同じ夜。

 クロエは、食堂で食事をするのが嫌で、テイクアウト出来る食べ物を紙袋に詰めて、食堂と寮の中間地点にある中庭の、少し奥まって人気のない場所にあるベンチに座り、一人黙々とガレットを食べていた。


 様々な思いが胸に渦巻いている。座学も実技も、必死になって自分を磨いているのに、努力しても努力しても、どうしてもあの赤髪の男にだけは勝つことが出来ない。

 生まれ持った才能の違いとしか言いようがない。


 クロエは、学年一位であるアルバートの王太子リファールとの戦績を覚えていた。実践形式の授業が本格的に始まった昨年から数えて、十一戦中、三勝八敗だ。敗けが込んでいる。

 なぜか、これからどんどん差が付くような気がしてならなかった。

 あの人は、自分ほどは努力して己れを追い込んでいるようには見えない。

 もしもあの人が、本気を出したら……きっと、とてもじゃないけど、挽回出来ないぐらいに引き離されてしまうに違いない。


 いつも彼の隣にいる、同じく優秀な焔術士のエドガー・エレンブルグに敗かされても、これ程の闘争心を抱くことはないのに、何故か分からないが、あのいつも涼しい顔をした赤髪の王子にだけは、どうにもならない焦りのようなものを感じてしまう。


「ひとり……?」


 優しい声が頭の上から降ってきて、クロエは顔を上げた。

 はっとする。

 目の前に、この世のものとは思えないような、美しい少年が立っていた。

 今夜は満月だった。明るい月の光を浴びて輝く、波打つ白銀色の長髪。深い滝壺の底のような、濃い蒼色の瞳。肌は健康的な小麦色だった。

 年齢は、クロエと同じ十代後半といったところに見える。少年のあどけなさと、大人の男の狭間のような、妙に色気のある顔付きをしている。


「あなた……どこかで……」


 初対面の気がしない。何故か懐かしさのようなものを感じた。

 男はふふ……と心を蕩かすような優しい微笑みを浮かべながら言った。


「覚えててくれたの?昔、君がお母さんにこっぴどく叱られて泣いてた時、」


「あ、飴……!」


 クロエは、ふわりと口の中に優しい紅茶の飴の味を思い出していた。

 学院入学初年度の年だっただろうか。今日と同じような、満月の夜だった。

 休日に実家に帰った時、成績が思ったほど振るわなくて、両親に罵られて、夕食ももらえずに庭に放り出されたんだっけ。

 あの時、十歳のクロエに金色の紅茶の味の飴をくれた、優しい男の人が居たのだった。


「でも、おかしいわ。あれから七年も経つのに、あなた、あの時とちっとも変わっていない」


 脳裏にふと蘇ったこの人は、記憶の中の姿から、少しも歳を取っていないように思う。それとも、クロエの思い違いだろうか……。


「神の遣い……『半神族』って言っても、信じてはもらえないかな……?」


 美しい人は、クロエの隣にふわりと座って言った。

 何故か、中庭に、人の気配が全く無いように思った。

 さっきまで、遠くざわざわと学生達がざわめく声が聞こえていたはずなのに。

 まるで今、この世に、二人きりになってしまったみたいだ。

 クロエは何故か心音が少しずつ高鳴るのを感じた。

 もう一度会いたいと、ずっと想っていた人が目の前に居て、たった二人きりだった。


「『神の遣い』……?」


 クロエは首を傾げて聞き返す。

 食事はとっくに終わっていて、紙袋だけがクロエの膝の上に載っていた。


人間ヒューマンは、僕らのことを『スフィンクス』と呼ぶね……。覚えておいてほしい。僕の名前は、アルファトスと言う」


「アルファトス……」


 福音のように、綺麗な響きだ。

 アルファトスの宝石のような蒼い瞳が、落ち着いた光を湛えてクロエを見詰めている。


「綺麗だ」


 アルファトスは思わずと言った口調で呟いた。


「気付いてる……?君はこの学院の、どんな生徒よりも綺麗だよ。一目見た時から、目を離せなくなってしまった」


「綺麗だなんて……」


 クロエは自嘲した。そんなこと、今まで誰にも言ってもらったことはない。


「綺麗だよ。その艶やかな黒髪も。きめ細やかな白い肌も。憂いを帯びたような、深い藍色の瞳も……溜め息が出てしまうくらいに美しい」


 頬が熱くなるのを感じる。

 誉め殺しと言うやつだ。クロエはこれまで、こんな風に誰かに面と向かって誉めてもらったことは、一度もなかった。

 だいたい、自分の容姿になんて、頓着している暇はなかったのだ。そんなことよりも大事なことが、自分の周りにはたくさん有りすぎて。

 クラスメートや、他の誰かに同じことを言われたら、何を馬鹿なことを……と、笑い飛ばしていたかもしれないが、なぜか、この『神の遣い』と自らを称する、幼い頃から記憶にずっと残っていた、ずっと会いたかった人にそう言われると、この上なく、耳を熱くするような、くすぐったい気持ちがこみ上げてくるのだった。


 アルファトスは、そんな風に頬を赤らめているクロエの姿を見て、ますます美しいものを愛でるような、うっとりとした顔をするのだった。


「クロエ、目を瞑って」


 アルファトスが言う。

 クロエは、何故私の名前を……?と思いながら、言われるままに目を瞑る。

 アルファトスがクロエの顎に指を掛け、少しだけ上を向けさせると、そっと口唇が重ねられた。


 ふわりと心が浮き立つような、暖かな感触。

 気付くと、クロエは号泣していた。

 胸が痛くて耐えられない。

 涙がいくらでも溢れてきた。


「な、なぜ泣くの……?嫌だった……?」

 目の前の、この上なく美しい、人外の存在が慌てふためいていた。


「違うの。嬉しいの」


 クロエは、こんな風にずっと、誰かに誉めてもらいたかったのだと言うことに、はじめて気が付いた。


 両親は、クロエがどんなに頑張っても、ぜんぜん誉めてはくれなかった。

 もっと上を目指せと、追い立てるばかりで。


「人間は、嬉しい時にも……、涙を、流すものなんです」

 クロエは、しゃくり上げながら、人ならぬ存在に、自分の気持ちを一生懸命伝えようとした。


 耳の奥で心臓の音がドクドク言っている。

 生まれてはじめて、心が弾んでいた。

 クロエにとって、初めてのキスだった。

 誰かを好きになったことも、一切無かったのに、ほとんど初対面に近い男の人と、キスだなんて……。


 そんな風に恥じ入る気持ちすら、クロエに取って、世界を輝かせるようなことだった。


 思わず目線で周りを見回す。


「心配しなくていいよ。ここには僕とクロエ、二人きりしかいないから。『半神族』だと言っただろう?そのぐらいのことは、お手のものさ」


 アルファトスはふわりと笑う。


 『神の遣い』だの、『半神族』だのと言われても何のことか分からないが、この人が、普通の人間でないことだけはひしひしと肌で感じられた。

 そもそも、クロエが、水術士固有の能力で透視しているアルファトスの呪力の色が、半端ないのだ。今まで、これほど冴え渡るような空色の呪力など、見たことがない。

 極上の呪力であることは間違いがない。


「クロエ。覚えておいて。もし、君があのアルバートの王太子に勝ちたいと思っているのなら、いつでも僕のことを喚んで。僕は君に、『至高の呪力』を与えることが出来る。そうすれば君は、人間の力を遥かに凌ぐ、紺碧の力を手に入れることが出来るよ」


 その言葉を最後に、美しいスフィンクスは姿を消した。

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