第50話 水に流す

 僕と美海の様子を見に、キッチンへひょっこり現れた美空さんに美海が泊まりに来ることについて注意したら、言い返されてしまった。


「もちろん、2人きりなら私は美海ちゃんの保護者として許可しないわ。でも、義妹さんがいるのでしょ? それなら安心だと考えたのだけれど……郡くんは義妹さんがいてもおかまいなしに手を出したりなんて……」


「……どう思いますか?」


「美海ちゃんはどう思う?」


「こう君はそんな人じゃないってこと、お姉ちゃんも知っているでしょ?」


「ふふっ、そうね。私も知っていたわ……ってことで、この話はおしまいにしてお仕事しましょうね」


 美空さんに翻弄され、美海からされる信頼に嬉しくなりと。

 それからは少ない注文を捌きつつ、教わったことを復習しながらもラストオーダーの時間を迎え、注文がないことを確認してから閉店作業に取り掛かり始める。


「今日は転ばないように気を付けるんだよ」


「もうっ、意地悪!! 気を付けるもんっ!! でも、昨日はありがとうっっ」


 このやり取りのおかげか、細心の注意をはらいながら作業したおかげか定かでないが、ケガなく無事にキッチン側の閉店作業を終了する。すると――。


 ――チリン、チリ~ン。


 と、店内から扉が開いた時になる鈴の音が聞こえてきた。

 お客様かな? と疑問が湧いたが、すぐに美空さんがキッチンまでお客様じゃないことを知らせに来た。


「お客様じゃないから、気にしないで作業していてね」


 作業が終了したことを報告する間も無く、美空さんは戻って行ってしまった。

 その様子に僕と美海は互いに顔を見合わせ『何だろう?』と目で会話する。


「どうしよっか、こう君? もう一度、今日のおさらいでもする?」


「それもいいけど、美海がいいなら少し掃除したいところが――」


 ――ふざけないでッッ!!!!


 今まで聞いたことのない、美空さんの叫びがキッチンまで届いてきた。

 ただ事じゃない。そう考えた僕はすぐさま行動に移す。

 美海にはいつでも警察を呼べるように電話を持たせ僕の後ろに隠れてもらう。

 本当は何かあった時に美海を巻き添えにしたくないから、キッチンに居て欲しかったが、姉を心配する美海に押し切られてしまった。

 それからホールへ移動すると、美空さんに『帰って!!』と言われている人物と目が合ってしまった――。


「おおおっ、八千代くん!! 頼むっ、戻ってきてくれ!!!! 多分俺が悪かった。頼むから戻ってきてくれ!!!!」


「いい加減にして!! あの子のこと傷つけておいて、どれだけ勝手な事を言っているか分かっているのッ!?」


「お前には関係ないだろ!!」


「郡くん、いいの。私が対応するから、美海ちゃんと中に戻っていて」


「美空さん、ありがとうございます。でも、そうは行きません。副店長、ここだと迷惑です。あとで話を聞きますので、バイト終わるまで待っていてもらえませんか?」


「ダメよ!! この人と2人きりになんてさせたくない!! 話なんて聞く必要ない!!」


「関係のない店員は黙っていてくれ!! もう……彼が戻ってこないと俺は終わってしまう!! だからせめて、店に迷惑を掛けた分の謝罪をする話をさせてほしいんだ!!!!」


 気持ちが昂ぶり冷静でないからか、副店長も美空さんも譲ってくれない。

 僕を守ろうと庇ってくれる美空さんの気持ちはとても嬉しいけど、美空さんがこの人の相手をする必要はない。僕は美空さんのことが心配なのだ。


 だから美空さんに掴まれている手を持ち上げて、意識をこちらに向けさせる。

 そして、目を合わせてからゆっくりと手を握り返す。

 美空さんはいつもの落ち着きを取り戻したのか、小さくため息を吐いてから妥協案を告げる。


「……5分だけ。すでに閉店時間は過ぎています。鍵を閉め忘れた私にも責任がありますから5分だけ――郡くんに免じて貴方に時間を差し上げます。5分経過したら金輪際、郡くんとお店に近寄らないで下さい」


「くっっッ、それだけじゃ――」


「それすらも了承出来ないのでしたら、僕が副店長と話すことは何もありませんよ?」


 まだ何か言おうとする副店長の言葉を遮り、拒絶を示す。

 僕に生意気言われてむかついたのか、『カァッッ』と顔を赤くするが、渋々近くの席に座ろうとする。


「着座して話すことでもないですし、掃除の邪魔になりますので扉の前でお願いします」


 腰など下したら長くなるだろうし、告げた通り掃除の邪魔だ。

 副店長は何か不満を言ってくるが、『残り4分です』僕がそう言うと、無言でにらめ付けながら、扉の前に移動して行く。

 僕の手を握る美空さんの手を離し、続いて僕が着るコック服を心配そうに掴む美海の手を優しく解いてから移動する。


「次の月曜に姉さんが退院して、水曜には店を再開させるんだ。学校が終わったら出てくれるよね? あと、そのことと一緒に八千代くんが戻ってくることも大槻おおつきに伝えて欲しいんだ。大槻は八千代くんが居ないと辞めるって言っていて困っているんだよ。だからさ、今回の事は八千代くんも悪かったけど俺も謝るからさ、前みたいにうちの店で頑張ってくれよ? こんな店よりうちの店の方がずっといい店だしさ。期待しているから。今回はお互い大人になって水に流そうじゃないか。水で思い出したけど、特別にクリーニング代も返してあげるからさ、いいだろ? 八千代くんが辞めた騒ぎで1週間以上も店を閉めることになって、店にもお客様にも迷惑が掛かっているし、2人でみんなに謝って心機一転水曜から店を再開させようじゃないか」


 駄目だ――この人が言っていることが、何1つと理解出来なくて頭がくらくらしてくる。

 一体、この人は何を言っているのだろうか。

 これは謝罪なのか? そもそも僕は戻るも何も言っていない。

 それにどうして大槻先輩が辞める話にこじれているんだ。


 謝罪に関してもだ。僕はてっきり――美空さんやこの店に迷惑を掛けたことに対して、謝罪がしたいのだと思ったけど、謝りたいのは自分の店の従業員やそのお客様に対してのようだ。

 それに、『こんな店』。この人はそう言った。

 僕の大好きなお店をこんな店呼ばわり……許せるわけがない。

 あまりにも身勝手で好き放題言う副店長に、自分でも驚くほど怒りが湧いてくる。

 頭に血が上ってしまったためか、返事も出来ずにいると不意に左手が掴まれ、無理矢理引っ張られる。


 ――美海?


 そう言った直後、『バシャッ』と副店長の顔が水で濡れ、受け止めきれなかった水が下にこぼれ落ちる。


「そんなに水に流されたいなら、流してあげる」


「……なっ!? 何する――」


「とっくに5分は過ぎていますから、出て行って下さい」


「――つっっッ」


「早く出ていってよっっっっっ!!!!!!!!!!」


 グスッ、グスッ。

 と、鼻をすする音が聞こえてくる。

 水を掛けられた副店長は固まって動くことが出来ないでいる。


「――美海」


 名前を呼ぶと、僕の胸に顔を埋めて嗚咽おえつを漏らし始めた。

 そのまま左手で抱き寄せて、謝罪する。


「美海、僕の代わりに怒ってくれて嬉しかったよ。でも、ごめんね」


 返事はない。代わりに何度か首を横に振ってくる。

 そして僕は……その様子の美海を見て、1つの感情が渦巻いてきたことを自覚した。


「貴方の言っている事は何1つ理解が出来ませんでした。だからこれ以上話しても無駄なので、帰ってください」


「いや、でも――――」


「帰れよ」


 僕の口から驚くほど冷たい声が出た。

 きっとこの怒りは――。

 美海を泣かせた副店長に対してだけじゃない。

 僕自身が招いた結果のせいで、優しい美海を怒らせ、さらには泣かせてしまった不甲斐ない自分に対してだ。

 八つ当たりかもしれない。だが、これまで感じたことないほど憤りを覚えた。

 感情を抑える事が出来なかったのだ。

 それに――。


 これ以上、優しくて笑った顔が似合う素敵な2人に悲しそうな顔はさせたくない。


 すぐ近くまで寄ってきていた美空さんに美海を預けてから、扉を開き、副店長の手を引き無理矢理店から追い出す。


 ――おい!


 と、抵抗されたが、僕の顔を見た後は言葉を詰まらせ大人しく外に押し出されてくれた。

 店の中から建物を背にして歩き出した副店長を確認してから振り返る。


「ご迷惑お掛けして、申し訳ありませんでした」


 美空さんの顔を見ることが出来なくて、美海の顔も見ることも出来ない。

 美海の泣いている顔が目に焼き付いている。

 お世話になっている2人に何か返したいと思っていたのに。

 それどころか、逆に迷惑を掛けてしまった。


 美海が僕の代わりに怒ってくれたことは素直に嬉しかった。

 けれど今は嬉しい気持ちよりも罪悪感の方が強い。

 2人を見る事が出来ずに床に目線を落とし、頭を下げる事しか出来ない。


「迷惑だなんて思っていないし、郡くんは何も悪くないわ。だから頭を上げて?」


「…………」


「ね? 私も美海ちゃんも平気だから。お願い、郡くん。頭を上げて?」


「…………」


 優しい声色で美空さんが諭すように言ってくれるが、返事をすることは出来ない。

 だがこれ以上は余計に迷惑だと考え直し、ゆっくりと頭を上げる。

 美空さんは目が合うと、安堵したような表情を見せてくれる。

 そして、先ほどよりは落ち着いたのか美空さんの胸元から顔を離していて、真っ赤な目をした美海と視線が重なる。

 情けない僕に怒っているのか、不満そうな顔をしている。


「こう君、ちょっとごめんね」


 公園で過去を告白した夜と同じように、僕の胸に耳をあてる。


「……ねぇ、こう君」


 静かな口調で呼びかける美海に『何?』と返事をする。


「ごめんね、私……勝手なことして。迷惑、だったよね? それに私――」


 触れている部分から微かなかすかな振動が伝わって来る。


「こう君の良いところを何も言い返せなかった……」


「迷惑なんて思っていないし、さっきも言ったけど嬉しかったよ。それに僕のいいところをわざわざあの人に言うことでもないし、美海が知っていたら僕は十分だから気にしないで。でも……優しい美海に、する必要のないことをさせちゃって……ごめん」


 美海が謝る必要はこれっぽっちもない。さっきも伝えた通り嬉しかった。


「私が勝手に怒ってやったことだから、謝る必要ないよ」


「でも、美海は僕のために怒ってくれたでしょ? それが嬉しかった。だからやっぱり謝らせてほしい」


「……じゃあ、こう君は? こう君はどうして最後あんなに怒ったの? あの人に腹が立ったから?」


「そうだね……副店長にもだけど、不甲斐ない自分に対してかな。ごめんね、みっともない姿みせて」


「あとは? 私とお姉ちゃんのことも考えていたんじゃない?」


 みっともないと思って、言えなかった最大の理由を言い当てられる。


「……僕が勝手に怒っただけだから」


「じゃあ、私とお姉ちゃんのために怒ってくれてありがとう、こう君」


「……僕が謝る事であって、お礼を言ってもらえることではないよ?」


「どうして? 私は嬉しかったからお礼を言ったんだよ? こう君は?」


 屁理屈のように感じて言葉を発せずにいると、おもむろに胸から顔を離して、さっきも見せていた不満そうな表情を向けて来る。


「それなのに、こう君『ごめん』ってずっと頭下げているから。その後も何回も『ごめん』って。こう君、昨日も今日も私に言ってくれたよね? 『ごめんね』より『ありがとう』って言ってもらった方が嬉しいって。だから私、それについてはこう君にちょっぴり怒っているよ?」


 美海は『ここまで言ったんだから分かるよね?』と、言っているかのような表情をして、期待した目で僕の言葉を待っている。

 美海の目は、泣いた後のせいで赤く染まっている。それでも、澄んだ目をしていてとても綺麗に見える。

 単純かもしれない。たったそれだけで、今の出来事で荒んだ心が、浄化されていくことを実感する――。


「僕の代わりにあいつに水を掛けてくれてありがとう、美海」


「……なんかちょっと違う」


 僕の捻くれたお礼に、『むすっ』とした表情を浮かべる。


「あと、僕のみっともない姿を見てくれてありがとう、美海」


「それは、嬉しいけど……でも、それもなんかちょっと違う。こう君?」


 腕を組み、『分かっていて言っているでしょ?』と言われる。


「美海、ありがとう。怒れない僕のために、代わりに怒ってくれて。凄く嬉しかったよ、ありがとう」


「…………」


「怒らせちゃった?」


「こう君、急に意地が悪くなるんだもんっ」


「どうしたら許してくれる?」


 美海は『もうっ』と軽いため息をついてから。


「こう君は、本当に仕方のない人だなぁ――えいっ! 罰として没収致します。月曜の放課後まで預かるね。いいでしょ?」


「えっと、美海?」


 100パーセント僕が悪いけどそれは少し困る。せめて月曜の朝までにしてほしい。


「じゃあ、仕方ないから月曜の朝に図書室で返してあげる。それで、意地悪したこう君のことは水に流して許してあげるね?」


 そう言って、僕から没収した眼鏡を自分に掛けるが――。

 美海の頭は小さい。そのためサイズが合わずにずれ落ちてしまう。

 アレ? と何度も掛け直す様子は控えめに言って可愛い。一瞬見えた眼鏡姿も似合っていた。


 眼鏡がない生活には不安を覚えるけれど、朝の図書室で返して貰えるならば誰かに見られる心配もないし平気かと考え、ありがたく了承する。


「ふふふっ。こう君?」


 面白そうに笑い、左の首を指さす。

 僕はまた無意識に右手で首を掻いてしまっていたようだ。

 いい加減に直したいな、この癖。


「……譲歩してくれて、ありがとう美海」


「どういたしましてっ!! こう君」


 美海の”破顔一笑”が見れたところで、美空さんが会話に混ざって来る。


「終わり良ければ総て良し! かな? 美海ちゃんが郡くんのことを無事、口説き終わったことでもあるし、時間もないから『サクッ』と掃除しちゃいましょうね」


 優しい笑顔で言った美空さんに、前と同じように美海は『口説いてないっ!!』と言ってから、3人で急いで後片付けを済ませ、15分遅れで閉店作業を終わらせたのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る