じ日に同じ試験を受けに行った仲だった。適性審査をパスし、このモール社会において管理者側の手駒として住民たちを監視する、執行部隊員の選抜試験を、だ。
彼は受かり、僕は彼らに背を向けたまま3年が経過した。
「……労働力を確保するために、上層の住民を根こそぎ下層に連れて行くっていうのか? 今までさんざん放っておいたのに?」
「久遠のモールに住んで致死の太陽光から守られておいて、久遠の支配からは逃れたいというのが虫のいい話なんだよ。……このフロアの住民はすべて連行しろと言われている。かつては同じ夢を抱いたお前も例外じゃない」
破れたソファからゆっくりと立ち上がり、緩慢に思える動作で小銃を構える彼から僕は目を離せない。目を逸らした瞬間ゴム弾の斉射を浴びて気付いた時には自我を奪われているかもしれない。
「みぎっ!」
だから、ダイナーの外から放たれたその斉射を躱せたのは妹の警告のおかげだった。
傍らのテーブルを蹴倒し、身を投げ出すようにその陰に飛び込む。直後に右から着弾したゴム弾が合板の上で驟雨の如き音を散らした。
「何だとっ!?」
一拍遅れて店内の「彼」も小銃の引き金を引いたが、その時には僕はもう割れたウィンドウから通路へと飛び出していた。
角に潜んでいた4人の執行部隊へ向かって二度の跳躍で肉薄。シールドされていない両手足の関節部へネイルガンを全弾発射。実弾もかくやの勢いで飛ぶ鉄釘が4人をその場に縫い止めた。
手足を釘が貫通しているというのに悲鳴一つ上がらないのは、脳アプリ〈主の御言葉〉による神経結線で遠隔操作された下級隊員だからだろう。僕と「彼」が受けた選抜試験を通れば執行部隊の指揮官位が与えられるという触れ込みに嘘はなかったらしい。
「行くよ! ついておいで!」
用済みになったネイルガンを捨て、「彼」の出現からいつの間にか姿を消していた妹に声をかけ僕は一目散に走り出す。姿は見えなくても間違いなくついてきているはずだ。
雑魚ならともかく、正規の装備と戦闘経験を得ている「彼」と正面からやり合って勝ち目があるとは思えなかった。僕はさらに上の階へと抜けるための扉を探すことを最優先とする。
「しゃがんで!」
妹が警告。僕は後ろも見ずにヘッドスライディングをかけた。0.2秒前まで僕の頭があった場所をゴム弾が通過するのを感じながら、通路の手すりを掴みベクトルを90度変更、横道へと飛び込むと一回転して起き上がる。一瞬視界をかすめた「彼」が驚愕の表情を浮かべるのが見えた気がした。
本来はまだ隠れている11階層の住民を探すためだったのだろう、その後もフロアのあちこちで下級執行隊員の部隊を見かけた。どうやらこの階層に派遣された指揮官は「彼」一人らしく、僕と妹の二人がかりの索敵によってどうにか見つかることなく11階層を駆け抜けることができた。
今、僕の目の前には銀行の金庫を思わせる巨大で分厚い扉が聳え立っている。ここまでの階層間を隔てる防火扉とは明らかに一線を画する厳重さだった。
無理もない。この扉の向こうは第10階層。かつての人類が灼熱の太陽光から逃れるため放棄したフロアである。
僕はペルチェ素子の敷き詰められた上着を羽織ると、リュックからもう一つ、指先から肘くらいまでの長さがあるハンダごてを取り出した。携帯バッテリーの電力は冷却服の命綱だが、そもそも外に出られなくては意味がない。
バッテリーとハンダごてを繋ぎ、金属部分が充分に熱を持つのを待って扉に押し当てる。オバァが僕の地上行きというリクエストに応えたチョイスに間違いはなく、確実に違法改造されたハンダごての先端が分厚い金属扉へずぶずぶと埋まっていく。ありがたいけどイカれた出力だった。素手で持ってて大丈夫なのかこれ。
「この向こうが外?」
「もう少しかな。あと10階分は昔のショッピングモールを抜けなきゃだけど、ここから下と違って各階が低いから――」
「うしろ」
妹と話しながら作業を進め、どうにか一人分の穴を開けたところだった。僕が気付くよりも早く妹の声で追いつかれたことを知る。
「ただ逃げ回っているにしては不自然とは思ったが……お前、いったい何をしている!?」
振り返ると、そこにあったのは案の定「彼」の姿だった。小銃の銃口は僕の背中をぴたりとマウントし、左手の電磁警棒を盾のように構えている。
「……見ての通りだよ。僕は地上に行く」
「イカれたのか!? 何故わざわざ死にに行くような真似を!」
「妹が太陽を見たいっていうんだ。それだけだよ」
「妹……!?」
そこで会話を打ち切り、僕は目の前のちっぽけな穴に飛び込んだ。その先には資材を運び込むための斜路がゆるくカーブしながら上に続いている。背後で「彼」の小銃が火を吹いたが、幸い冷却服の金属板が防弾ベストのように食い止めてくれた。
駆け上がる足がいくつも、干からびた丸太のような障害物を踏む。暗くてはっきりとは見えないしそれを幸いとも思う。数十年前、10階層と11階層を隔てる扉が閉じられた際には、取り残された何人もの人々が必死で縋り付いていたというから。
昇るにつれ、空気が灼熱を帯びていく。
【11→10】
「……これが、本物の光?」
「ああ、もう少し昇らないと太陽はまだ見えないけど」
初めて見る10階層の光景は、荒れ果てていることを除けば資料で見たショッピングモールの姿そのままだ。
後からシェルターとして増築された11階層以下と違い、地上3階地下10階のこの施設こそが本来の久遠モール越谷パイクタウンである。中央の吹き抜けからもわかる通り、遮光どころかむしろできるだけ外の光を取り込む作りになっていて、営業していた頃は地下であるにも関わらずさぞかし明るい雰囲気だったのだろう。
降り注ぐ太陽光はこの深度でも充分に死を感じさせる。呼吸するたび肺が灼けるようで、僕はたまらず冷却服の電源を入れた。シェルターから締め出された人々の壮絶な最期を伺わせるように、そこら中にミイラ化した死体が転がっている。
ただ、光量の乏しい上層階の薄暗さが嘘のようなその明るさに僕は一瞬見とれた。そしてその隙を見逃す「彼」ではなかった。
「まえ」
妹の警告に従い前方に身を投げ出す。僕の後頭部を狙って振り抜かれた電磁警棒をかろうじて躱し、前転して「彼」に向き直る。
「……こんなところまで追ってくるとは思わなかったよ。外に出ても死ぬだけと思うなら放っておいてくれてもいいんじゃないか?」
小銃を捨て、警棒を構えた「彼」は何故だかとても怒った顔をしていた。
「まただ……完全に不意を打ったはずなのに、何故か寸前で躱される。それにお前……さっきから、いったい誰と話している……!?」
「………………」
そこに触れるのか。もう気付いているのだろうに、君がそれを訊くのか。
「……言っただろ。妹だよ。妹が僕が気づいてないほんの微かな物音とか、一瞬だけ見えた姿とかを教えてくれるおかげだよ」
「妹……、妹……! まさか、お前……まだ、そいつを『殺して』いないのか!!」
「そうだよ。この3年、ずっと妹と一緒だった。久遠の選抜試験を合格もリタイヤもせずに、ずっと」
最初に聞いた時はふざけた名前だとみんな笑った。
〈妹.exe〉。久遠の執行部隊選抜試験、適性審査の初日にインストールさせられた脳アプリだ。
前世紀のとある逸話を元にしているらしい。これから始まる過酷な適性審査の日々で精神の健康を保つため、インストールした脳内に各自の「理想の妹」を住まわせる。みんな最初は馬鹿にしたり斜に構えたりしていたが、審査中ほんとうに過酷な生活が続くに従い、いつしか誰もが脳内の「妹」に励まされ元気付けられるようになっていた。
そして審査の最終日。選抜試験の最後の課題が、すっかり心の支えとなった「妹」を――自らの手で殺すことだった。
それが〈妹.exe〉、正式名称〈妹.execution〉の本当の役割だったのだ。
「そんな人間、お前の脳内にしかいないんだぞ! 何を言われようがただの妄想の産物だ! お前は、3年もの間ずっとそんなモノを大事に……!?」
「……そうだな。君は違った。支えだった妹を殺して、大事なものでも切り捨てられる強さと久遠への忠誠心を証明してみせた。僕は自分の脳が作り出した空想の妹のために人生を棒に振った」
それでも、妹の存在が、薄暗い地下世界で生きる僕にとっては光そのものだったんだよ。
だから、「彼」に対して言えることはもう何も無いのだ。親友と呼べるはずだった僕と「彼」とは、もう生き方を完全に違えてしまった。
「……妄想の妹に言われて地上に出る? それは……そんなのは……単なるお前の自殺願望なんじゃないのか……?」
「………………」
いつも薄暗い部屋の中で、ある日妹がふと言った。
『本物の光が見たい』
僕はというと、ついに自分の頭がおかしくなったのかと思いこう返した。
『……死ぬ気か?』
違法パッチで〈勤労感謝の日々〉を誤魔化し、光の差さない上層階で底辺の生活を送る自分が無意識に抱いた自殺願望。それが妹の望みという形で顕れたんじゃないのか。それならそれでいいと思った。愛する妹の頼みを聞いて人生を終わらせるという物語も悪くないんじゃないかと思った。
でも。
『そんなことないよ。……こんな暗いところじゃなくってさ、兄さんと楽しく生きていくために、もっと明るい世界に出ていきたい』
妹は。僕の空想に過ぎない妹は、単なる妄執なのかもしれない妹は、僕にとってただただ都合の良いだけの存在として生まれてきた妹は、僕が密かに抱えていた望みを教えてくれた。
僕は、こんなクソみたいな穴蔵を飛び出して、明るい世界を見てみたい。
だから、妹の誘いに乗って本物の光を目指してみよう。そう思ったんだ。
「言ってもどうせ分からないよ。君にはさ」
脳アプリ〈疾風怒濤/偽〉を起動。加速した神経速度により立ち昇る陽炎すらもスローモーションになった世界で、通電したままのハンダごてを突き入れる。
「下らん……! そんな自己満足のために死ぬくらいなら、せめて久遠の肥料にでもなれ!」
「彼」の脚が大腿部から展開。タカアシガニを思わせる異形の姿に変化する。脳アプリによる神経加速とそれを十全に活かす身体
のを、空気の流れで捉えていた僕の無意識が、妹の警告という形を取って言語化した。
「とんで!」
跳んだ。モール中央の吹き抜けを利用して一つ上の階に着地する。【10→9】
間を置かず「彼」も同じ階に跳躍。脚が増えたぶん僕よりよほど危なげない機動だった。
突き、払い、
登山、サーフィン、キャンプ、ゴルフ。今となっては虚しい用具店の前を駆け抜けながら、1秒の間に数十合の剣戟を交わす。互いに火の入ったハンダごてと電磁警棒。身に受ければどちらも必殺だった。
【9→8→6→7→5→3→4→3】
目まぐるしく階層を渡りながら斬り結び続ける。言うまでもなく僕の方が不利だ。戦闘用の脳アプリは海賊版。「彼」が使う正規版より性能は劣るし、身体
唯一の勝機が、僕はオバァの助力を得られているということだった。
オバァを名うての調達屋たらしめる最大の要因が、客の目的を汲み最善の備えをしてくれるという点だ。
つまり、僕の地上行きを必ず阻むのが10階層へ繋がる扉であるのは間違いないが、はたしてそれが物理錠であるのか電子錠であるのかはたどり着いてみなければ分からない。結果として前者だったので力任せの突破を選んだが、後者だった場合の備えが今、僕の舌の上でサイケな甘みを浸透させ終えた。
味覚インストール――脳アプリ〈主の御言葉/偽〉を起動。
「なっ――にぃっ!?」
神経結線のターゲットは「彼」本人ではない――タカアシガニを思わせるクローム製の下半身、生き物さながらの有機的な動きを可能としていたその電子制御だ。
ほんの一瞬、ただ一度きりで充分だった。「彼」が2階層へと跳躍した僕を追って空中に身を躍らせた瞬間、〈主の御言葉/偽〉が乗っ取りを仕掛けた。支える物のない空中で制御を失い、無防備な様を晒す「彼」の下半身へ、僕は手すりを蹴って反転――頭から落下しながらハンダごてを突き刺し、中枢基板をぐずぐずに焼き切りながら振り抜いた。
勝った――。少なくとも「彼」はもう、この脚では僕と妹が地上へ出るのを阻むことはできない。そう思い、もつれ合いながら心地よい浮遊感に身を任せた矢先だった。
切り札を残していたのは僕だけではなかった。「彼」が右手に持つ情報端末を僕の耳に押し当てると、そのスピーカーから、金切り声と銅鑼声を混ぜたような不協和音が最大音量で鳴り響く。
聴覚インストール――今さら、何の脳アプリを?
答えはすぐに分かった。〈勤労感謝の日々〉――クリーンインストール。欺瞞パッチで糊塗された僕の脳内の〈勤労感謝の日々〉が削除され、まっさらな、最新版が再インストールされる。
「ガっ――あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!」
脳内に根を張ったそれはすぐさま僕のステータスをスキャン、3年に及ぶサボりを暴き上げると、容赦のない神罰を下した。
耳の中でがなり立てる社歌など物の数ではない。血管に硫酸を流し込まれたような激痛。ここまで不労期間が長いと更生不可能と見なされ、一度人格を白紙に戻してから「作り直す」と聞かされてはいたが、これは――!
「……投降、しろ。久遠に忠誠を誓うなら、俺が口を利いてやる」
二人して重なり合うように3階層の床に倒れていることすらすぐには分からなかった。もちろん、「彼」の声も僕の耳には届いていない。ただ、
視線の先に、地下駐車場へ繋がる扉を指差す妹の姿を認めて、僕は一瞬だけ痛みを忘れた。
立ち上がる。背後で誰かが何か叫んでいる。うるさい。這いずるように歩き出す。ガラスの破れた扉をくぐり、真っ暗な駐車場に踏み入った。墓標のような車の群れを通り過ぎ、緩やかな螺旋を描くスロープを昇りだす。
「兄さん」 うん 「もうすぐだね」 うん 「だいじょうぶ?」 もちろんさ
「兄さん」 うん 「ほら、みて」 なにを?
「太陽だよ」
スロープの出口、妹の指の先にあるのは、ちょうど西の空に沈みゆく、太陽だった。
あはは、と妹が笑う。まぶしいね、と笑う。そうか、これが、眩しいって気持ちなのか。あの暗い地下世界では、こんな気持ちになったことは一度もなかった。
「行こ」
妹が僕の手を引く。空想のはずの妹に引っ張られて僕はまた歩き出す。痛みはどんどん増していく。オバァのくれたジャケットはもういくらも保たないだろう。灼熱の太陽は僕の皮膚を一秒ごとに焦がしていく。
世界には、久遠のものじゃないモールもあると聞く。
本当にあるのかも、たどり着けるかもわからない。それでも僕らは歩いていく。死にに来たわけじゃない。生きるために来たのだから。
妹と二人、僕たちは光に向かって歩いていく。
灼熱のパイクタウン 蛇ノ目魚ノ目 @janm
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