2
同じ夜。
クロエは、食堂で食事をするのが嫌で、テイクアウト出来る食べ物を紙袋に詰めて、食堂と寮の中間地点にある中庭の、少し奥まって人気のない場所にあるベンチに座り、一人黙々とガレットを食べていた。
様々な思いが胸に渦巻いている。座学も実技も、必死になって自分を磨いているのに、努力しても努力しても、どうしてもあの赤髪の男にだけは勝つことが出来ない。
生まれ持った才能の違いとしか言いようがない。
クロエは、学年一位であるアルバートの王太子リファールとの戦績を覚えていた。実践形式の授業が本格的に始まった昨年から数えて、十一戦中、三勝八敗だ。敗けが込んでいる。
なぜか、これからどんどん差が付くような気がしてならなかった。
あの人は、自分ほどは努力して己れを追い込んでいるようには見えない。
もしもあの人が、本気を出したら……きっと、とてもじゃないけど、挽回出来ないぐらいに引き離されてしまうに違いない。
いつも彼の隣にいる、同じく優秀な焔術士のエドガー・エレンブルグに敗かされても、これ程の闘争心を抱くことはないのに、何故か分からないが、あのいつも涼しい顔をした赤髪の王子にだけは、どうにもならない焦りのようなものを感じてしまう。
「ひとり……?」
優しい声が頭の上から降ってきて、クロエは顔を上げた。
はっとする。
目の前に、この世のものとは思えないような、美しい少年が立っていた。
今夜は満月だった。明るい月の光を浴びて輝く、波打つ白銀色の長髪。深い滝壺の底のような、濃い蒼色の瞳。肌は健康的な小麦色だった。
年齢は、クロエと同じ十代後半といったところに見える。少年のあどけなさと、大人の男の狭間のような、妙に色気のある顔付きをしている。
「あなた……どこかで……」
初対面の気がしない。何故か懐かしさのようなものを感じた。
男はふふ……と心を蕩かすような優しい微笑みを浮かべながら言った。
「覚えててくれたの?昔、君がお母さんにこっぴどく叱られて泣いてた時、」
「あ、飴……!」
クロエは、ふわりと口の中に優しい紅茶の飴の味を思い出していた。
学院入学初年度の年だっただろうか。今日と同じような、満月の夜だった。
休日に実家に帰った時、成績が思ったほど振るわなくて、両親に罵られて、夕食ももらえずに庭に放り出されたんだっけ。
あの時、十歳のクロエに金色の紅茶の味の飴をくれた、優しい男の人が居たのだった。
「でも、おかしいわ。あれから七年も経つのに、あなた、あの時とちっとも変わっていない」
脳裏にふと蘇ったこの人は、記憶の中の姿から、少しも歳を取っていないように思う。それとも、クロエの思い違いだろうか……。
「神の遣い……『半神族』って言っても、信じてはもらえないかな……?」
美しい人は、クロエの隣にふわりと座って言った。
何故か、中庭に、人の気配が全く無いように思った。
さっきまで、遠くざわざわと学生達がざわめく声が聞こえていたはずなのに。
まるで今、この世に、二人きりになってしまったみたいだ。
クロエは何故か心音が少しずつ高鳴るのを感じた。
もう一度会いたいと、ずっと想っていた人が目の前に居て、たった二人きりだった。
「『神の遣い』……?」
クロエは首を傾げて聞き返す。
食事はとっくに終わっていて、紙袋だけがクロエの膝の上に載っていた。
「
「アルファトス……」
福音のように、綺麗な響きだ。
アルファトスの宝石のような蒼い瞳が、落ち着いた光を湛えてクロエを見詰めている。
「綺麗だ」
アルファトスは思わずと言った口調で呟いた。
「気付いてる……?君はこの学院の、どんな生徒よりも綺麗だよ。一目見た時から、目を離せなくなってしまった」
「綺麗だなんて……」
クロエは自嘲した。そんなこと、今まで誰にも言ってもらったことはない。
「綺麗だよ。その艶やかな黒髪も。きめ細やかな白い肌も。憂いを帯びたような、深い藍色の瞳も……溜め息が出てしまうくらいに美しい」
頬が熱くなるのを感じる。
誉め殺しと言うやつだ。クロエはこれまで、こんな風に誰かに面と向かって誉めてもらったことは、一度もなかった。
だいたい、自分の容姿になんて、頓着している暇はなかったのだ。そんなことよりも大事なことが、自分の周りにはたくさん有りすぎて。
クラスメートや、他の誰かに同じことを言われたら、何を馬鹿なことを……と、笑い飛ばしていたかもしれないが、なぜか、この『神の遣い』と自らを称する、幼い頃から記憶にずっと残っていた、ずっと会いたかった人にそう言われると、この上なく、耳を熱くするような、くすぐったい気持ちがこみ上げてくるのだった。
アルファトスは、そんな風に頬を赤らめているクロエの姿を見て、ますます美しいものを愛でるような、うっとりとした顔をするのだった。
「クロエ、目を瞑って」
アルファトスが言う。
クロエは、何故私の名前を……?と思いながら、言われるままに目を瞑る。
アルファトスがクロエの顎に指を掛け、少しだけ上を向けさせると、そっと口唇が重ねられた。
ふわりと心が浮き立つような、暖かな感触。
気付くと、クロエは号泣していた。
胸が痛くて耐えられない。
涙がいくらでも溢れてきた。
「な、なぜ泣くの……?嫌だった……?」
目の前の、この上なく美しい、人外の存在が慌てふためいていた。
「違うの。嬉しいの」
クロエは、こんな風にずっと、誰かに誉めてもらいたかったのだと言うことに、はじめて気が付いた。
両親は、クロエがどんなに頑張っても、ぜんぜん誉めてはくれなかった。
もっと上を目指せと、追い立てるばかりで。
「人間は、嬉しい時にも……、涙を、流すものなんです」
クロエは、しゃくり上げながら、人ならぬ存在に、自分の気持ちを一生懸命伝えようとした。
耳の奥で心臓の音がドクドク言っている。
生まれてはじめて、心が弾んでいた。
クロエにとって、初めてのキスだった。
誰かを好きになったことも、一切無かったのに、ほとんど初対面に近い男の人と、キスだなんて……。
そんな風に恥じ入る気持ちすら、クロエに取って、世界を輝かせるようなことだった。
思わず目線で周りを見回す。
「心配しなくていいよ。ここには僕とクロエ、二人きりしかいないから。『半神族』だと言っただろう?そのぐらいのことは、お手のものさ」
アルファトスはふわりと笑う。
『神の遣い』だの、『半神族』だのと言われても何のことか分からないが、この人が、普通の人間でないことだけはひしひしと肌で感じられた。
そもそも、クロエが、水術士固有の能力で透視しているアルファトスの呪力の色が、半端ないのだ。今まで、これほど冴え渡るような空色の呪力など、見たことがない。
極上の呪力であることは間違いがない。
「クロエ。覚えておいて。もし、君があのアルバートの王太子に勝ちたいと思っているのなら、いつでも僕のことを喚んで。僕は君に、『至高の呪力』を与えることが出来る。そうすれば君は、人間の力を遥かに凌ぐ、紺碧の力を手に入れることが出来るよ」
その言葉を最後に、美しいスフィンクスは姿を消した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます