第十章「繋いだ手、あたたかな夢」
あの男性から一刻も早く遠ざかりたかった。
恐怖と焦りで胸が締め付けられる中、私は自分の家のドアを叩きつけるようにして逃げ込んだ。
大柄な男性は運動があまり出来ないのか、途中まで走ってはきたが諦めたように、私の家より遥か先でまた罵詈雑言を並べていたので、すぐには来ないだろう。
「三実?! どうしたの、そんなに慌てて……」
勢いよく帰宅した私たちを見て、母がリビングからスリッパの音を立てて玄関に向かってきたが、私の口元の切り傷と天音を交互に見て、ただ事ではないような表情をした。
「不審者!? 早く警察に……」
「待って……下さい。あの、原因は父親なので……その……」
天音が私の背後で、普段よりもかすれた声で頼んだ。
混乱と恐怖が入り混じった彼女の手は、震えているのに、それでも必死に声を絞り出していた。
「夜分遅くにお騒がせしてすみません。……すぐに帰りますので」
「ダメだよ、天音! 今外に出たら……」
「でも……」
天音は、震える手でドアのチェーンを自ら外そうとしていたので、私は急いで止めた。
「今日私の家に泊まって。お母さん良いよね」
私が母にそう伝えると、母は曖昧に頷いた。
「状況がよくわからないけど……。とりあえず、二人とも上がりなさい」
母は、私たちの不安げな様子を察してか、優しく手を差し伸べてくれた。
私と母親が声を掛け、天音がついに、ドアから背を向ける。
「……良いんですか」
「天音さんは一度お風呂入りなさい。泥と汗まみれよ。三実はお母さんに説明と怪我したところの消毒をしてから入ってね」
母が踵を返し、さっさとリビングに入ったので、私と天音は一度顔を見合わせてから、母の指示を受けるしかなかった。
天音がお風呂に入っている間、私はお母さんに一部始終を話してから警察にも電話しようとすると、母親が私を止めた。
「お母さんがしておくから」
大人の手を借りなければならない今の自分が悔しかったが、渋々と手に取ったスマホを親に手渡した。
母親が警察に電話をすると、どうやら、母親が電話する前に由崎市の人から通報が入ったらしく、天音の父親は今近所の交番に連れて行かれているらしい。
電話をしている間で塗り薬を頬に塗り終えた私に、話を終えた母親が説明してくれた。
「とりあえず、大事になる前に、警察には天音さんのこと話をつけておいたから。一度こちらで休ませるようにしたけれど、それで良かった?」
「うん」
「明日、警察が詳しいことを天音さんに訊きに来るそうよ。今日は二人とも休みなさい。私はもう夜遅いから寝るわね」
「ありがとう、お母さん」
母親はあくびを一つしてから、ひらひらと手を振って、リビングを後にしてから、急にドッと疲れが出てしまった。
河川敷での出来事が未だに頭の中で焼き付いて離れない。
頭を抱えて、机にうつ伏せになっていると、肩を軽く叩かれた。
「わっ」
「シャワーだけ借りた。ありがとう」
彼女は火照った顔で、無理に笑顔を作り、私に向けた。
その表情は普段の天音とは違ってぎこちなく、まるでガラス細工のように壊れやすく見え、今にも崩れてしまいそうだった。
「ええと……お茶、入れるね」
椅子を引き、台所にある冷蔵庫に行って、麦茶をガラスのコップに注いでから、机に置いた。
突っ立ったままの彼女はコップには手を付けずに、小さく、「三実」と呼び掛けた。
「どうしたの」
近付いてみると、天音は私の体を引き寄せ、背中に手を回した。
温もりのある包まれ方だった。いつも上ばかりを向いて私に笑いかけていた天音の姿はここにはない。
私の肩に顔を埋め、堪えきれなかった涙を流し、静かに嗚咽する天音は、まるで迷子の少女のようだった。
彼女は、自分の安心できる場所を確かめるように、強く私を抱きしめていた。
「三実に、怪我をさせてしまった、あたし、大好きで大切な人を傷つけてしまった。最初からあたしの我儘に付き合ってもらっていたのに、家族のことまで巻き込むつもりじゃ、無かったのに……」
「天音」
彼女に倣って私も下ろしていた腕を、彼女の背中に回す。
「大丈夫」
「……」
「私はここにいる。天音の隣に、ちゃんといる」
「うん……」
「天音、私はね。天音がお父さんに殴られそうになっている姿を見たとき、絶対に守るって、体が先に動いたの。天音が大切だったから、出来たことなの」
天音の長い髪が私の香りと混ざり、心地よく漂ってくる。
私の家のシャンプーを使ったから、当然のことだけれど、二人でひとつになったような、不思議で温かな時間が流れていった。
私が風呂に入った後、リビングでぼんやりと座っていた天音を連れて、私の部屋に向かった。
掃除があまりされていないので、床に写真集や雑誌が多少散らばっていたが、天音は気にしなかった。
ベッドが一つしかなかったので、私が床で寝ようと準備をしに行くと言ったが、彼女は意地でも私のベッドで一緒に寝たいそうだった。
「狭くなるけどいいの?」
「一人だと、今日は寂しい」
瞳を潤ませている彼女を見て、それもそのはずだなと思ってしまった。さっきまで恐ろしい思いをしてきたのだ。
電気を消して、暗闇の中で、私は天音の入ったベッドに無理やりもぐりこんだ。
「へへ、三実近い~」
「天音が入れって言ったからでしょう」
向かい合って誰かと一緒に眠るなんて、一体いつまでしていただろう。
母親と、幼稚園の頃までだっただろうか。
誰かの体温と隣同士でいられる状態は何故、こんなに心の内が優しさで満ちていくのだろうか。
「三実、もう少し、起きられる?」
「うん、どうしたの?」
天音が静かに、しかし確実に私を呼びかけてきた。その声には、普段の元気さがない。私は、寝ぼけた目を擦りながら、少し驚いて顔を上げた。
あまりに安心する居場所だったからか、気を抜けばいつでも寝てしまいそうだったのだ。
時間はもうすぐ二十三時を過ぎるところ。いつも寝る時間よりは少し早い。
「起きられるよ」
「ありがとう。……まずもう一度謝らせて。怪我をさせてしまって、ごめん」
「いや、それは天音じゃなくて、天音のお父さんの行動だし……。それに、殴ったとしてもかすった程度だし」
「でも……」
「それよりもどうして二人であの場所にいたの?」
話を促すと、一度天音は渋い顔をした。
「あたしを追ってきたの。今日、三実と別れた後、久しぶりに家に帰って、お父さんにこの家を出たいって真っ向から話したの。でも、あたしの言葉は全然届かなくて……」
「……え」
暗闇ではっきりと天音の顔を見ることが出来ない。
でもきっと、彼女は意志ある表情で言った。
「三実とこの前、海に行って別れた時に思ったの。三実と笑い合える世界に行くには、やっぱりまずあの家としっかり決別すべきだって」
彼女は静かに少しずつ胸の内を打ち明けるように、ゆっくりと語りだした。
「ちゃんと考えて無理な稼ぎ方をすることも辞めたくて、自分一人でやろうとした計画を止めた。母の遠くの親戚に連絡しまくった。そうしたら一人だけ、高校生までは引き取ってくれる相手を見つけだせたの。……それでも、やっぱり由崎市から遠い、
「そのことを天音のお父さんに言ったんだ?」
「しかも、ビール瓶持ちながら家で酒に溺れていた時にね。酒飲んでいる時以外の日が無いから仕方なく。案の定意味が通じない暴言であたしの意見は真っ二つ。長く話し合っても埒が明かない頃。瓶まで投げてきたから、あたしは家から飛び出した」
今に至る直前までの話だったそうだ。助けも呼べずに、ただただ逃げるしかなく、誰もいない道を真っ直ぐに駆けて行ったのだ、と。
「河川敷に行ったらもしかしたら三実と会えるかもしれないって願いながら向かったの。でも、まさか会えるなんて思わなくて。……怪我させるなんてもっと思ってもみなかった」
「天音が泣いている方が、私は辛いよ」
本心だった。もう彼女の辛い顔を見たくなかったから。
私の思いを受け取ったのか、どうなのか。彼女は腑に落ちない表情を止めて、目を細めた。
「あたし、正直まだ不安。明日警察に話すことも、お父さんとのことも。色々。それでもね、あたしには三実がいるって思うだけで、なんだか凄くなんでも出来る気がしちゃったの。ちょっとやりすぎちゃったかもしれないけれど……」
頬をかく彼女に、私も笑いかける。
「私は天音の一生の味方だよ」
「……ありがとう。明日三実の恨みも一緒に絶対父親にぶつけてくるね。 あたし頑張る!」
「そのやる気は少しだけ不安だ……」
「今のあたしなら百人馬力だからね!」
ブイサインを私に向ける彼女は、何故か得意げで、私も破顔すると、天音は真面目な調子を戻した。
「あたしも、三実の一生の味方だからね」
「親友だから?」
「ううん。三実だから」
約束の証のように、私たちは自然に小指と小指を絡めた。その小さな動作に込めた思いは、言葉では表せないほど強く、心の中で確かに交わされた約束だった。
私たちはどうして出会ったのだろう。
誰かにとっては、私たちの出会いなんて、誰にとっても意味のない一人ぼっち同士が逃げ出す宣言をするだけの短い物語だったのかもしれない。
そんなことどうだっていい。
私たちの出会いは、私たちにとっては大切な物語だったからだ。
「好きだよ、天音」
寝ころびながらするりと魔法のように彼女に伝えた。
何度も何度も声に出したいほど心臓が高鳴る、魅力的な言葉と名前だったから、私はもう一度彼女の名前を呼ぼうと口を開こうとした時、柔らかな感触が唇に触れた。
「あたしもよ。三実」
唇同士が触れ合う直前、確かに彼女は私の名を呼び、そう言った。
空ではきっと、雲の上で星が潜めるように舞っている。
私は静かに心の中で願った。
織姫でも彦星でも神様でも誰でも良いから、耳を傾けて下さい。
離れる現実が目の前にくることを受け入れるから、いつか絶対に私たちが一緒にいられる未来が欲しい。
出来ないことは分かっている。だとしたら、手の届かない距離にそれぞれ向かったとしても、互いに幸福を望めるような未来でありたい。
そんな願いさえ消し去って私と天音を囲む現実から目を背けられて二人でこの夜を、ずっと続けられたなら。
明けない夜の中で、星とともに眠ることを許される世の中だったら。
それは、どんなに。
どんなに良いことなのだろう。
そう思いながら目を深くつむる。
目を開けた先にしか、願いを叶えられない現実が来ることに怯えてしまったから。
すると、小指だけが絡んでいたはずの私たちの手が、天音によって、自然と全ての指を絡められていた。
強く握られたことに驚き瞳を開くと、目の前には月明かりが射し込み、天音が夜闇の中で微笑んでいるのが見えた。
大丈夫、と伝えるように。
これから離れ離れになったとしても、天音の手のひらの暖かさを覚えている。
私も彼女の手を握り返し、目をつむった。
その日は、深くて暖かい夢を見ていたような気がする。
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