作家 秋野原無草の執筆記
堀久男
第一章 若手女性歌手の自伝
第1話 『自伝』の依頼
窓からは薄いカーテンを通して柔らかな光が差し、机全体を包んでいた。その窓の少しだけ開いた所から、カーテンを揺らしながら乾いた風が入ってきて心地良かった。
机の上には、束になった原稿用紙が置いてあった。
その一枚目には、文字や言葉がそこかしこに記されていた。それに、記号や、何なのかはっきりしないけれど絵が書いてあった。しかし、文章と呼べるようなものは見当たらなかった。
無草は、袖を捲ったワイシャツに綿パンといういつもの姿で胡坐を掻き、背中を丸めて座っていた。五十を過ぎて、世話になることが増えてきた老眼鏡を左手に引っ掛け、その左手を頬杖にしながら、右手には万年筆を持って原稿用紙を眺めていた。
無草がそんなふうにぼんやりとしていると、窓の隙間を通して車のエンジン音が聞こえてきた。軽い音だった。タッ、タッ、タッ、タッと小気味良くビートが刻まれる中で、時々音が抜け落ちる。無草にとっては聞き慣れた音だ。
音は近づいて来たと思うと家の前で動きを止め、次第に小さくなった。そして、やがて爆ぜるような音を二発立てると止んだ。
少し間をおいて、ドアを叩きつける薄い鉄板の当たる音がした。
しばらくして、玄関のチャイムが鳴った。
ガラガラと引き戸の開く音が聞こえて来た。妻が応じているのが分かった。何を話しているのかは判然としなかったが、ときおり妻の甲高い声が混じった。
「
すぐに襖が開き、鷹高田が背中を丸めて入って来た。鷹高田は出版社の編集者だった。三十手前の痩せたのっぽで、そのまま入ろうとすれば丸々頭一つを鴨居にぶつけていただろう。
無草は体を半分鷹高田の方へ向け、座布団を指して座るよう促した。鷹高田は小さく頭を下げると、鞄を脇に置いて座った。そして、両手を膝に乗せ、深く頭を下げて言った。
「先生、秋野原先生。本日は、外でもありません、執筆のお願いに上がりました」
久しぶりの執筆依頼だった。無草の心は高ぶった。しかし、表情は変えなかった。期待して待っていたなどと思われるのは癪だ。
鷹高田は続けた。
「今回、先生に、お願いしたいのは、自伝でございます」
無草の目が一瞬輝いた。驚きと喜びがそうさせた。しかし、それ以上の反応は抑え、反対にわざとゆっくり立ち上がった。
「そういうことでしたら、改まって伺わねばならぬでしょう」
そう言いながらズボンの膝の下辺りを払い、座布団を鷹高田の方に向けて端座した。
「自伝ですか。私もいろいろと書いてきたけれど、そろそろ自分のことを書いておいてもいい頃合いかなと、そんなふうに考えていました」
無草がそう話し始めると、「先生」と言いながら鷹高田が片方の膝を前に進めた。そうして、懐から折りたたんだ紙を取り出した。無草は手でそれを制して続けた。
「しかし、私自身のことを書くとなると、オイルショック後の難しい時代に、女手一つで育ててくれた母のことをどうしても語らずにはおけません。ですから、いささか長くなります」
「先生」
鷹高田は声を大きくすると、紙を広げ、それを無草の前に差し出して言った。手をずっと伸ばしたので頭が下がり、手を付いて頼み込んでいるような姿勢になった。
「先生。本日、先生にお願いしたい自伝は、この方のものでございます。」
鷹高田が差し出した紙は、写真だった。
雑誌を切り取ったもののようで、縁にキャプションの一部が残っていた。若い女が髪を振り乱しながら歌っていた。見覚えのある顔だった。
無草は写真を一瞥すると、顔を鷹高田の方に向けて言った。
「鷹高田君、君は言葉の使い方を間違えているようだね。そうであれば、これを『自伝』と呼ぶのは間違っています。君が話しているのは『伝記』と呼ぶべきものですよ。」
「いえ、先生。これはれっきとした自伝なのです。ご本人がそうおっしゃっていますから」
鷹高田は背筋を伸ばし、無草の目をしっかりと見て言った。
「SNSの方にも『今度、自伝を書き始めたよ!』と投稿なさっていて、この方のファンの間では相当な騒ぎになっています」
無草の冷たい視線を受け止めながら、鷹高田は続けた。
「タイトルも、ご本人のお考えで『私の自伝』と決まりまして、目下、装丁について検討がなされているところです」
無草は目を閉じた。そして、しばらく間をおいてから言った。
「君が持ってくる話だから、まあ、大体、そんな辺りだろうとは思っていました」
無草の体から力が抜けた。落胆が肩を二センチばかり押し下げた。
秋野原無草はゴーストライターだった。著作は多いが、著書はない。
無草は、足を崩して座り直すと言った。
「じゃあ、話を聞くだけ聞きましょうか」
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