塔がある町に天使が住んでいる

tamn

01 めざめ

 何かが頬に落ちた。

 何が落ちたのか、と瞼をふるりと震わせながらぱちりと開けた。が、すぐに眩しさを覚え、強く瞼を閉じ、そしてゆっくりと何度か瞬きを繰り返しながら、瞼の下に隠れていたまん丸い紫水晶のような瞳をのぞかせた。

 視界の中に入ったのは、朝露に濡れた葉が頭のすぐ上に生い茂っていた。ぷっくりと膨らんだいくつかの蕾が見える。ああ、これは野ばらか、と朝露に濡れて輝く葉と蕾を見て理解した。

 紫水晶の瞳をくるりと動かし、さらにその向こう側を見やれば、ちょうど陽が昇り始めた頃だろうか。夜の色が薄らと残った空の色は、だんだんと美しい澄んだ朝の色へと変わっていくところだった。薄い紺から藍に変わり、紫、薄桃、黄色みがかったような白、そうして朝の空の色。

「……うつくしいなぁ」

 この光景を何度見ただろうか。幾度も目にしても美しいと言わざるえなかった。

 が、そこでウルスラは自体の状況にようやく気付いた。

 確かにこの音、この声はこの喉から発せられた。しかし、あまりにも聞きなれない声の高さに、妙な舌の回らなさに一瞬、呼吸の仕方を忘れかけた。

 ウルスラは慌てて体を起こし、そしてあまりにも低く、狭いように感じる視界に小さく身体を無意識に震わせ、小さく声が漏れたと同時、今度こそ大きく身体を震わせた。

 ゆるり、と周囲を見渡しながら視界に落ちる自身の銀色の髪をかきあげて、そしてあまりにも小さな自身の手に肩が大きく跳ねた。

 無意識に、何かを飲み込む仕草をした後、ウルスラは数度、深く呼吸を繰り返し、自身の姿を観察し始めた。

 小さな両手。まだ皮膚は柔らかく、妙にぽちゃぽちゃとしているような気がする。

 落ちてくる銀髪は、記憶が正しければ邪魔で乱雑に最低限結べるくらいの長さしか無く、前髪だって短かったはずなのに、全体的に肩よりもずっと長いし、妙につやつやとしていた。

 両の足は裸足で、傷と言う傷はなく、そしてこちらも小さくてどこかぽちゃぽちゃとしている。

 ぺたぺたと全体の身体に触れてみる。記憶が正しければ、ウルスラはすでに成熟した身体を持ち、女特有の凹凸がささやかながらある体つきをしていたが、今やそれが一切無いのだ。胸は見事まっ平になっていたことの方が何よりも衝撃が大きいのは言わずもがな。

 裸ではなかった。見慣れた白い布がたっぷりと使われた服は小さく、まさしく記憶の通りであれば小さな、それこそ未成熟の小さな身体を持つ幼子が着る服だった。

 何度も何度も確認する為に自身の身体に触れ、背中付近を特に手が届く範囲で触れ、愕然とした

「……子供、だと?」

 周囲からの返答はない。当然だ、ウルスラ一人しかいないのだから。

 ウルスラは小さな素足そのままに立ち上がり、周囲を慌てて見渡す。

 しかし見渡しても見渡しても、周囲にあるのは揺れる木々に膨らんだ野ばらの蕾達。後少しすればきっと綺麗に咲いてくれるだろう、と一瞬だけ現実逃避しかけた。

「森? いや、何故……?」

 落ち着け、落ち着けウルスラ。

 何故だ、どうしてここにいる?

 私は、だって。

 思考がぐるぐると駆けまわりそうになり、ウルスラは思いきり自身の頬をペチン、と叩いた。音がずいぶんと柔いし、思ったよりも痛くなかったのは、やはりこの小さな身体のせいだろう。

 何とも虚しさを感じる音だったが、逆に頭が冷静になってきたのを感じ、もう一度周囲を見渡す。

「あちらに行くか」

 見渡したところで道と言う道はない。けれどもここにいつまでもいては手掛かりも解決にもつながりはしない。

 適当に見て、歩いて行けそうな隙間を縫うように歩いて行くしかウルスラには残されていなかった。

 進もうとして、ウルスラは一度止まる。視線は小さな素足。

 紫水晶を一度瞬かせた後、ウルスラは布が多いせいで少し重い服のすそを持ち、足元の周辺を見渡してすぐに目当ての物を見つけ、手に取るのは握り拳ぐらいの石だ。角があり、謝って踏んでしまえば傷がすぐに出来てしまうほど。その他よく見れば太い枝がいくつか転がっていたので遠慮なく手を伸ばし、よいしょと寄せる。

 ウルスラはそれらを目の前に並べ、よしやるか、と気合を入れるように小さく鼻を鳴らした。


 どれほど歩いたのだろうか。空を見上げてみれば、太陽がもうすでに真上にまで移動をしていた。それぐらいにもう時間が過ぎたのかと思ったが、それでも視界いっぱいに広がるのはどこまでも続く木々の姿ばかりだった。

 比較的には歩くという行動には慣れている方だと、ウルスラは思っていた。だから素足には少しでも歩きやすいようにと、無駄に布が多く使われている服を石や枝で裂き、足にぐるぐると巻いて解けないようにとしっかりと結び目を結んで歩行を始めたのだ。

 それでもこれほどに疲れるものだったかとウルスラは正直なところ、ずいぶんと慢心をしていたのだと知った。

「……人間というのは、いつもこんな……」

 翼があれば移動が楽だというのに、人間はいつもこれほどまでに面倒な移動をしていたのかと愕然とする。

 都度、水分補給の為にと目に入った果実をもぎ取り、口に含む。異質な味、匂いが無ければ次々に嚥下してみたが、出来たのはうち一つ、二つの小さな実りのみ。

 この身体は小さいが、しかし圧倒的に足りないことは嫌でもこの身体になって分かった事実だ。

 何故、どうしてという考えはとうに出来なくなっていた。今はとにもかくにも、ここからでなければと言う気力だけでふらつきそうになる身体に叱責をしながら、痛む足を進める他なかった。

 何度つまずき、何度転んだか数えるのは止めた。ただ道なき道をふらふらと足取りおぼつかずに前へと足を進める。

 真上にあった太陽がゆっくりと傾き、真下にあった影が横へと伸びてきたころ、ウルスラの視界が急に開けた。

「道、だ」

 いつも上から見えていたものが、すぐ目の前に広がっていた。こうして見てみると、予想以上の安心感が身体を満たしてくれた。

 たったこれだけだと言うのに、満ちた安心感のせいで張り巡らされた緊張感が一気に解かれ、一気に平衡感覚が失った。

 くたり、と両膝をつき、けれども最後の抵抗と言わんばかりに両手で地面に手をつくが、すぐに身体がぐにゃりと崩れて、地面に這いつくばるような恰好になってしまった。

 ここは、どこだろうか。何故、こんなことになっているのだろうか。この状態は、一体。

 疑問は湧き上がる。しかし湧き上がるだけでその先の思考までたどり着くほどの気力も体力もなく、瞼がだんだんと落ちてくる。

 なるほど、これが死、なのだろうか。

 死と言うのはあまりにも呆気ないものだなぁ、と他人事のようにウルスラは思いながら、抗うこともなくそのまま瞼を落とした。

 意識が遠のき、そのままと途絶える直前だったのだろうか。

 ほんのかすかに、誰かの声が聞こえたような気がした。


 ▽+▽+▽+▽+▽


 ふわっ、と突然に意識が浮上した感覚がした。と同時に耳に入り込んだのはずいぶんと騒がしい音だった。

 がたがた。ばたばた。ばんっ。

 連続してそれらが聞こえたかと思えば、続いて複数の声が聞こえた。きゃあきゃあと楽し気な声と、張り上げたような声。森のあの葉がこすれるような音の方が好んでいるが、この騒がしさというのも悪くはないこともウルスラは知っていた。

 何故か意識が戻って来たことに、なるほどまだ死んでいないのかと分かった。その瞬間、腹が異様にぐるりとした、きゅうとねじれているような感覚して一気にウルスラは目を覚ました。

 まず、目に入ったのは天井だった。つまりここは建物の中だというのは分かったが、さて、どういうことだろうか。

 ウルスラは周囲をよく見ようとするも、妙に身体は重く、指一つ、視線をわずかに動かすのさえ億劫で、意識はまるで霧の中をさまよっているかのようにぼんやりとしている。唇を開き、声をあげようかとはくりと動かすも、掠れた音しか出てこなかった。

 分からない。分からないが、このまま終えてしまうのだろう、という確信はあった。

 霧がだんだんと濃くなってきている。視界もぼんやりとしてきた。

 だからウルスラは視界に入って来た影に気づくのに一歩遅れてしまった。

「マム! マム・ユリアーナ! おきたよ!」

 とても幼い、甲高い子供の声がすぐ横から聞こえた。

 するとあれほど賑やかなだった音がぱた、と風が凪いだように静まり返った。かと思えばだだっ、と重なる音が近づく音がした。が、しただけでそれらはすぐに止んだ。

 その代わり、一人の少し忙しなく比べて大きな足音が近づいてきた。

「教えてくれてありがとうね、ハンナ」

「えへへ。ねぇ、だいじょーぶ?」

 誰かが、顔をのぞき込んできた。ウルスラは何か答えなければ、と唇をもう一度動かすが、ひゅう、という空気の音しかでなかった。

 と、影が急に消え、額あたりに何かが当てられた。

「……すごい熱。ハンナ、ルッツにお水と、綺麗な布を持ってきてくれるよう頼んでくれる? 熱があるの」

「わかった!」

 ぱたぱた、と小さな足音が遠ざかっていく。

 そして額に当てられたものが離れ、そしてすぐにそれがまた額に触れたかと思うと優しくウルスラの前髪を払うような動きをした。

 そこでようやく、それが手であることに気づいた。

「お水、飲める?」

 手は額から頭を何度か撫でる仕草をした後、ゆっくりと支えるようにしてウルスラを起こす。身体全体の力がうまく入らないせいで、くたりと大きな手に寄りかかるしかなかった。そんな状態だから、目の前に差し出されたおそらく水が入った容器を受け取ろうにも身動きすらできず、さらに何も反応すら返せないでいた。

「……ちょっとごめんなさいね?」

 耳に届いた言葉と同時、唇に何か、硬いものが当てられた。かと思えば、ぬるい液体がわずかに開いた唇の隙間から入り込んでくる。

 無味無臭。おそらくは水、と思い込み、ウルスラはそのまま自然にたどたどしく少しずつ嚥下した。口の端から水がこぼれてしまっているが、今はそれに構ってはいられなかった。

「……ごめんなさいね、だいぶこぼしてしまって」

 唇からそれが離されたと同時、また声がかけられる。

 霧がかっていた意識が少しはれ、ようやくゆるり、と目線を動かしても問題ない程度にまで回復したウルスラはその者をようやく見上げた。

 その者は女性であった。たしかに高めの声だったから、そうなのだろうなとは思ったがその通りだったようだ。

 垂れ目がちな若々しい緑の優しい色合いが、ウルスラの心を落ち着かせてくれる。きつく結ばれている胡桃色のような髪が一房だけ落ちていたが、マムだったか、それともユリアーナだったか、そう呼ばれた女性はそのままに優しく微笑んだ。

「言葉は分かる?」

「……分か、ります」

 まだ掠れてはいたが、小さく発声することが出来たことに安心を覚える。けれども女性は顔をさらに歪ませ、何故が優しく抱きしめてきた。

「良かったわ。何か……そう、今、何か食べられそうなものを持ってくるのだけど、食べられる?」

「……分かり、ません」

「一応スープを持ってくるわね。他に何か欲しいものはある?」

「……水、を」

「ええ。ゆっくり飲んでね」

 女性が木製のコップを手に持つ。どうやら先ほど当てられたものはこれだったらしい。

 意識がはっきりとしてきたおかげで、今度こそ水をこぼさずに水を嚥下し続けられた。

 そうこうしていると、誰かの足音と、何かが置かれる音が続いて聞こえてきた。

「マム、これ、ここに置いとくぞ」

「ありがとう、ルッツ」

「それと、スープも持ってくるよ」

「あら、聞こえてしまったかしら?」

「それもあるけど、マムっていっつも最初にスープとか食べ物用意するじゃん。皆分かってるよ」

「ふふ、そうだったわね」

 女性の軽やか笑声が耳をくすぐった。女性の影で姿は見えないが、まだ幼い子供の声だった。声と、そして名前からおそらく少年であろうか、とウルスラは水を飲み切り、ほぅ……と、息をついた。

「マム! スープあっためたわ!」

「あ、おい! ちゃんと持てって、リーゼ!」

「まぁ、ありがとうね。リーゼ」

「えへへっ」

 さらに落ち着きのない足音がもう一人分増えた。

 リーゼ、という少女がスープを持ってきたらしい。女性が少しウルスラの身体を持ち上げ、そのまま自身のほうへともたれさせた後、両手でスープが乗ったトレイを受け取りウルスラの膝の上へと置く。

「じゃ、マム。またなんかあったら呼んで。リーゼも行くぞ」

「えー!」

「二人とも、本当にありがとうね」

 少年の言葉に不満を漏らしながらも、少女は大人しくついて行くように、二人の足音がだんだんと離れていった。

 女性はしばらくその二人を見ていたらしく、僅かに時間を挟んでからウルスラへと顔をようやく向けた。

「ごめんなさい、これしか用意が出来なくて」

 女はそう言って、白い湯気が立つ、温かな水を用意してくれた。温かな水と言っても色がついているし、中には彼らが食している植物、野菜と呼ばれるそれらが細かく刻まれて浮かんでいた。そして立つ香りは初めて知るものだったが、腹がぐるりと音をたて、まるで早く寄越せというように訴えてきた。

「ふふっ、お腹が空いていたのね。スプーンは持てる?」

 女性の差し出す木製のスプーンを目の前にし、ウルスラはぐっと腕を上げ、ようやくというように受け取る。

 持ち方や使い方は知識上ではあったが知っている。記憶の通りに、握らずに持ち、そしてすくい上げてゆっくりと口に運ぶ。マナーなんていうものもあるらしいが、今の状態でそこまで出来る気力は一切ない。

 加えてだ、初めて食したその味と、香りの濃さに一気に余裕なんてものは持っていかれた。

 ウルスラはすくっては口へと運ぶのを器がすっかり空になるまで、無心で絶え間なく続けた。

 その頃には腹の奥がずいぶんと落ち着き、手にも力がしっかりと入るようになっていた。

「その、おかわり、食べる?」

「よろしい、のですか……?」

「もちろんよ! ルッツ、リーゼ!」

 恐る恐る聞けば、女性はぱっと表情を明るくし、またあの少年と少女を再度呼んだ。


 もう一杯のスープを食べ終えたウルスラは腹が満たされているという心地の良い状態に身を任せ、眠てしまいたいという衝動にかられた。

「ふふっ、これならすぐに元気になるわね」

「なぁマム、そいつどうすんの」

「そいつって……ああ、そうね。お名前聞いてなかったわ」

 うっかりしていたわ、という言葉が耳に入り込んだ。

 ウルスラの膝の上に置かれたトレイを脇に起きながら、女性は今度は残っていた少年と少女に手招きをした。

「貴方のお名前を聞く前に、まずは私達からね。私はこの孤児院の先生をしているユリアーナと言うの。皆からはマム、と呼ばれているわ。そしてこの子がルッツ、隣にいる子がリーゼ。最初にいたのがハンナよ」

「よろしく」

「よろしくね!」

 ようやく二人の姿を目にしたウルスラは、わずかに目礼に近いものを反射的に行った。

 そのぎこちなく行ったそれに女性、ユリアーナは柔らかなまなざしを向けていた。

「お名前、聞いても良いかしら?」

 一瞬、素直に述べても良いものかと考えたが、名前だけであれば問題ないと瞬時に判断し、素直に答えた。

「ウルスラです」

「ウルスラと言うのね。少し珍しいような響きだけど……、どこから来たの?」

 ウルスラはその問に一瞬、視線を上へと向け、すぐに下へと落とした。

「……ずっと、遠くから、だと思います」

「思う……?」

「よく、分からなくて」

 ウルスラは曖昧に答えた。

 わずかに息をのむ音が聞こえた。どこからと思い見れば、ユリアーナからだった。

「何か……そう。覚えていることとか、話せることある?」

「……話せること……」

 不用意なことを言うのは避けるべきなのは分かった。

 揺れる緑の瞳を目の前に、ウルスラは妙に胸が締め付けられるような心地を不思議と抱えながらも首を横に振った。

「……いえ、何も。どうして、あそこにいたのかも、分かりません。分かるのは、私がウルスラであって、遠くから来た、ということだけです」

 嘘ではない。事実、話せないことの方が多すぎる。突然、森の中で目覚めたことだって分からないままだったがそれ以前に、まず己が人間ではなく、人間が呼称する天使であるなんて誰が話せるだろうか。とは言え、天使だと言ったところで信じる者は早々にいないだろう。

 この未成熟の身体もそうであるが、背中にはあるはずの翼の姿かたちがまるで無い。不必要だった食事だって、人間と同じように必要になってしまっているような状態だ。

 むしろ好都合と考えるべきではあるのかもしれない。

 人間は天使に会うと剣を向けてくるのだ。だから身の安全の為には人間だと偽る必要があったからだ。

 ウルスラはまるで自分に記憶がないような素振りを見せた。

「ここは、どこなのでしょうか……? 私は、一体……」

 するとユリアーナはまたウルスラを今度は強く強く、抱きしめた。

「大丈夫よ。ええ、大丈夫だから」

 安心させるようにか、大きな手がウルスラの頭を撫でてくれる。

 さらにそれを見ていたリーゼもウルスラに抱き着こうとベッドに乗りあがり、ルッツはそれを止めようとしたが間に合わずに中途半端に手を伸ばしている姿が見えた。

 ウルスラは二人に挟まれるように抱きしめられながら視線をずっと遠くへと向け、さて、これからどうしようか、なんて少しばかり目の前の現実から逃避することにしたのだった。

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