般若の船

楠木夢路

第1話

月もない秋深い闇夜のことだった。

 朝倉源之進は暗がりの中、手にした提灯の焔を頼りに帰途についた。既に亥の刻を過ぎているせいか往来には人影もない。

(やれ、少々飲みすぎたかもしれぬな)

 源之進はもともと無類の酒好きである。

 飲めばついつい盃を重ねてしまう。悪い癖だとわかっているのだがそう簡単には止められぬ。

 それでも武士たる者、見境なく相好を崩しては情けないと余所では口をつけないことにしている。

 だが、今宵は特別だった。

 竹馬の友である近藤格三郎が「丹後の旨い酒を手に入れたから」と夕餉に誘ってくれた。何やら話したいこともあると言う。

 無二の親友の誘いを断るわけにいかぬと自らに云い訳をして、格三郎の屋敷に出向いたのは夕刻のことであった。

 源之進はまだ独り身だが、格三郎は幼馴染のお吉と若くして所帯を持っていた。お吉は良く気の利くできた女房で、酒に合う肴を準備してもてなしてくれた。

 酒も肴も申し分なく、気を許せる友と過ごす時間につい酒がすすみ、すっかり上機嫌になったところで、格三郎からお吉の懐妊を聞かされた。

「まずはお前に報せねばと思ってな」

 格三郎の言葉が嬉しくて「やれ、祝い酒だ」と調子に乗って盃を重ねているうちにすっかり心地よく酔いがまわってしまった。

 格三郎は泊まっていくように勧めてくれたのだが、厚意に甘えて泊まるとなれば酒好きの源之進のこと、深酒になるのは目に見えている。

 酔いつぶれるまで際限呑まずにはいられないのだから、格三郎は兎も角、お吉にまで迷惑をかけてしまう。

 後ろ髪をひかれる思いで、源之進は格三郎の誘いを固く辞退した。

「それに、明日は早朝から道場で門下生に稽古つけることになっているのだ。うっかり寝過ごしては指南役として恰好がつかぬからな」

 源之進の言葉に格三郎も「それでは仕方ないな」と名残惜しみながら送り出してくれた。

 格三郎の屋敷から源之進の屋敷まではたいした距離ではない。

 ひんやりとした秋風の心地よさと酔いに身を任せて、源之進はゆるゆると歩を進めていた。

 ふと、人の気配を感じた気がして足をとめた刹那、びゅいんと鋭い音を立てた白刃が源之進目がけて振り下ろされた。

 寸で身を躱した源之進だったが、白刃は提灯を持っていた左腕を掠めたのか、焼けるような激痛が走った。

「おのれ、何奴」

 敵の正体を見極めようと源之進が提灯を持ち上げたが、賊はひらりと後方へ飛び退った。

 賊の手にした白刃が提灯の灯りにきらりと光った。

 その刹那、源之進は提灯を投げ捨てて己が刀に手をかけた。

 落ちた提灯がぼうっと燃え上がると、動きを止めた賊の足元を焔が照らしたが、顔までは見えなかった。

 間合いを詰める間もなく提灯が燃え尽きると、賊は何を思ったのか、ついと背を向けたかと思うと、返り討ちにくれると意気込んでいた源之進を置き去りにして、あっという闇に紛れてしまった。

 源之進は鞘に手をかけたまま、忸怩たる思いで帰途についた。

 

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