セミの鳴き声

世楽 八九郎

熱帯夜の出来事

 今年の夏は暑過ぎる。

 特に湿気が酷い。自宅では梅雨の時期から毎日のように除湿器を回している。湿度のせいか夜になっても耐え難い暑さのままだ。


 独り身の私は夕食を終え下着姿で大の字で床に伸びていた。なにぶん暑いのだ。働いて、帰宅して、自炊までこなしているのだからこれくらいは許して欲しい。


 床を転がり壁に掛けられた時計を見やる。時刻は午後7時半だ。

 私は芋虫のようにあるいは寝起きの猫のように肢体をうごめかせた。

 今夜は実家に電話しよう。そう思っていた。

 気まずいとかそういうことはない。むしろ家族仲はいい方だ。ただ、話すネタがない。電話はそれなりの頻度でしているし、かかってくることもある。おまけに毎日こう暑くては出掛けたり帰りに寄り道することもそうない。


 しばし目を閉じてここ最近を振り返えるが、親との話題に相応しいものは浮かんでこなかった。

 嘆息しながら目を開くとなにかに釣られるように眼球が動いた。なにごとだろうかと意識を澄ますと気が付いた。


 セミの鳴き声が聞こえた。


 なんてことだ。熱帯夜にセミが夜に鳴いているのだ。

 夏の暑さを想いうんざりとしたが、これはいいネタだと思いついた。

 私は立ち上がりトイレに向かい用を足した。両親の話は長いのだ。


 トイレからリビングに戻らんとする私の足が止まった。

 違和感がある。あるはずのものがない。

 そんな感覚を確かめるように私は周囲を見渡し風呂場へと足を向けた。風呂のドアを開けるとその正体に気が付いた。


 セミの鳴き声が聞こえない。


 どういうことだ。そう思い、自室をしばしうろついた私は窓を開け放った。身を乗り出すとやはりセミの鳴き声は聞えなかった。

 窓を閉じて、リビングを戻る。


 セミの鳴き声が聞こえる。


 なんでだ。そう思い、耳を澄ませる。確かにセミの鳴き声が聞こえる。その声は遠くから響いてくるような音色だが、外でセミは鳴いてはいない。

 この声はなんだ。周囲を見回していると視線のようなものを感じた。


 それは赤い光だった。

 除湿器の電源ランプ。それに導かれるように私は除湿器の電源ボタンを押した。


 セミの鳴き声が止んだ。


 室内にはエアコンとサーキュレーターの駆動音と風音が響いている。

 除湿器に電源を入れる。唸るような稼働音に次いでファンの回転が安定した。


 セミの鳴き声が聞こえだした。

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セミの鳴き声 世楽 八九郎 @selark896

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