最後の巡礼とその光についての考察

茜あゆむ

第1話

 小説家になる、と突然言い放った小学六年生の男子を地元のカルチャースクールへ入れてくれた両親の慧眼には、いくら感謝しても足りないほどの恩がある。まして、そこの講師だった水谷漣――当時デビューしたばかりの大学生小説家が、私の作家人生における唯一無二の師となることなどまったく予想だにもしなかったけれど、その出会いがなければ、ここまで書き続けることはできなかっただろう、と確信を持って言える。もし、私に二度目の人生があれば、私はもう一度小説家を志し、小説を書き連ねるに違いない。けれど、もし師に出会わなかったとしたら……それは既に書いた。

 師が事あるごとに話してくれた予言がある。私についての予言ではない。師自身についてだ。夢の中で、ある小説家に告げられる。

「あなたは夢をあきらめる力を持っている。あなたはあなたの夢と同じくらい大切なもののために生きることのできる人間だ」と。

 その夢を何度も繰り返し見るのだという。同じ日を繰り返すように。

 業界に長く残っていると、ピリオドを打つ困難さに何度も思い至る。そして、年を経るごとにピリオドを打った人間への畏敬の念が増していく。終止符とは、それを打てる能力のある人間にしか打つことはできない。言葉にすれば当たり前のことだが、決断とは時に残酷に人間の明暗を分ける。

 師から先の話を聞いた少年の頃、この予言は侮辱であると感じたものだった。あきらめられないから続けている。あきらめられないから求めているのだ。確かに師は聡明で、物事の分別のつく人だったが、小説にかける思いは誰よりも強かった。そんな彼女へ、あなたはいつでもその道をあきらめることが出来るなどと、よく言えたものだと思った。いや、正直なところ、今もそう思う。

 けれど、師は夢をあきらめることを選んだ。夢と同じくらい大切なものを見つけ、そのために生きていくことを決めたあの人を、私は心の底から尊敬する。

 さて、そんな師から連絡が来たのは七月の末ごろだった。開口一番、娘を預かってほしいと彼女は言った。娘の湊が小説を書いている話は以前にも何度か聞かされていた。中学に上がって個人のパソコンを買い与えてからは、ネットの投稿サイトにいくつか小説をアップしている話も。

 湊とは初対面ではなかったが、前に会ったのはもう四年も前のことだったし、年頃やその他のことを考えても、私の家で預かるのは適切とは思えなかった。師が言外に、小説の書き方を教えてあげてほしいと伝えてきているのは分かったが、断る以外の道はないように思えた。

 しかし、湊は八月一日に私の家にやってきた。ボストンバックを抱えた少女のシルエットがインターフォンの画面に映し出されたとき、嘘だろ、と言葉が漏れた。彼女はかつての師に限りなく似ていた。一瞬、師が来たのじゃないかと錯覚したぐらいだ。

 私はすぐさま湊を連れて、駅前のマックへ入った。師に抗議の電話を入れたが不通だった。彼女は既に機上の人となり、豪州へ旅立っていたのだ。夫であるタツヒコさんの学会の付き添いをする、と七月末の電話で言っていたことを思い出したときには遅かった。

「大河さん、そういうことなんです」

 大河、そういうことなんだ。

 師の口癖が脳内でリフレインした。湊が覚悟を以って、私の元へ来たのが分かってしまった。恐らくは、この計画を考えたのも彼女なのかもしれない。小説にかける情熱の比重さえ、師によく似ている。

「これから二週間、よろしくお願いします」

 頭を下げる湊の姿に、憤るのも馬鹿らしくなった私はとりあえず近場のビジネスホテルを予約して、そこで寝泊まりすることにした。

「私、ビッグマック頼んできますけど、大河さんは何がいいですか?」

 マックポテトSサイズとマックシェイクバニラ味が、あの頃の定番だったのがぼんやりと思い出された。

「コーヒーをブラックで」

 それが精いっぱいの理論武装だったことも。


 翌朝、ホテルを出て自宅へ向かい、洗濯機を回している間に湊と朝食を済ませる。コワーキングスペースへ出かけるのは通勤ラッシュが収まってからとした。

 ダイニングテーブルの隅には、湊が本棚から抜き出してきたと思われる文庫本が山になって積まれている。いずれも師の著作だった。

「だって、家じゃ絶対読ませてもらいないですから」

 私の視線に気付いた湊は言い訳のように呟いた。師の人気シリーズ『リューク・ルミエールの巡礼』は所謂旅もので、ミステリ仕立ての連作短編となっている。ハイファンタジーの舞台と、等身大の人物たちの恋愛模様、そして謎解き。年間ベストミステリに選出されたこともあり、いずれも一級品の出来だ。それを書くに至った経緯を知ったときは、師の大胆さに驚いたが、納得もしたものだった。

「最終巻のあとがき、湊は読まない方がいいかもしれない」

「何が書いてあるっていうんです?」

 私は適当に笑って誤魔化した。不機嫌そうに眉根を寄せた湊は山の中から最終巻を取り出して、頁をめくる。

 師が小説を書き始めたのは、中学生の時だった。当時、海外ミステリを読んでいたクラスメイトとの会話の中で、とあるトリックを看破したのがきっかけだった。「君は天才だ」と褒められ気をよくした師が、自作のミステリ小説を書いたのがはじまりだった。そのクラスメイトはネタバレを含めて、ミステリ小説の話を師に聞かせてくれたのだという。

 ――私は人が死ぬ小説が好きじゃないから、そうじゃないミステリを考えてみたんだ

 それが『巡礼』の原型だった。

 しかし、思えば私が書いてきた小説は、ことごとく師の小説ばかりだ。かといって師の才能を引き継いで、ミステリを書いているわけでもないのだから、呆れるしかない。

 あとがきを読み終えた湊が「これが何だっていうんです?」と言った。

「湊にミステリの才能はないね」

 なんですかと湊が反発する。が、彼女の憤りも真っ当な反応だ。これはを必要とするミステリだから。

「漣さんの本棚の中身を覚えてる?――それじゃあ、タツヒコさんの本棚は?」

 と、そこまでヒントを出すと湊も思い至ったようで、はたして工学博士の本棚には海外ミステリが差さっているというのが、その業界の常識なのだろうか。

「漣さんのミステリ遍歴はほとんどタツヒコさん経由なんだ。ミステリのネタバレなんて、相手のことが好きじゃなきゃ聞いていられないと思うよ」

 だから、私はミステリを志さなかったのだろうか、という疑念がよぎった。師とちがって、元々その方面の才能がないのは分かっていたのだから、正しい判断だったと言えるだろう……。

 そうだ、正しかったことはいまの私の立場が証明している。ミステリを志さなかったことは、間違っていない。


 一週間が経ち、環境にも慣れた湊は素晴らしい速さで打鍵し、小説に没頭するようになっていた。およそ日に一万文字ほどの速さで執筆する姿は、若さゆえの熱に浮かされた仄暗い没頭で、私はその集中が突然に途絶えることを知っていた。大抵の中学生の身体の中には、その熱に応えられるだけの鉱山は宿っていない。私自身がそうだったように、書いては取り込み、蓄える暇もなく吐き出すように書き捨てる。そのサイクルの中で、吐き出しきれず澱のように溜まっていくものが、後の自らの作家性へと昇華されていく。

 けれど、湊の後ろ姿は私のそんな予想を振り切っていくような気配を見せていた。〆切に追われる作家さえ恐れるほどのペースで書き進める湊は、まるで自分の限界を知ろうとしているようだった。反動は必ず来る。長く続けてきた作家ほど作品に込めた熱の揺り戻しの激しさを知っている。熱を注げば注いだだけ自分が破壊されていき、その後には、今までの自分のように書けなくなる。まるっきり、何もかもが変わってしまうのだ。作品を書き切ったあと、良くも悪くも、書き始める前には戻れない。そんな羽化の兆候が湊の姿に見えていた。

 湊が来てから十二日目の夕方、彼女の打鍵の音がぴたりと止んだ。夜、部屋に戻ってからも執筆を続け、二週間足らずで八万五千文字のところまで来ていたのだが、文字通りそこから一文字も進まなくなってしまった。

 その日、私たちはいつもより早く切り上げ、スペースを出た。何度か湊に声をかけてみたが、彼女の意識はまだ作品世界にあるのか、明瞭な返事は得られなかった。

 外は既に日が暮れ、夕風が吹いていたが、アスファルトに蓄えられた熱が発散を続け、むっとした空気を醸している。私は湊に、少し歩こうと提案し、隣駅の方へ足を向けた。

 歩き始めて、すぐに汗が噴き出した。古い感覚のままの、日が翳れば涼しくなっていくだろうという楽観は早々に裏切られる。歩こうなどと提案したのは失敗だっただろうかと湊の方へ振り返ると、彼女は丁字路の真ん中に立って、曲がり路を見つめていた。

 幸い、道には車も人もいなかった。ぼーっとしている湊を白線の内側へ連れて行こうと近付くと、遠くから太鼓と囃子の音がかすかに響いてきた。

 ――夏祭りにね、行きたかったんだ。

 高校最後の夏休み、師が話してくれた決意の物語が思い出される。私が大学進学に向け、カルチャースクールひいては小説と一時的に距離を置くと告げに行った日、彼女は彼女の決意について話してくれた。

 師のデビュー作は発刊こそ大学在学中となっているが、新人賞への応募は高校時代だった。彼女は大学受験と並行して、投稿作を書き上げた。高校最後の夏休みに、一人きりで淡々と、長編小説を書いた。まるで、彼女の人生の象徴のように。

 師はひと夏の思い出ではなく、長く残る作品を、誰かと同じ人生ではなく、自分だけの人生を選んだと話してくれた。そして、あり得たかもしれない人生への後悔もあるのだと教えてくれた。

 きっとその時にも、師には予言が付き纏っていただろう。師がどんなに強い決意で小説家になることを選んでも、それと同じ強さを持った何かが師の人生には現れる。その二つを天秤にかける日が来ると知っていながら、それでも決断を下した師の姿は、私をここまで導いてきてくれた。

「湊、もう少し寄り道していこう」

 その言葉に、湊はようやく私の顔を見て、の世界へと帰ってきた。

 師はどちらかの道を選ぶ必要があった。彼女は大学在学中にデビュー出来なければ、小説家になる夢をあきらめると両親に約束していた。残された時間は、周りで見ている人間が思うよりずっと短かった。

 師の人生は、どちらかを選ぶことでしか拓かれなかったように思う。逆説的に言うと、より大切なもの、より強度のあるものを選ぶことが彼女の人生だったのではないだろうか。

 それが彼女の在り方であり、彼女の持つ価値だった。師の紡ぐ言葉が柔軟でありながら、決意に満ちて、力強く感じられるのは、師がそう在ることを選んだからだ。

 そして私もまた、そう在りたいと思う。

 私が師の弟子であること以上に、私は師の生き方を尊敬するし、道標のように感じてきた。私は弟子として師を模倣し、人として彼女を見本とする。

 けれど、ただ引き継ぐだけではなくて、師が出来なかったこと、師があきらめざるを得なかったこと、それすらも私は繋いでいきたいと感じる。師があきらめるしかなかったものを、私は師の弟子であるからこそ乗り越える。私がことは、師もまたともに生きることであるはずだ。

 ――夏祭りにね、行きたかったんだ。

 たとえそれがちっぽけな願いだとしても。


 十三日目、ゆっくりながらも湊の打鍵は進み始めた。完成は見届けられそうになかったが、執筆が止まった状態で別れるという最悪の事態は避けられたようでほっとした。私は湊の隣で、同じように打鍵し、小説を書いていただけなのだから、私がしてあげられたことなど何もないのだが。思えば、内容の相談は元より、アドバイスらしいことも求められなかった。

 今日が最後ということもあり、湊はいつまでもパソコンの前から離れなかった。いつもの時間を過ぎても、ゆっくりとした打鍵のペースは衰えず、私は湊の無言のメッセージを静かに受け取った。ディスプレイにのめりこむような後ろ姿は、まだ小説を書き続けたいと訴えていた。

 コワーキングスペースからは作業を終えたノマドワーカーが一人また一人と姿を消していく。広い空間に湊の打鍵音が響いて、余計に物寂しい雰囲気を醸していた。だが、空いた席も夜が更けていくにつれ、次第に埋まっていくのが常だった。夜間の静かな時間に仕事をしにクリエイターたちがやってくる。

 私が夜食を買いに、スペースを離れようとすると湊が口を開いた。

「もう少しで終わりますから」

「急がなくていいよ。ゆっくりやろう」

 湊は頷いて、パソコンに向き直った。脱稿直前の張り詰めて、途切れそうな集中の膜が彼女の身体を覆っているのが見えるようだった。どこか朧気で、別の世界の住人のような存在感の薄さが、今の湊にはあった。

「今日、ここで終わらせます」

 コンビニへ向かう途中、電話が鳴った。画面にはタツヒコさんの文字が浮かんでいた。通話をひらいて、軽い挨拶を交わしたあと、

「漣の方に連絡をくれていたみたいだね。ぼくも学会で日本を離れていたから、折り返すのが遅くなってしまったんだけど……」

 と用件を話してくれた。

「漣が体調を崩していてね。ぼくたちも今、飛行機を降りたところなんだ。何か緊急の用事だったのかな?」

 私は連絡をくれた礼を言いつつ、その呑気さに違和感を覚えていた。私からわざわざ連絡を入れるということは十中八九、湊に関することだというのに、そういう危機感がタツヒコさんの声からは感じ取れなかった。

「緊急の用件ではなかったんです。ただ、湊のことで少し……」

「ん? 湊に用事だったの? 電話を代ろうか?」

 予想外の反応に、私は黙ってしまった。

「……ま、待ってください。湊がそこにいるんですか? あ、いや、というより漣さんは? 漣さんに代わってもらえますか?」

「漣は家で寝てるんじゃないかな」

 タツヒコさんの声が遠くなり、おーい湊、大河くんから電話、という声がぼんやり聞こえた。

 それから電話口に出た湊の声は、確かに私が知っている湊の声で、例えばタツヒコさんがふざけてこういうことをしているのではないことが分かった。私は適当な世間話をして、湊に再び電話を代わってもらった。

「タツヒコさん、漣さんは学会に付き添ったって聞きましたけど」

「それが、前日に熱を出してしまったんだよ。家族旅行も兼ねていたんだけどね、彼女は家でお留守番だ。幸い熱もそれほど高くなかったし、漣のお義母さんたちが看病してくれると言ってくれたんだ。湊を置いていくのも彼女の負担になると思ってね」

 私はコンビニに向けていた足を返して、来た道を戻った。まだ頭が混乱していた。歩調を速めながら、何が起こっているのか理解しようと努めた。湊はタツヒコさんに連れ添って、この二週間豪州へ行っていた。師は熱で寝込み、動ける状態になかった。私の脳裏には、最後に見た湊の薄ぼんやりとした後ろ姿が浮かんでいた。記憶の中の彼女は色彩を失うように淡くなっていって、白い靄の中へと埋没していく。

 コワーキングスペースの入っているビルに帰り着き、店舗の自動ドアをくぐる。受付に夜の利用者がいる他は、私が店を出たときと変化はなかった。

 けれど、湊が座っていたはずの席に彼女の姿はなかった。がらんとしたテーブルの上に、一束のゲラが置いてある。私は受付に戻り、その席を利用していた少女を見ていないかと尋ねたが、答えは芳しくなかった。店の中を一通り見て回ったが、やはり湊の姿はどこにもなかった。

 仕方なく、私は席に腰を下ろした。ゲラには丁寧に表紙が付けられていて『リューク・ルミエールの最後の巡礼』の文字があった。そして書き文字で

 ――巡礼を終えた巡礼者は、あたたかな家庭へ帰る。ひと夏の思い出を胸に。

 とあった。途端に力が抜けていく感覚があり、この状況を説明するたった一つの答えに、馬鹿げている、あり得ない、と罵倒したい気持ちになった。

 私は師に電話をかけた。長い呼び出し音のあとに、通話が繋がって、彼女の息遣いが聞こえた。

「師匠、目は覚めましたか?」

「…………大河、私はまだ夢を見てる?」

 師は寝起きの人特有の低い声で、寝惚けたようなことを言った。もちろん、彼女は寝惚けているわけでも、冗談を言っているのでもないだろう。電話の向こうで、師は空咳をしている。

「夢じゃないです。これが現実です」

 長い沈黙がやってくる。空調ファンの回転音、アスファルトを削る車の走行音、そのどれもが駆動する都市の、耳には聞こえない重低音を抱えて、うねる。多種多様の音ともつかないような音が、私の耳元をかすめては通り過ぎる。私の神経は師の声の予兆を探して、鋭く研ぎ澄まされていく。

 ――ごめん、迷惑かけたね。

 声は真後ろから聞こえた。咄嗟に振り返ったが、そこに師の姿はない。けれど、確かに声はそこから聞こえていた。私の背中を見つめて、師は私に声をかけてくれたのだと思った。

「あなたからもらったものをお返ししただけです」

 生まれたばかりの雛が、初めて見たものを親だと思い込むようなもの。私の親切や思いやりはその程度のものでしかない。意識するとしないに関わらず、私の行動はどこかで師の影響を受けていて、師とまったく同じことをしていたりする。

 そのことに気付いたとき、愕然とするような、愉悦のようなものを同時に感じる。繋がっているのだという感覚が、照れくさいほどにこそばゆい。

 咳を繰り返してから、師は掠れた声で答える。

「それだけの価値のあるものだった?」

 自嘲と含羞のこもった師の皮肉があまりにも懐かしくて、口角が緩んだ。

「あなたからもらったものだから、引き継いでいきたいと思ったんですよ」

 師が示してくれたもの、彼女がそんなものに価値はないと嘯いたとしても、私はその美しさや鮮やかさに、嘘はつけない。そう在ること、あるいは、そう成すことがそれ自体で価値である、という尊さを私はから学んだのだから。

 ねえ大河、と師は昔と変わらない口調で私の名を呼ぶ。そして、師は私に問いかける。

「もし、もう一度人生をやり直せるとしたら、大河は違う人生を選ぶ?」

 この質問に、私ははっきりと答えられる。

「選びません」

「……同じだ。私たちは幸せ者だね、大河」

 私はまぶたを閉じて、暗闇の中で師の言葉を反芻した。それから、はいと答えた。


「でも、私も人間だからさ、後悔はするし、やり直せるなら少しくらいは、って思うよね」

「……台無しですよ、師匠」


 後日、ゲラを渡すためという名目で、師行きつけの居酒屋にお呼ばれした。飲めない酒に付き合って、熱燗を頂くと、

「ブラックコーヒーが精いっぱいの背伸びだったのにねぇ」

 と笑われた。師もお酒は久しいのか、二三杯ほどで顔を赤くしている。私は酒の味が分からないが、師の楽しそうな顔を見ているだけでひどく愉快だ。

 七月三十一日から二週間も熱を出して寝込んでいたというわりに元気ではあったが、やはりまだまだ本調子ではないのだろう。師は寝込んでいる間、小説を書いている夢を見ていたと言ったが、記憶は曖昧らしかった。本当に覚えていないのか、あるいは……いや、余計な詮索はやめておく。私は師の新作が読めて、本当にうれしい。だから、余韻を壊すようなことはしないでおこう。

 師は私の文芸誌に掲載した短編を話題に上げたきり小説の話はしないで、湊の学校の話や、タツヒコさんの研究の話ばかりした。自らのことは口に出さなかったが、師の語り口は昔からそうだったと懐かしい気持ちになった。

 三時間ほど、そうして話していただろうか。師の携帯電話が鳴り、タツヒコさんが迎えに来たことを告げた。私はすっかり酔いのまわった師を連れて、店を出る。最寄りの駐車場にはワンボックスのファミリーカーが止まっていて、タツヒコさんが手を振っていた。その隣には、湊もいた。

「おかえり、漣。ずいぶん酔っているね」

 師はほとんど眠りかけていた。私は師をタツヒコさんへ預けた。タツヒコさんは師を後部座席に寝かせると、湊に隣に座るよう言った。

 久しぶりに見た湊の姿は、想像していたよりずっと大人びていた。師の娘というより、師とタツヒコさんの子どもという感じがして、思ったよりも師には似ていなかった。

「小説、まだ書いてる?」

「やめたくてもやめられないです」

 短い会話のあと、湊は車に乗り込んだ。

 タツヒコさんに送っていこうかと尋ねられたが、断った。タツヒコさんは何か言いたそうにして、頭を掻く。

「今日は忙しい中ありがとうございました。漣さんと久しぶりに話すことが出来て、たのしかったです」

 私の言葉に、タツヒコさんは釈然としない様子で頷いていたが、一度車の中を振り返ると、言うべきことが定まったのか、真剣な表情で口を開いた。

「お礼を言いたいのはこちらの方だよ。漣のあんなに楽しそうな顔、忘れてしまっていたかもしれない……私たちにだって見せない顔があるんだってことを」

 タツヒコさんの言葉とは裏腹に、私は師が家族について話すときの誇らしげな表情を思い出していた。

「漣さんの小説のラスト、知っていますか?」

 タツヒコさんは静かに頷いて、その一文をうわごとのように呟く。

 言葉の重みは、それを受け止める人によって変わる。私はこの一文の重さを知っているつもりだ。師のどんな決意が込められているか、どんな真心が秘められているか。

 ――巡礼を終えた巡礼者はあたたかな家庭へ帰る。

 だけど、想像できない。

 この言葉を投げかけられた人の重責を。

 私にはただ、光輝いて見えるだけだ。

 彼らの美しい言葉の往還が。

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