第二章 山師団

第1話 ヤバいヤツ



 ここで、山田沢について記しておこう。

 静岡県西部、愛知県の東部との県境の山間部に位置しており、集落の人口は約三千五百人。面積は五十平方キロメートルである。

 九十パーセントが森林であり、林業を始めとした木材を生業とした産業とお茶や米などの農業を営む家が多い。

 ASE材木店は、今の社長のおじいさんが、会社として素材生産業を始めたのがきっかけだが、もっと以前から、林業に従事していた。

 元々は、山田沢周辺の山を村全体で管理しており、農業と林業を兼業していた家が多かったが、戦後、自動車が普及すると、都市部に働きに出るモノが多くなり、山の管理が追い付かなくなったので、先々代が林業を生業とする会社を設立して、一手に木材生産を担うようになったのが始まりである。

 現在は、ASE材木店が、山田沢の財産区を管理している。

 だが、先代の社長の時に、別の事業に手を出して、失敗して多額の借金を作り、会社を傾かせてしまう。それを今の社長が立て直している最中である。

 社長は峨朗は、若くてやる気があるが、しかし、時代の流れとともに従業員の数が減って、なかなか軌道に乗らないのだという。

 現在は、正規社員は高良一人、農業と兼業で手伝いにくる老人が二人いるという。そして今日、めったに来ない老人と、圭は初顔合わせであった。

 どんな老人が来るのかと緊張して現場にいくと、現れたのは、例の徘徊ジジイであった。


「紹介するよ、伊勢崎さん」


 紹介された圭は、伊勢崎を驚きの眼差しで見つめていたが、我に返り、社長を正視した。しかし、社長は平然としている。

 伊勢崎は圭には何も言わず、軽トラで作業の準備をしている根本に近づいていき、世間話をしはじめた。圭は、弾かれたように社長に近づいた。


「社長、あの人、辞めたって言ってませんでしたか?どういうことです?」

「今日は働きたいというから、受けたまでさ」

「で、でも……」


 あなた、あの老人を知らないって言いませんでした?と言いたかったが、言葉が出てこない。


「仕方ないよ、人材不足だから」


 社長は、そんな圭の心情など気にせずに微笑んでいた。



  *        *       *



 その日の作業は、捨て切り間伐の続きであった。


 高良は離れた場所に移動していき、伊勢崎は、根本と圭の二人の隣に入った。

 それぞれの場所で作業を始め、圭は相変わらず、根本老人のサポート役で、チェーンソーの燃料を持ってついていく。

 休憩時間となった時、ふいに根本が言った。


「お前、ってみるか?」

「え?いいんですか?」


 驚く圭。


「入って、しばらく経つんだ。いいに決まっているだろう」


 チェーンソーを使用するのに、時間の経過など関係ないのに、根本老人は自分のチェーンソーを圭に渡してきた。


「まず木の前に立って、頭上を見上げ、木の重心がどこにあるかを見る。木の傾き具合、枝のついた方が重心の方向だから木が倒れやすい。そっちに受け口を作るのが正しい伐採の方法だ」


 後に知った事だが、倒れやすいほうに受口を作るのではなく、倒したい方向に受口を作るのだが、根本老人は常に楽をしたいので、倒れる方向に受口を作り、すぐに追い口を入れる。だから、しょっちゅう、重心を間違えて、チェーンソーバーを木の間に挟まれていた。

 しかし、この時の圭はまだそんなことを知らなかったので、言われた通りにする。チェーンソーのエンジンを掛け、胸高直径二十センチの杉の木の前に立ち、頭上を見上げる。真っすぐの杉はわずかに谷側に傾いていたので、地面に膝をつき、谷側に向かって、根元から五十センチくらいの高さに三日月形の切れ目を作っていく。

 受け口を入れた後、その背後に切り口を入れていき、受け口の部分に近づけていく。すると、立木は、ミシミシといいながら、倒れ始めた。

 杉の木が、まっすぐに斜面に倒れていくのをジッと見つめている圭。


「な、簡単だろう?」

「ええ、まあ……」

「じゃあ、後はメシまでお前がやっていいから」


 そう言うと背を向けて、大きな古い切り株に腰かけ、タバコを取り出して火をつけた。

 圭はその様子を見つめていたが、入社して、二週間が経ち、体も慣れてきて、老人についていくだけの作業にマンネリを感じはじめていた。

 それに、簡単に木を切り倒していく根本老人の姿を見ているうちに自分にもあれくらいのことはできるはずだという、妙な自信があった。

 老人のチェーンソーを持って、立木に青のビニールテープが巻いてある木の前に立ち、先ほどと同じように受け口を作りはじめる。その後、受け口の背後に追い口(水平の切れ目)を入れていくと、先ほどと同じように木が倒れていく。

 木が倒れたのを確認すると、また次のテープの巻かれた立木に移動する。

 午前中は順調に伐採を終えることができた。しかし、昼食をはさみ、午後になり事件が起きた。


 午後に入っても、相変わらず、根本老人は、チェーンソーを圭に渡しっきりで、タバコをふかしていた。

 圭は調子よく、木の伐採を続けていったわけだが、近くに別のチェーンソーのエンジン音が聞こえてきた。

 見ると、山側の数十メートル先に、伊勢崎老人の姿が見えた。

 その瞬間、苦い物でも食べたような不快な感情が圭に頭の中に巡った。

 しかし、作業をやめるわけもいかず、なるべく、老人から離れるように作業を進めていくのが唯一の対抗手段であった。

 気が付くと、風が強くなっていた。

 伐採時は、風が吹くと木が風に煽られて、伐倒方向が変わることがあるので、気をつけなくてはならない。


「おい、風が強い時はツルをしっかり利かせろよ」


 チェーンソーがガス欠になったタイミングで、根本老人が叫んだ。

 視線を老人の方へ向けたその時である。不意に後ろの気配がして、わずか数メートル横に木が倒れてきた。

 木の枝が、風を巻き起こし、風圧が圭の全身をなめた。

 とっさに倒れてきた木の方向に目をやると、伊勢崎老人が圭に向かって、ニヤニヤとあのいやらしい目つきをしていた。

 圭は、全身がカアっとなって、身動きが取れずにいたが、


「ほら、ああやって、風で倒れる方向が変わるから気をつけろ」


 振り返ると、根本が立っていて、圭の手から、チェーンソーを引き取った。


「あとは俺がやるから」


 就業時間が終わり、車に戻った時、伊勢崎が圭に近づいてきて謝った。


「悪かったな」

「悪かったじゃないですよ、危ないでしょ、死ぬとこだったんだ」

「いやあ、風のせいで方向が変わったんだよ。でも、当たらないと思っていたから、大丈夫、大丈夫」


 全く反省の色がなく、あまりに温度差があったため、圭の怒りに火が付いた。


「大丈夫じゃねーよ、何考えてるんだ、てめえ?」

「……悪かったつってるだろうが」


 詰め寄ろうとした圭をあしらう様に、伊勢崎老人は手を振って、軽トラに乗り込む。


「何怒ってるんだ?」


 圭の背後から根本が尋ねた。


「いや、さっきの木が倒れてきた……」

「あれは当たらなかったよ、見てたらわかる。だから、まあ怒るな」


 圭は、老人たちの平然とした態度に、自分の方がおかしいのか分からなくなってしまう。

 会社に戻り、伊勢崎老人のことを社長に告げると、社長は深刻な表情になり、


「そんなことがあったのか……そうか、よく分かった。俺が伊勢崎さんにちゃんと言っとくから、心配しなくていいよ。それにもし、次にそんなことがあったら、もう来なくていいと言うからさ」

「よろしくお願いします」


 なんとなく釈然としないが、それ以上、何も言えなかった。

 そうなのだ、実際に事故になったわけではないので罰することはできないし、相手が二度と同じ過ちをしないか、自分が気をつけるしかない。その事実を知った圭は、この事業体では、誰も信用してはならないな、と感じた。

 それにしても単なるミスだったのか、それとも、圭を故意に狙ったのか?圭は改めて恐怖で、眠れない夜を過ごした。

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