百足とフロイト

@Khinchin

百足とフロイト

それの体は赤く燃え上がる様だった。少女はカサカサという音と共に目覚めた。隣で寝ている母親が寝返りを打っているのかと思い、再び目を閉じようとした。

しかし、視界の端に動体を確かめ、一気に緊張し、臨戦体制に入る。正体を確かめようとそろそろと目線を動かす。それはまさしくムカデであった。なんということだろうか、少女は虫、特にみみずやムカデ、ヤスデ、が嫌いだった。いや、嫌いという言葉で形容してはならないだろう。大嫌い、それも正しくない。少女は全く憎んでいた。なぜかは少女自身にも詳しくはわからない。一度、そのことについて考えたが、動き方、色、形、潰したら体液が出ること、などキリがなかった。少女は虫を好きになろうとする努力をそれ以来諦めた。どれだけ理屈をこねて意識を変革しようとしても、憎いものは憎いのである。


ムカデなど今まで出たことがなかったのに、と少女はこの家、およびそれを買った両親にすら怒りを覚えた。理性ではその様な感情を抱くべきではないと感じている。しかし、嫌悪感には理性は全く抗いようがないのであった。少女は背中がどっと汗ばみ、冷たい汗が額を、そして頬を、顎を、伝ってゆくのを感じた。汗が少しくすぐったかったが汗を拭う暇はない。汗を手や腕で拭って視界のない時にムカデに近づきたくなかったからである。


幸いなことに、ムカデはベッドの周りをうろちょろとして、母親から離れて迷子になって、どうしようもなくなった子供のようだった。あれは当分危害を加えにこないだろうと思って、半分逃避するために完全にデューヴェイに包まれ、ベッドとそれに隙間が開かないよう。まるでダンプリングの具材のようになった。


少し時間が経ったあと、ムカデの様子を見るために、体の向きをシャワシャワとデューヴェイの音を立たせながら変え、そこから顔を出し、体を出し、ベッドの上で四つん這いになっている状態で、じっと床のあたりを見渡す。しかし、一切の憎むべきタンパク質の塊の姿は見られなかった。安堵して、ベッドに正しい姿勢で眠るため、体をベッドに投げ出す。緊張からの安心のため、下着の背の側に染み込んだ冷や汗がベッドで体に押し付けられ、背中に冷たい感触が伝わってくる。それが今度は不快であった。しかし、少女は完全には油断はしていなかった。少女は耳をそばだてる。すると、カサカサ、という音を聞き取ってしまった。少女は再び汗をかき始めた。花瓶越しに母を見る。窓からの弱々しい月明かりがなんだか今日は頼りになる様に感じられた。アオバズクの金管楽器のような鳴き声もいつもより遥かに大きく感じる。恐怖を感じているためだろうか。なぜだか、母親が急に頼りなく感じられた。親が目を離した隙に川で流された子供の気持ちだった。もはや自分しか頼れない。


ムカデはどこだと目を皿の様にして探す。床にはいなかった、ではベッドの下だろうか。眼球がいつもより速く動く。サバンナに生きる被捕食者の気分だった。どこから敵は出てくるのか。


そうしているうちに、ふと、天井を見上げた、いや、見上げてしまった。そこにいたのは、その何十もの足を一歩一歩動かし、不躾に少女の領空に侵入するムカデであった。


咄嗟に少女はベッドから転がり落ちる、それと同時にムカデがベッドの上に落ちていく。カーペットが少女の痛みを軽くしたが、衝撃が内臓が揺らし、夕食が胃のなかをはねる様な感覚に襲われ、少女の終端速度が床を軋ませ、花瓶を乗せたサイド収納とクローゼットに伝わり、クローゼットがガタガタと音を立てた。当たらないとわかっていながらも、自身の視界を埋め尽くすムカデの腹を想像し、心臓がネズミのものになったかのようにハイテンポで鼓動する。どうしてこんなことにならなくてはならないかと少女はこのムカデとかいう生物を生み出した世界を嫌いになりそうだった。ムカデが自身のベッドを歩くたびに、明日からはムカデの歩いたベッドで眠らなければならないのかと嫌な想像が掻き立てられる。


それと同時に、早く逃げなければという思いから後ずさる。が、壁にぶつかり、正面からムカデが向かってくるのをしばらく見つめる羽目になってしまった。咄嗟に左に逃げる。ムカデはウジウジと体を動かしこちらを追ってくるような動きを見せるものの、意外に速さは遅く、簡単に引き離すことができた。


時計をチラリと見ると二時十二分と十三分の間であった。あれを殺し、窓から捨てれば、なんの警戒心も持たずに眠れるのだ。少女はムカデを殺すことを決心した。しかし、少女はムカデを潰すことはできないと悟った。やつは潰すと体液が出てきてしまうからだ。であれば仕方ない。すかさず花瓶を倒さないように、しかし、信じられないほど素早く収納棚から殺虫スプレーを出す。まだムカデはベッドの上に居座っている。少女はイラついた。ムカデごときのために睡眠をしないわけにはいかないのだ。そうしていると、ムカデはベッドから床へとベッドの足を蔦のようにくるりくるりと螺旋階段を描くように伝って降りてきた。またとない好機である。少女はムカデがベッド側から離れることを願った。すると、思いが天に通じたのか、ムカデがこちらへ寄ってくる。これほど神に感謝した瞬間はないと少女は思った。そして、ベッドから十分な距離のところでスプレーをムカデに吹きかけた。


途端にムカデがより凶暴になった様な気がした。より意味のわからない動きを繰り返し、四方八方へと移動し、顎をカチカチと何回も鳴らし、最後にカチカチカチと音をたて、そしてピタリと動くのをやめた。そこから何分が経っただろうか、ムカデは一向に動き出さなかった。恐る恐る近づくが、それは無意味だった。最後の動きとは関係なくもう二度とムカデは動き出さなかった。少女は玄関で眠っていた箒をとり、窓を開け、そこからベランダにムカデの骸を押しやった。窓を閉め切り、ガタンガタンと戸締まりを確認した。ムカデの足がないことを確認して、少女は寝床に戻る。


緊張が完全に緩和され、運動による汗、心理的疲労による汗がドッと吹き出す。少女が目を閉じるともう夢の中であった。


夢では、少女はムカデになっていた。少女はイヤイヤと体をネジネジと動かし、体を脱ぎ捨てようとする。しかし、脱ぎ捨てようがないので仕方なく、巣に戻る。するとそこには3匹の自分と同じくらいの大きさのムカデ、それに2匹の大きなムカデがいた。


今日の夕食はみみずらしい。夏の日に道端で干からびているようなやつではなく、帯が白白として、体は内臓が見えそうなほどピンクに透き通っている様な、新鮮なみみずだ。そして、そのみみずはとんでもなく大きかった。自身の体のおそらく3,4倍以上はあるだろうか。みみずは、一匹の大きなムカデが切り分けた。切り分けるたびに肉が潰れ、軋み、そこから透明な汁が出てくる。ぶちゅり、ぶちゅりと音を立ててみみずは分けられる。二かけらは大きく、残りの四かけらは小さい。


切り分けたみみずを大きなムカデ共は少女の方に押しやった。正確には、小さな四匹の方へ、だろう。みみずの体についた溝までがくっきりと見える。少女から見れば、これはみみずをずいと眼前に持ってこられたのと同じことであった。ガチガチと顎がなる。恐怖していることを目の前の大きなムカデに伝えたかったが、ムカデは、目の前の小さな我が仔が喜んでいる様に感じたらしかった。よりみみずを近づけ、ガチンガチンと巨大な顎を鳴らした。


もちろん、少女は経験のないことなので、みみずをどのように食べるのかわからなかった。しかし、虫としての本能がこのようにしたい、と囁く。その欲望に従っていくと、みみずをするすると食べることができた。食感は、プチプチとしていて、味は水っぽくて食べられたものではなかった。ムカデの中の少女は嫌悪に満ち溢れていたが、結局、みみずは食べ切ってしまった。大きい、切り分けていない方のムカデはみみずを少しずつ小さな4匹に切り分けた。ムカデの心などわからないが、これが母性というものだろうか。


突然、切り分けてくれた方の大きなムカデが、大きな一匹を捕食した。ガチン、ガチンという、鉄製の大鋏の様な大きな顎の音と共に一匹はそれの一部となるために細切れにされている。小さなムカデたちはなんとも思っていない様だった。しかし、少女は恐怖した。っち、っちと弱々しく顎がなる。ピシャリ、ピシャリ、グッ、グッという音と共にムカデの殻がひび割れ、体液が漏れ出し、嚥下された。なぜ食われたのか、少女には全くもってわからなかった。しかし、どうやら理由はなかったようで、愛しい仔らに食料を分け与える。


次の日、再び食料を分配しようとした時、隣にいたムカデがいないことに気づいたのだろうか、その大ムカデは突然に暴れ出した。落ち着いたことには、少女以外の仔は死んでいた。


そして次の日、ムカデは仔がいないことに気づいて暴れた。それを予見していた少女はすぐに逃げ出す。しかし、それに気づいた大ムカデは少女を追う。そして、他人の部屋に入りカサカサと音を立てる。そうして、部屋の主人は起き、追ってきた大ムカデを殺し、窓の外に追いやった。しかし、少女は長くは生きられなかった。それでも切り刻まれたり、潰されて死ぬよりかは幾分かましだろうと思い、陽の光を浴び、眠るように息を引き取る。


その途中で、少女は目覚めた。追われる恐怖で、さらに背中には水っぽい感触があった。時計を見ると、今はまだ、三時三十七分だった。ベランダを見ると、ムカデの死骸はもうなくなっていた。

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