あの子

@chaofan_oisiii

あの子

特別な容姿も才能も持っていない私に、声をかけてくれたのは、クラスで一番かわいいあの子だった。教室の隅で一人俯いているだけだった私を外に連れ出してくれたのも、男子にからかわれて泣いている私を慰めてくれたのもぜんぶぜんぶ、あの子だった。あの子は私のすべてだった。私の短い人生の中で一番楽しかったあの子との思い出は、小学校の卒業であっけなく終りを迎えた。あの子は隣町へ引っ越してゆき、私の絶望の中学時代が幕を上げてしまった。

 また、春が来た。春は出会いと別れの季節なんて言うけれど、中学で友達のできなかった私にとって大した別れなどなく、一滴も涙の出ないまま、卒業式は終わった。小学校の時はあんなに泣いたのに。そして今日から私は高校生になる。新たな出会いなんて期待していない。また私は教室の隅で俯いているだけの青春とは程遠い高校生活を送ることになるのだ。そう卑屈になりながらも、心のどこかであの子の名前がクラス名簿に書かれていることを期待してしまう自分がいた。やっぱりいない。自分が二組であることを確認すると私は人混みから逃げるように教室へ速歩きで向かった。どこからか真っ赤な花びらが飛んでいった。

 高校生活が始まって早三ヶ月、卑屈になっていた自分に、幸運にも声をかけてくれた子のおかげで無事ささやかながらも平穏な生活を送れている。ただどこか人見知りを発動して、心を開ききれていない自分に寂しさも覚えていた。それでも、中学時代よりも圧倒的に楽しい生活に私は満足していた。

 ある日の昼休み、私は青白い顔で廊下を駆け回っていた。お腹を壊したのだ。この学校は大量の学生を抱える割にトイレが異様に少ない。やっとのことでたどり着いたトイレはなんだか騒がしかった。気が引けたが、背に腹は代えられず、慌ててトイレに駆け込んだ。無事に済ませると、騒がしい声の主達が明らかになった。それはどこかのクラスのおそらく一軍と呼ばれる女子達であった。あまりの輝きに顔面を直視できずに俯きながら洗面台へ向かう。手を洗いながらふと、顔を上げると、一人の少女と鏡越しに目が合った。長く美しい黒髪、整った顔立ち、とんでもない量の汗が噴き出して、顔が熱くなった。その少女はあの子だったのだ。あの子は目が合うと、一瞬はっとしたような表情になり、慌てて目を背けてしまった。時が止まったかのようだった。私はあの子が忘れていったリップを呆然と見つめることしかできなかった。そこにはなぜか赤い花が落ちていた。

 その日から、私の世界に再び現れたあの子に声を掛ける勇気などなかった。通学路で、廊下で、体育館で、気づけば目で追いかけていた。なんで今まで気づかなかったのだろうか。私は一人そんなことを考えながら重たいゴミ箱を抱えて廊下を歩いていた。クラスメイトにゴミ捨てを押し付けられたのだ。あの子だったらこんなことにはならないんだろうなとか、むしろ押し付けている側なんじゃないかとか、考えが止まらなくなってしまってやめた。人気のない渡り廊下を見ると、あの子がいた。外を眺めていた。そんな様子すら絵になる。ゴミ捨て場とは方向が逆なはずなのに、気づけば足が向いていた。気づけば声をかけていた。「あのっ。」そう言ってあの子が振り返ったときに見せたなんとも言えない困惑したような迷惑そうな顔が忘れられなかった。あの子は私を覚えてくれていた。その事が嬉しいはずなのに、あの表情が頭から離れなかった。十分ほど思い出話をしてあの子と別れた。その後どうやって帰ったのか分からなかった。

 家に帰ると私は家族にただいまも言わずに自室に籠もった。そして引き出しにしまってあったリップを取り出した。あの子が忘れていったものを返せずにいたのだ。いけないことだと分かっていながら、私はそれを自分の唇に塗った。その瞬間私の体にたくさんの赤い花が咲き乱れた。おびただしい数の花が私に纏わりついてゆく様は気持ちが悪かった。その花はシクラメンだった。あの子が好きだって言ってた花だ。花言葉を一緒に調べたことがある。ああそういうことだったんだ。私があの子に向けていた感情は好意でも尊敬でもなかったんだ。体が動かなくなってゆく。ごめんなさい。ごめんなさい。意識が薄れていくなか、私の頭の中は謝罪で埋め尽くされていた。そんなつもりじゃなかったのになあ。

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