episode2.2.8 これからの話

 ま、まさか。いやまさか。冷や汗がダラダラ流れる。血の気が引いていく。アカゲの心の中は、どんよりと激しく渦巻いていた。

「つ、ツキ」

 何が何だか分からないフリをして、頭の中に薄らと浮かぶのは、想像したくない光景。サガミの語る地獄というワードが、頭の中から消えてくれなかった。

「中は、どうなってるんだ」

 アカゲの鼻でも感じ取れる生臭い鉄の香りは、万に一つあるかもしれない希望の光を、ベットリと消していく。地獄とは、まだ過去の話ではないのか……?

「どう、なってる……? ツキ。なあ教えてくれ」

 部屋の中からツキが言う。

「───死んでるよ。二人とも」

「……あ。そう、すか───」

 項垂れるでも取り乱すでもなく、ただ頭をそっと下げて、目を閉じた。えっと、ああ……。そうか。オレが、あの2人に……どうしてだ。2人は、オレは……。

 しばらくして、サガミが中から呼びかけた。

「炭化人間の仕業じゃ」

 その声にハッとするアカゲ。まさかそんなハズはない。

「どうして分かるんです」

「……2人とも、鼻を中心に顔が喰い破られておる。炭化人間が脳を啜り出す時の特徴じゃよ」

 サガミは語った。

「……その特徴を誰かが真似することは、ないんですか」

「少なくとも、普通の人間には無理だよ。骨ごと砕ける牙と顎を持ってない限りはな」

 部屋から出てきたツキが答える。

「それじゃあ、流暢に言葉を話せる炭化人間がいたり……」

「流暢に? そもそも炭化人間は喋らない。言葉を理解する知能もない。人としての意識が無いんだから当たり前だ」

 嘘だ。最初に出会った炭化人間は確かに喋っていたじゃないか。しかし誰より炭化人間に詳しい2人が、口を揃えてわざわざ嘘つく訳もない。もしかして自分だけが聞こえた幻聴なのか? いや、そんなハズはない。だって、この扉には強引にこじ開けられた跡が見当たらない。あれだけ忠告した上で、自ら招き入れたということだ。つまり……。

 ヒトのフリをする炭化人間。僅かな可能性に過ぎないが……その存在を否定することもできない。人としての意識を、知能を何らかの方法で取り戻した炭化人間が本当に存在するのかもしれない。というかそれは、もはや人なのでは?

「おい、アカゲ」

 不意にツキが呼んで、目線で遠くを指し示す。

「アレは……」

 くたびれたロングのワンピースを着て、長い髪の女性が向こうに立っている。何かが詰まった金属のバケツを持って、静かに……立っている。ボサついた黒髪で、歳は30代前半。こちらを警戒しているのか、立ったまま遠くからじっと見ていた……。

「お前が母親か?」

 向こうまで届いたツキの問いかけにビックリして、女性は返す。

「誰、あなた達……っ!」

 どうやら母親で間違いないようだ。中から出てきたサガミの姿を見て、彼女は驚いてこちらに駆け寄る。

「───あなた、近付くなって言わなかった!?」

「急用でな、お主の言いつけを律儀に守る暇もなかった。すまんな」

「ふざけないでッ!! 今すぐ離れて!! 離れなさい!!」

 サガミの胸ぐらを掴んで必死に引っ張るが、細い腕ではビクともしない。どうすればいい、こんな時。2人の死を彼女にどう伝えればいい? サガミも、アカゲも、苦しい顔で俯きながら……ただ何も言い出せなかった。

「なあ、まずは話を聞けよ」

「……!」

 ツキの言葉に母親は振り向いた。

「あなた、何よ。何だっていうの」

「薬を渡しに来たんだ。お前の娘に。……けど、一歩遅かった」

「どういう、こと……?」

「───辿り着いた頃には、既に死んでいた」

 一言で、冗談でないと気付いた。目の前の少女の瞳が、血よりも濃かったからだ。身体が小刻みに震え、呼吸が止まる。バケツを落とし、ゆっくり歩き出す。そのうち、部屋を満たす影の中へそっと入っていった。

 アカゲは壁に背をつけ、中から漏れ出る音を、声なのか息なのか分からないそれを、目を瞑って聞いていた。


 やがてサガミとツキは、中でうずくまる母親を部屋の外へ連れ出した。肩を支えられながら呻く彼女は、大きく時間をとって口を開いた。

「いつか……いつかね。こんな日が、来ると、思ってたの……。私が馬鹿で、弱くて、どうしようもない……人間だから」

 アカゲは目を伏せることなく、彼女の黒髪が風で動くのを見つめていた。

「でもねどうしてだろう、ちっとも悲しくない。……嬉しいの。もうあの子達を見なくて済むと思ったら、嬉しいの! 私、おかしくなっちゃったんだ。最低の母親よ。……私を罰して。終わらせて」

 ツキの手を、刃を持った右手を掴み、自分の首にあてがおうとする。151の番号と、簡略化された記号が手首に見えた。

 そんな彼女を見下ろして、ツキは。

「私は、母親を失った。外から来た知らないヤツに首を斬られて殺された。首の付いてない母親を見た。私以外、誰も生き残らなかった。けどな、生きようと思ったんだ。死ななかった自分を呪うために。───死ぬのは、仇を討ってからだ」

 母親は顔を上げて、ツキの眼を見た。真紅に染まる左眼を。

「お前も、死ぬならまずは笑えるようになってからにしとけ。……私はな、お母さんの笑った顔が一番好きだったよ」

「笑った……顔。私……今、笑って、なかった……?」

「───泣いてるよ、さっきからずっと。誰がどう見てもな」

 顔を手で覆うと、ボロボロと涙を溢し、ツキの足に縋りついた。声にならない後悔を、必死に絞り出しながら、うずくまっている。やがて大粒の涙は溢れ出し、彼女はいつの間にか大声で泣いていた。───ミキ、ヒカリ。どうやら娘の名前みたいだ。ごめんなさい、ごめんなさいと繰り返し名前を呼びながら、抱えきれない懺悔を……。ツキは何も言わず……ただ少しだけ、安心したように表情を緩めた。


 一時間後。小さく2つ建ったお墓の前で、4人はゆっくり目を開けた。母親の名はアサノ。下界に落とされ、2人の子を育てた、強い母親だ。

「ワシはこれより帰投する。フデオリについての報告に参らねばいかん」

「───これから……私、は……」

 アサノが戸惑うように言った。

「望むなら、本部まで送り届けよう」

 その言葉に、躊躇いながらもゆっくり頷く。横からアカゲが出てきて、サガミと固い握手を交わす。

「しっかり護ってあげてくださいよ」

「甘く見るでないぞ。先ほどは彼女の影に霞んでしまったがな、ワシそこそこ強いんじゃ」

 ゴン、と金属板の鎧に覆われた胸を叩いて見せるサガミ。そうじゃ、と何かを思い出し、分厚いグローブでポケットをゴソゴソと漁った。出てきたのはノートの切れ端が折り畳まれたもの。

「コレを」

 そう言ってツキに差し出した。受け取ったツキはパタパタと開いていく。

「地図か」

 中に描かれていたのは何かの地図。サガミが描いたものだろう。

「本部へ至る道じゃ。冬崎を連れ、また旅に出るのだろう」

「悪いな、今まで世話になった。私は私の目的を果たす」

「やっと答えが見つかったのじゃな。それなら結構。……まあ、何か用があれば立ち寄りなさい。言うまでもないが、待遇は期待してよい」

 ツキはベルトポーチの蓋をパチっと開いて、そこに再度折り畳んでしまい込んだ。

「───冬崎よ」

 サガミに呼ばれ、なんでしょうと返すアカゲ。

「彼女の、支えになってあげなさい」

「なれますかね」

 サガミは、うむ、と深く頷いた。

「失くした記憶を取り戻すことがお主の目的になるじゃろう。それにはきっと、灰の娘の力が欠かせない。───逆もまた然りじゃ。ワシには分かる」

 遠くに見える空が、オレンジ色を差し始める。日暮れは来ていた。……そろそろ彼らは行くようだ。支度を終え、別れの準備を済ませる。そんな時、アサノがツキに振り向いた。

「……あの」

「?」

「───その。本当に、本当に……ありがとうございました」

 優しい顔で微笑んだアサノ。少し照れるツキ。

「その調子だ。アンタ今、いい顔してる」

 ツキの言葉にアサノは感極まったような眼差しで、ゆっくり頷いた。

「じゃあな、バイバイ」

 左手を振って別れを告げるツキ。アカゲもその横に立ち、胸の前で手を振っていた。少しにこやかに。……サガミとアサノは振り返る。

「死ぬでないぞ、冬崎アカゲ」

「……ツキさん、元気で」

 彼らは歩いて行き、やがて瓦礫の影に隠れて、見えなくなった───。強く西日が差し込む。近く夜の訪れを告げていた。陽は赤く眩しい。さてと、とツキは肩の荷物を背負い直して後ろを向く。アカゲはツキに合わせるように影を向き、あくびをした。オレンジ色の光を背に立つ2人。2本の影はびよんと長く伸びている。

「オレ達は、これからどうします?」

 そうだな、とツキは悩んだ。そのうち顔を上げて言う。

「───とりあえず、帰るか」

「ですよね」

 帰り道。次第に辺りは、夜に染まっていく。

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