その3 運命のひと……ってなに!?
「ねえねえ、瀬川くん~。いつもなんの本読んでるのぉ?」
「あぁ、これね。認知バイアスの本だよ」
「にんち……? えっと、なにそれ」
「バイアスには、偏り・歪みという意味があるんだ。つまり、認知バイアスは、認知の歪みのこと。僕たち人間が誤った思いこみを抱いてしまうのには、歪んだ思考プロセスも関係することがあると言われているんだよ」
「へ、へえぇ~~……? なんかよくわかんないけど、瀬川くんって頭も良いんだね! ねえねえ、今度、学校の勉強も教えてよぉ」
「あっ、抜け駆けずるーい! 私も瀬川くんに教わりたいなぁ、できれば二人きりでっ」
「どさくさにまぎれて、なに二人きりとか言っちゃってんの⁉ 瀬川くんはみんなのアイドルなんだからね!」
「盛りあがってるところごめんなんだけど、僕、学校の勉強はあまり得意じゃないかも……? 役には立てそうにないかな」
人気者の瀬川くんの机の周りには、休み時間になるたびに女の子たちが集まってくる。今日もモテモテだなぁ、すでに愛の告白もたくさんされてるって噂も聞いたし。女の子たちみんな「ごめんね、しばらく恋をする気はないから」って笑顔でかわされちゃったらしいけどね。
学校で一人ぼっちのわたしの趣味は、教室の隅でマンガを読むフリをしながら、そんな彼のご尊顔を眺めること。存在感を消しながら会話に聞き耳を立て、推しの新情報を手にいれることこそが、暗い学校生活の中での唯一の癒しの時間なのだ!
『その話は、瀬川くんに関係ないですよね?』
昨日の放課後は、ゴミ出しを手伝ってくれたにも関わらず、瀬川くんに大変不敬なことを言っちゃったなぁ。
思い出すと憂うつになるけど、決して、彼自身を嫌いになったわけじゃない。
噂には触れられたくない。
でも、瀬川くんがわたしの推しで、ささくれだった心をときめかせてくれる偉大な存在であることにも変わりはないのだ。
「なぁ、瀬川。今日の放課後はあいてる? 部活オフ組でカラオケ行くことになったんだけど、お前もこれねえ?」
「瀬川くん、この前来れなかったし今度こそ一緒にいこうよ! そこのカラオケ、ソフトクリームも美味しかったし~」
「僕はパスで。ごめんね」
「ええっ! なんでだよ。お前、部活も入る気ねえんだろ?」
「塾? それとも習い事とか?」
「んー……。ふふっ、なんだろうね?」
出た!
必殺・王子さまスマイル!!!
人差し指を唇にあて、首をほんの少しだけ斜めにかたむける。すると、それまで瀬川くんに言いつのっていた全員がうっとり! 女の子だけじゃなくて男の子まで、魔法にかけられたようにボーッとしちゃってる。でもでも、わかりますその気持ち! 遠目から見ても破壊力高めなのに、あんな至近距離でくらったら心臓とまっちゃうかも!
「え、えと……。遊びにいける日があったら、ぜひ教えてね!」
「うん、わかったよ」
そのまま、誰も彼の事情には踏みこめずに会話が終了した。
う~~ん、鮮やかに追及をかわすなぁ。ミステリアスなところも素敵だ、今日もわたしの推しは輝いてる!
その放課後のこと。
「はあぁ……。入部どころか、部活見学すらお断りかぁ」
わたしは音楽室の前で、またしても深いため息をついていた。
これから三年間も通う中学校生活において、楽しみが瀬川くん観察だけのままというのはさすがに良くない気がしていた。
難易度はとても高いけど、友だちだって作りたい。
そう思って、歌うことには興味があったし、ちょうど金曜日の放課後に新入生の部活見学をやっていると知って合唱部の活動場所に向かったんだけど……。
『あ~! もしかして合唱部の入部希望の子~? 大歓迎だよ、入って入ってぇ』
『ストップ! 先輩、ちょっと待ってください! その子、たぶん噂の子ですよ』
『えっ? あっ! もしかして、例の……?』
わたしが誰なのかを察した瞬間の、合唱部員たちに流れたビミョウな空気といったら、思い出しただけでもしんどくなるようなもので。
『ご、ごめんなさい! 部屋を間違えました、失礼します』
相手から見学を断られる前に、自分から逃げ出した。
疫病神の噂は厄介だ。
顔も知らないひとにまで広まっていて、どこに行っても仲間外れにされてしまう。
福宮中学校で楽しく過ごすという希望がどんどん消えていく。
「……黒い霧なんて、見えなければ良かったのに」
誰もいない廊下に、弱りきった心から泣き言が漏れる。
「疫病神なんて嫌だよ。みんなと同じ、普通の女の子でいたい。なんで? どうしてわたしには、こんなおかしな能力があるの……?」
悲しい気持ちが涙となって、ぽろぽろとあふれていく。
悲しみに浸っていたからか、目の前に来るまで誰かがやってきたことにも気がつかなかった。
「ガマンしないで。悲しいときは、たくさん泣くべきだと思うから」
「えっ……?」
涙でゆがんだ視界の向こうには、さびしげな表情をしたわたしのよく知る男の子――瀬川くんが立っていた。
驚きすぎて、でも、とっさのことで。
泣きはらした顔を隠すこともできずにポカンとしていたら、彼はわたしにハンカチを差し出した。
「急に、ごめんね。どうしてもきみの様子が気になって、隠れながら後をつけていたんだ。その……、ストーカーみたいなことをして本当にごめん。言い訳はしない」
ええと……えっ? ん? この状況はどういうこと⁉
戸惑いながら、紺色のタオルハンカチを受けとる。
いま、推しである瀬川くんから、後をつけていたと宣言されたよね?
本来は、彼のことを怒るなり、気味悪がるなりすべき場面なんだろうけど……。
「ふふっ」
わたしはなんでだかホッとして、笑ってしまった。
たぶんね、ネガティブになる気持ち以上にうれしかったんだ。
昨日あんな風に別れて気まずかったのに、それでも瀬川くんが、わたしのことを見限らずに話しかけてきてくれたことが。
くすくすと笑いはじめたわたしを見て、彼はきょとんとしたあと、すぐに穏やかな表情をした。
「怒られて当然のことをしたと思ってるけど、黒野さんがやさしいひとで良かった。そういえば、きみの笑顔を初めて見たかも。かわいいんだね」
「か、かわっ⁉」
「後をつけるだなんて、ずいぶん勝手なことをしてごめん。でも……、僕はね、とてもきみのことが気になるんだ。つい、視線で追いかけてしまうんだよ」
「き、気になって……?」
そ、それはどういう意味ですか、瀬川くん!?
さすがに、わたしなんかのことを誰かが好きになるとはカン違いしないけど、その発言は誤解を招くような……!
「さっきのきみの独り言で、僕の勘は正しそうだと確信した」
「ええと……?」
彼は、いつになく真剣な表情で、困惑しまくるわたしのことを見つめた。
突然向けられた熱い視線に、顔がどんどん熱くなっていく。
「きみは、僕がずっと探していた、運命のひとだと思う」
…………ん?
えーっと……、運命のひと⁉
マンガの中でしか聞いたことのないパワーワードが推しから発されたことに、一瞬、わたしの時が止まった。
ん~……?
夢でも見ているんじゃないかと、頬を強くつねった瞬間だった。
「悪魔発生! 悪魔発生!」
瀬川くんのブレザーのポケットから、急に甲高くかわいらしい声が!
ポケットから顔を出した声の主は……、ええと、うさぎ型のぬいぐるみ?
「理人、女子といちゃいちゃしている時間はないぴょん! 早急に福宮駅前のロータリーにムカワレタシ!」
「い、いちゃ⁉ ウサ、誤解だよ! 僕は黒野さんこそが『浄化の姫』だと思ったから、ああ言っただけで……」
「言い訳してる時間もないぴょん!!」
「っっ~~! ああもう、わかったよ! よりにもよってこのタイミングで発生とかほんっと最悪」
瀬川くんと、ウサギぬいぐるみがフツウに喋ってるっ⁉
っていうか、悪魔発生だとかいう物騒な言葉は一体なんのことなの~~~!
たてつづけに起こるファンタジックな出来事に、脳が大パニックになりかけていたら、瀬川くんは颯爽と駆け出しはじめた。
「混乱させてごめんっ、黒野さん。詳しい話は、明日にさせてもらっても良いかな⁉」
こうして推しの男の子と喋る怪しいぬいぐるみは、わたしの返事も待たずに、風のように去ってしまったのだった……。
って、いやいや!
このカオスでしかない状況で明日まで待ってろなんて、どう考えても無理に決まってるでしょ!?
わたしは、福宮中学校から駅前に続く線路沿いの道を、大爆走していた。
「はぁはぁっ。待って~~、瀬川くん!」
「黒野さん⁉ 危険だから、ついてきちゃダメだよ!」
「ご、ごめん。でも、どうしても話の続きが気になって……」
彼を追いかけて全速力で走ってるから、そろそろ限界!
瀬川くん、足が速いよっ。普段のわたしなら『走るフォームまできれいだなんてわたしの推しは最高!!』と思っているところだけど、今ばかりはちょびっとだけ恨めしい。
運命のひと発言から始まって、喋るぬいぐるみに、悪魔化現象!
わたしの脳内をあれだけカオスにしておいて、説明の一つもなく置き去りにしていくだなんてひどすぎるっ。
「そろそろ駅のロータリー、悪魔の発生地についちゃうってば!」
「だからその悪魔ってなんなの⁉」
彼と一緒に目的地へついた瞬間、今までに感じたことのないほどの、まがまがしい気配を感じた。
(ああ、あああ、アああアあア。ダメだダメだダメだ。勉強ができないおれに価値なんてない‼)
な、ななな、なに? この超特大級のおぞましい黒い霧の気配は!
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