【少しゾッとする話】アネコムシ

高遠 ちどり

アネコムシ

 「アネコムシ」ってご存知でしょうか。


 むしろご存知ない方が少ないかもしれません。カメムシのことです。

 父の田舎ではカメムシのことを「アネコムシ」と呼びます。いわゆる方言です。


 都会周辺だと山や森が近い地域でない限り、一年に一匹見るかどうかだと思います。現に、私が住む地域では住宅街に囲まれているため、ほとんど見かけません。


 しかし、父の故郷は東北で山に程近い地域。空気が綺麗で落ち着いた雰囲気が大好きですが、秋に行った際、改めて自然に囲まれることの意味を思い知りました。


 先に申し上げると、私は虫が大の苦手です。

 蜘蛛は半径五十センチメートルもあれば冷静で居られますが、宙を飛ぶ虫だと気が狂ったように逃げます。


 私のような人間が、秋に田舎に行くとどうなるか。


 駐車場で悲鳴を上げ、道の駅や土産物屋で震え上がり、ホテルで布団を被る事態に陥ります。


 どこを向いてもアネコムシ、アネコムシ、アネコムシ……。


 車に止まられてドアが開けられず、店の入口では潰れたアネコムシの絨毯ができ、窓のシミだと思っていたらよく見ると、模様のようにビッシリ止まっているのです。


 人は感動したときにも鳥肌が立つと言いますが、あのときの鳥肌は間違いなく恐怖からに違いありません。


 宿泊したホテルの入口には「窓を開けないでください。アネコムシが入ります」と書かれた張り紙がありましたが、既に廊下の壁には見慣れた茶色の五角形が……。


 移動する際は四方八方に目を凝らしてアネコムシがいないか確認し、部屋の出入りにも気を遣いました。


「部屋には絶対入らせない」


 固い決意を持って、家族総出で対策を講じました。


 その晩、夜通しの運転とアネコムシ対策で疲れ切っていた私たちは、夕食を摂ると部屋の布団で眠りこけていました。


 夜中、正確には一時頃でしょうか。

 トイレで一人が目を覚ますと、足音で連鎖的に目を覚まし始めました。


「夕食後に酒盛りしようと思ったのに、疲れて寝ちゃったね」


 なんて目を擦りながら雑談をしていると、母が伸びをした姿勢のまま固まりました。慣れない布団で体でも痛めたのかと問うと、静かに首を振って視線の先を指差します。


「ねぇ……あれ、そうじゃない?」


 明言はしませんでしたが、そのときの「あれ」と言えばアネコムシしかいません。


 私も父も母が指差す先を見上げ、和風の電気傘の木枠に小さく動く影を認めました。その瞬間、私は自分の布団から逃げ、服や掛け布団に落ちていないか確認しました。


 私が寝ている丁度真上で、アネコムシ達は平均台で遊ぶように電気傘の上をうろついていたのです。知らなかったとはいえ、うっかり足を滑らしたアネコムシが布団の上に落ちて這っていたかもしれないと思うと、今でも背筋が凍ります。


 密閉空間に人間とアネコムシ。

 このとき、部屋を支配していたのは確実にアネコムシでした。


 アネコムシの対処法はガムテープを使います。粘着部分にペタッと貼って捕獲していたのを、ホテルの受付でも見かけました。


 その衝撃で異臭を放ってこないのか、と尋ねましたが、何度も触るようなことをしない限りは問題ないそうです。


 父が久々とはいえ対処の仕方を知っているので、早速ガムテープを探したのですが、部屋には見当たらず。


 夜中ではありますが、仕方なくフロントに電話をかけたものの繋がらず。とはいえ、知ってしまっては一晩を共にできるほど寛容になれる相手ではないので、何度か通話を試みましたが、一向に出ない。


 照明が九割方落とされた静かな廊下を恐々進み、フロントまで向かったものの真っ暗なフロントには誰の姿もありませんでした。いっそ、冷えた空気が足を通り抜けるフロントの方が幽霊でも出そうな雰囲気でしたが、アネコムシの恐怖は幽霊のそれに勝りました。


「きっと他の部屋で、同じくアネコムシの対処に追われているのだろう」


 何度か部屋とフロントを往復しましたが、そう結論付けて諦め、現代の知恵を借りることにしました。


 ネットで調べると、空きペットボトルに水と洗剤を入れ、そこに落とす対処法があるそうです。その方法を見つけてからは、各自の行動は素早いものでした。


 自販機で炭酸ジュースを買ってコップに注ぎ、家族で乾杯して気合いを入れました。その空きペットボトルで、父が即席の罠ペットボトルでアネコムシに立ち向かい、私と母は側で観測者となって位置を報告します。


 スイカ割りのように、右だの左だの指示を出して約三十分。ようやく三匹のアネコムシを捕獲して適切に処理し、部屋には再び平穏が訪れました。


 電気の傘をうろつく姿や、ペットボトルに落ちたアネコムシたちが泡の中を浮いている情景が、未だに脳裏に残って離れません。


 ですが、以降もアネコムシには遭遇したものの何度も見れば慣れてしまうもので、恐ろしいことに母は写真撮影すらし始めていました。


 未だに、当時の写真を嬉しそうに見せてきます。

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