存在しない店
華川とうふ
教えてください
「週末はあの店にいこう」
そんな風に思っても、実際の店はとんでもなく遠くにあることがある。
全国転勤する職業特有の病だろう。
昔、住んでいた場所の近くの店にふとした瞬間に行こうと思うのだが、それは今住んでいるところから日帰りじゃいけないくらい遠い場所にあるなんてことがしばしば起きる。
就職してからいくつかの街に住んだり、働いたりしたが、その奇妙な感覚は年々ましていくばかりだ。
大抵は行ってみようと思うだけですぐに現実の自分が、「いやいや、あれはとんでもなく遠い町にあるのに何を言っているのだろう」とツッコミをいれてくれる。
だけれど、ふとした瞬間に向かわねばならないと思うけれど、それがどこだったか思い出すことができない店がひとつだけある。
別にそこは奇妙な品物をうっている怪しげな店ではない。
魔女のようなおばあさんが妖しい壺を売ったり、占いをしてくれるとか。
いつも同じ常連さんがいる、昭和の時代から一ミリたりとも進む気がない小汚くて料理の上手い居酒屋とか。
どこか懐かしい味のお茶を入れてくれる喫茶店とか。
そんな物語にでてくるような店ではない。
ただのパン屋だ。
私は普段からあまりパンを食べないのだが、どうしてだかそのパン屋にはどうしても行きたくなる。
記憶にあるそのパン屋のパンは別に特別変わったところなどない。
ただ、素朴なパン。
しっとりといえば聞こえはいいが水分が多めの子供のころに売っていた町のパン屋のパンの味だ。
なのに、私はそのパン屋に行きたくてしかたがなくなる。
どこにあるのかさえも思い出すことができないのに。
一度、どうしても気になって、今まではたいた町の地図とインターネットの検索をたよりにその店を探したことがある。
だけれど、それらしき店は一軒たりとも見つけられなかった。
当時から付き合っている恋人にもパン屋のことを聞くが、そのパンを私から渡され食べた記憶があっても、それがいつごろのことで、どこの町に住んでいたときのことだかまったくはっきりしないのだ。
雨の日は特にあのパン屋を訪れたくなる。
もしかしたら、そんなパン屋は存在しないのかもしれない。
いくつもある記憶が混ざりあってできた妄想のようなものだ。
だけれど、やはり今この瞬間もあのパンの味を私の舌ははっきりと覚えていて求め続けている。
存在しない店 華川とうふ @hayakawa5
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