第22球 女の子の部屋
「なっ、なにこの行事……」
スタディアプリ、通称スタアプの保護者連絡通知を見た母親が、週明けのオリエンテーション遠足について、親が何か準備するものはあるのかと尋ねてきた。
母親のスマホを借りてメールをチェックしたけど、学校でこの件について聞いた記憶がまったくない。
クラスのグループチャットを見ても何も書かれておらず、先生から遠足に関するお知らせの紙も配られていない。やむなくSNSで月に連絡を取ってみた。だが、1時間経っても既読がつかない。
桜木さんにSNSで連絡するべきか?
いや、オリエンテーションって書いてあるから、たぶん1年生だけの話だと思う。すこし迷ったけど、このままでは埒が明かないので、行動することにした。
「とりあえずお弁当だけ用意しておくわね」
「ありがとう、ちょっと出かけてくるね」
自分の部屋で着替えて、キッチンに立っている母親へ出かけることを伝えて、玄関から外へ出た。
向かう先は月の両親が経営している食堂。
「あら、陽子の息子さん」
「こんばんは」
食堂に入って奥にいる月のお母さんに挨拶した。
「学校のことで聞きたいことがありまして」
事情を話すと、月のお母さんは笑いながら答えた。
「それは大変ね。でも、ここは店舗で、家は別の場所にあるのよ」
え、そうなの?
てっきり、この店の2階と3階が自宅だと思っていた。
「ちょっと待ってね」
月のお母さんがメモ用紙に自宅の場所を書いてくれた。
「はい、どうぞ」
「すみません、ありがとうございます」
手書きの地図を受け取ると、商店街から少し離れた場所が示されていた。
ん、ここ、知ってる場所だ……。
例のカエルのトイレがある公園の向かい側。
そこに和風のお屋敷風の塀があって、周りは高い塀で囲われていて中が見えない。中学校の頃、あの家は怖い職業の人が住んでいるって噂があったのを思い出す。
──天花寺。
ホントだ。ちゃんと天花寺って、立派な表札が出ている。
最近はプライバシーのために表札を出さない家が増えているって聞いたけど、初めて来る人には表札があるとすごく助かる。
それにしても。
門の前にはすでにカメラが3台も設置されている。
「あれ、太陽?」
「こんばんは、月のお母さんに家の場所を聞いて……」
インターホン越しに月が出たので事情を説明した。
「弁当と体育着、ジャージ。それと日焼け対策かな?」
あっぶな。遠足って、近くの海に行ってレクレーションをするんだ。やっぱり聞きにきて正解だった。
「ありがとう、じゃあまた明日ね」
「まさか、人の家に来てそのまま帰ろうとしてるわけじゃないよね?」
「え……」
帰るつもりだったんですけど?
「中に入って」
ガチャッと、金属でできた門のそばにある扉の鍵が開く音がした。
中に入って扉を閉めると、4つのかんぬきが自動で施錠されるのを見た。すごい、厳重すぎないこの家?
前庭って言うのかな? 左右に立派な木が並んでいて、見ているだけで心が和む。
なにこれ?
角を折れた先に目の前に新しい門が現れた。
僕が門の前で立ち尽くしていると、中から音がして、門が開き月が顔を出した。
「いらっしゃい」
これは……。
中門の内側にあったのは普通の家だった。周りの立派な塀を見ていると豪邸を想像してしまった。
「意外だった?」
「え、あ、うん」
素直に答えてしまったけど、これって失礼じゃないかな?
「実はね……」
玄関を開けて家の中に入ったが、やはり普通の雰囲気。月が来客用のスリッパを靴箱から出してくれたので、ありがたく使わせてもらった。
月によると、天花寺家は由緒ある家柄で、土地は先祖から受け継いでいるから、立派な塀が残っているらしい。でも、ひいひいじいさんが戦争で亡くなって、まだ小さかったひいじいさんが、跡を継いだものの、散財しまくって落ちぶれてしまったという悲しい話を聞いた。
「コーヒーでいい?」
「うん」
月の部屋は扉を開けたら正面に壁があって、左右にちょっとした廊下があり、右側の部屋に案内された。
女の子の部屋って、レースやフリルで装飾してるようなかわいらしいイメージがあった。だけど月の部屋は特に装飾などしておらず、女子っぽいぬいぐるみもなく、野球の本やグローブ、バットが置かれていて、男子の部屋と言われても納得できそうな雰囲気だった。
「砂糖いる?」
「ううん、大丈夫。月って、きょうだいがいるの?」
部屋の真ん中にある小さなローテーブルをはさんで、向かい合って座っている。出された飲み物にすぐに手をつけるのはちょっと気が引けるので、先ほどから気になっていることを聞いてみた。
部屋がふたつあるので、きっときょうだいがいると思う。もし年下だったら2、3コ下までは妹の海が知っていそうなので、お兄さんかお姉さんがいるのかな?
「10歳以上も年の離れた兄が
家にお邪魔して数分も経たないうちにやらしてしまった? 彼女の表情が少し暗くなったのと「いたんだ」っていう言葉から、少なくとも月にとってはあまり嬉しくない話題を振ってしまったことに気づいた。
月の家は4人家族で、お兄さんは10年以上前、高校生の頃に交通事故で亡くなったらしい。お兄さんは小さい頃からずっと野球をやっていたそうだ。
「ちょっと待ってて」
お兄さんのものを何か見せてくれるらしい。隣の部屋に行って、ゴソゴソと何かを探し始めた。
いや……いやいやいや。
ってことは、もももしかして、この家にふ、ふたりきり……?
考えてみたら、僕、普通に家に上がって、女の子の部屋にいるんだけど?
最初の塀とか門の強烈な印象のせいで、すっかりこのことを忘れていた。意識し始めると急に心臓がバクバクして試合の時よりも緊張してきた。
「これ知ってる?」
「ここここここっコレデスカ?」
ダメだ。頭に血がのぼりすぎて、自分でなにしゃべっているかわからない……。って、ちょっと待って。
僕が所属していた八景シニアの記念写真。僕らの世代より10年以上前に全国大会常連の黄金世代がいたと聞いていた。地区大会優勝のトロフィーを持って真ん中に座っているのが、月のお兄さんだそうだ。
月のお兄さんってキャッチャーをやってたんだ。
ちょっと胸が痛んだ。
写真の中のお兄さんは自信に満ちた優しい笑顔を浮かべている。でも、打席に立っている写真にはボールを狙う鋭い目つきでバットを構えているお兄さんが写っていた。
「カッコいいでしょ?」
「うん……」
すごいな。月のお兄さんは高1の頃に亡くなったらしいけど、あの名門東横大三浦高校で、1年生ながら正捕手を務めていたんだって。
「私に手には大きすぎるけど、これ欲しい?」
「これは……」
今は引退した川崎ドジャースの名捕手、小山選手が使っていた小山モデルのキャッチャーミット。ボックス型と呼ばれるタイプで、構えると縦になる深めのミットだから、捕球力が重視されている。
「こんな大事なもの、もらえないよ」
「うん、あげない」
「へ?」
さっき、あげるって言わなかった?
月の言っていることがちょっと分からなくなってきた。
「太陽が、このミットにふさわしい人になったらあげる」
そしたらきっと兄も喜ぶだろうと話す。
でも、ミットにふさわしい人ってなんだろう? きっと僕には無理だと思う。
「ねえ太陽」
「うん?」
月の柔らかい笑顔が硬くなったので、僕はまた緊張し始めた。
「努力しても報われないことがあるのは知ってるよ」
まっすぐ僕の目を見つめる月。彼女のこんな目が笑っていないのを何度か見たことがある。最初に見たのは4月半ば、桜木さんに勝負を挑んだ時……。
「でもね、本気で努力したと言い切れる人って少ないと思うんだ」
ここまでの話を聞いても、彼女が何を言いたいのかよくわからなかった。黙って話の続きを聞くことにした。
「本気で努力した人間はたとえ失敗しても後悔しないけど、本気で努力しなかった人間は一生後悔すると思う」
「──っ!?」
お兄さんが月に小さい頃に「努力が報われない人を馬鹿にしちゃいけないよ」と教えてくれたらしい。
それを聞いて彼女の言いたいことがわかった。
「もうひとつ聞いていい?」
月の言葉を忘れないように頭のなかで何度も繰り返していると、月が別のことを質問してきた。
「太陽って桜木さんのこと、どう思ってるの?」
「ぶふぅっ」
話を聞きながら、そろそろいいかなと思ってコーヒーを戴いている時にとんでもない剛速球のストレートのような質問が飛んできた。思わずコーヒーを横に吹き出してしまい、シミにならないように急いで雑巾をもらって拭いた。
「怖そうだけど、優しい先輩だよ」
「それだけ?」
それだけとはどういう意味だろう……。
僕は今、もの凄い修羅場に立たされているのだろうか?
この手の話は僕の経験上、前例がない。でも、転生物ラブコメで似たようなシチュエーションを読んだことがある。でもおかしい。ラブコメの世界ではこの質問は男女の関係になる一歩手前のいわば軽いキャッチボールのようなものだと覚えていたのだが……。
この質問に対する最適解はなんだ?
場合によっては、主人公が地獄を見るパターンもあり得る展開。
ダメだ。ラブコメ小説に頼らずに自分の思っていることを素直に伝えよう。
「桜木さんが電車の中で赤ちゃんを抱えたお母さんを助けているのを見たんだ」
その勇気ある行動を見て、素敵な女性だと思った。僕と話すときはなぜかチラチラと目が合う程度だが、自分をしっかり持っている。メチャクチャクレーマーな大人の女性に対してもまったく物怖じせず、自分を貫く強さがある。もちろん、エースとして安心してマウンドを任せられる強い精神力も兼ね備えている。
「うーん、ギリ合格」
何に合格したんだろう?
でも、とりあえず修羅場は切り抜けたようでホッとした。
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