「待たせたね、チネちゃん」


 チネの背後に隠れていたフレイがにこりと笑って一つの術を唱えた。


「呪力変換【翠緑を紺碧へ】」


 なに……?この違和感……。

 サラはなんとも言えない不安感がぞわりと背中を撫でるのを感じた。

 サラの呪力の色が緑から青に変わっていた。

 こ、こんなことって……

 しかし、戸惑っていたのは一瞬のことだった。


「“異議申し立て【紺碧へ】“」


 二人の前へ進み出てきた赤髪の王子が、涼しい顔で決定的な術を放つ。

 “異議申し立て【紺碧へ】“――?深紅と紺碧が対をなす対抗色であることを象徴するような一手だ。

 対する紺碧の術にも、“異議申し立て【深紅へ】“という術が存在する。

 サラとクロエが発動させていた“那由多の風“と“複製“、二つの術がすべて一気に打ち消される。


「やられた……」

 サラは思わず呟いていた。

 呪力変換でサラの呪力を【紺碧】に変換した後に、【紺碧】に対する異議申し立て。

 リファールはサラ達の猛攻に必死で耐えながら、この連携技の完成を待っていたわけか……。

 この術は紺碧に対しては無敵だが、もちろんリスクもある。味方に紺碧がいれば、味方の術まで残らず封じられてしまうからだ。

 うちが翠緑と紺碧の呪力消費を半減させたのと同じように、リファールチームに紺碧の使い手がいないからこそなせる技。

 意外な戦略に一歩対応が遅れた三人の隙を突いて、リファールがその長身をクロエの目前へと躍らせていた。


「“雷撃”」


 ゲームセットだった。

 クロエの胸元に向かって右手を突き出し、宣言するように王子が呟いた“雷撃”の一言にはもちろん、呪力は籠められていない。

 それでも、衝撃を受けたクロエは、その場にへたり込んでいた。


 クラスメート達から賞賛の拍手が静かに沸き起こる。


 見事としか言いようがない。いや、『執念』という言葉を使った方がいいかもしれない。

 クロエの得意とする連携技を、いかに封じるか、それだけを徹底的に攻略し、狙い撃ちしたかのような戦略だった。


 普通は焔術士のリファールが前衛に出てきそうなものを、初手で盾役のチネだけを出してきたことも、クロエお得意の『コピー戦略』を引き出そうとする挑発だったってわけね……。

 なかなか、粘着質な戦い方するじゃない。アルバートの王子様。

 悔しいけど、完敗だわ……。


 サラが悔しい気持ちを抱えながら冷静な自省をしている間も、クロエは、ずっとその場に座り込み、顔を俯けたままだった。


「クロエ……」


 思わず声を掛けようとしたサラが動くより前に、リファールがクロエの白くたおやかな腕を取った。


「良い試合だった、クロエ・カイル。さすがの手腕だ」


 クロエは揺れる瞳で一瞬、リファールを見上げた後、その手を冷たく振り払った。

 そして、まだ授業中で、他にも別チームの試合が控えているにも関わらず、クロエは立ち上がり、つかつかと演習場から出て行った。


「あ、クロエ、待って……!」


 サラは教師に一言断ってから、慌ててその後を追った。


 案の定、クロエはホームルームの自席に座って泣いていた。顔を俯けて、長い黒髪に顔を隠した彼女は、声も上げず、静かに涙を流している。

 サラは胸が痛んだ。

 伏し目になったクロエの黒い睫毛の下から、透き通った宝石のような水滴が、ぽろぽろとこぼれていた。


「クロエ、リファールの言う通りだよ。悔しいけど、すごく良い試合だった」


 リファールは、焔術士とは思えない、殴り合いなどを好まない、冷静で巧妙な試合展開を選んだ。

 とても勉強になる闘い方だ。

 好戦的な人間の多い深紅の呪力の持ち主のはずなのに、いつも泰然としている彼の性格が如実に現れている。


「『良い試合』では済まされない。私は、この国の盾なのよ……。敵国の王子に負けて、『良い試合だった』、では済まされないのよ……」


 クロエの呪いのような言葉が続く。

 サラは舌を巻いた。何という崇高な思想だろう。

 お金を稼ぐため、とか、同級生たちに良いところを見せたいから、とか、サラが抱いているような、甘い考えとは程遠い。

 この子は、何よりも、南方諸国の代表国である『アルバートの王子』に負けたのが悔しいのだ。

 彼女にとって、あの男は、守るべきランサー帝国をいつか脅かすかもしれない敵国の王太子でしかないのだ。

 そういう風に、徹底的に育てられているんだわ。

 田舎の貧乏商家の娘には、及びも付かない考えだ。

 ただの学校の授業。ただの試合じゃない。いちいちそんなに、熱くなる必要なんてないのに。


 でも、そう思うのと同時に、これだけ熱い思いを持てるクロエの、気高く美しい姿に憧れる気持ちもあるサラだった。


「クロエ、良いこと考えたよ。貴女が、あのアルバートの王子様を夢中にさせて、結婚すればいいのよ……!政略結婚だよ、そしたらランサーも安泰だわ。最強の水術士と、最強の焔術士が結ばれたら、どれだけ強い術士が産まれることか、楽しみだとは思わない……?」


 サラは思いっきり能天気な振りをして、脳内でいつも妄想している考えを、いつものように彼女に告げた。

 リファール王子とクロエ・カイル。品行方正な主人公キャラと陰のある氷姫。焔と水――見た目も中身も、お似合い過ぎるんだもん、この二人。

 同級生の皆も言っている。

 学年主席と次席は、最高にお似合いのカップリングだって。


 クロエは、きっと顔を上げて、藍色の瞳で睨み付けるような視線をサラに向けると、吐き捨てるように言った。


「私の気を晴らそうとしてくれているのは分かるけれど、今はまったく受け付けないわ。……放っておいてくれない?」


 手の平で涙を払うクロエに、サラはめげずに声を掛け続けた。


「クロエ、肩肘張りすぎてたらだめだよ。そんなにいつもいつも張り詰めていたら、いつか壊れてしまう。私は、それが心配なんだよ」

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