試読「私と死んだ心が森の中」
葛野鹿乃子
同居人
学校からの帰り道、私は無心で足を動かしていた。
歩くという行為が作業のように感じる。教科書を満載した重たいスクールバッグも、まだつま先が痛む革靴も、歩くたびに足に負荷がかかるように窮屈だ。
夕闇に沈んだ住宅街をひたすら歩く。無心で歩いていたせいか、いつの間にかいつもの帰り道とは明らかに違う道に入っていた。引き返そうにもどの道を通れば元の道に戻れるのかわからない。まだスマホも持っていなかったから、道を調べることもできなかった。
街灯の下で立ち尽くす。真っ白な光が小さなスポットライトのように落ちていた。光の外は薄暗い夜道が続いている。
適当に歩いて元の道を探すしかない。とぼとぼと歩き始めた私がいくつか角を曲がったとき、向こうから来た人にぶつかった。暗すぎて人が来るのに気づかなかった。
「ご、ごめんなさい」
顔を上げた私は咄嗟に謝る。
大きめのパーカーのポケットに手を突っ込み、フードを被った男の人だった。背が高くて、若草色をした毛量の多い髪が胸元に垂れていた。うねるような長髪が特徴的だ。
「あ、ごめん。大丈夫?」
申し訳なさそうに一歩下がった男の人はすぐ目を逸らした。声が小さめだけれど、いってしまえば威圧感がなく、私にとっては話しかけやすい人のようだった。
「あの、私……」
困った私はこの人に道を教えてもらえないかと口を開くが、どうやって今の状況を説明しようかと思った途端、喉に異物が詰まったように声が出なくなった。思えば家でも学校でも、自分が思っていることを口にしてうまく説明できた試しがない。
固まったまま相手を見上げていると、男の人は何かを心得たように口を開いた。
「……そっか。君、もしかして迷ってるの?」
状況を察してくれた男の人に感謝と安堵をしながら頷きを返した。
「ついてきて」
男の人は来た道を戻るように歩き始めた。
少し背を丸めるようにして歩くその背に私はついていく。男の人は何も話さない。無理に会話して変な受け答えして相手と気まずい雰囲気になるより、沈黙の方がずっと楽だ。
住宅街を抜けた。すっかり日も暮れて周囲は暗がりに沈んでいた。冷たい夜の空気が、いつもの町の空気とは違っている気がする。地面の感触が硬いコンクリートから柔らかい土に変わった。植物独特の若草のような匂いと夜の匂いが混じる。
目を凝らすと、そこは木々に囲われている場所だった。
「え……? ここって……?」
明らかにいつもの帰り道じゃないし、見覚えもない。
私の戸惑った声に振り返った男の人は、不安そうな私に焦った様子を見せた。
「いや、あの、違う。若い女の子を狙った不審者とかじゃなくて。君みたいに道に迷った人は、元の道には戻れないから連れてくるしかなかったっていうか……」
男は自信がなさそうに弁明している。こんな状況なのに抵抗感がない。見知らぬ人に見知らぬ場所に連れて行かれて平然としているなんて、私はこんなに図太かっただろうか。
「あの、ここって、どこですか」
「僕の家。……あの、本当に連れ込みとかじゃないから」
「私、帰れないんですか」
「……そうだよ」
「そうなんだ……」
帰れないと言われて不安は確かにある。けれど、何故か身体の中に心が弛緩するような安堵が広がっていくのも感じていた。私はずっと身体に溜めていた息を大きく吐いた。
背の高い男の人は私と向き合い、屈んだ。
「君、名前は? 僕はシアン、です。この森で採取とかして暮らしているよ」
そう訊かれて、当たり前のように頭に刻み込まれているはずの自分の名前が、記憶からすっぽり抜け落ちていることに気づいた。
「なまえ……。あの、変なんですけど、わからなくなってしまいました」
自分でも変なことを言っていると思うのに、シアンと名乗った男の人はそれを不審にも思わないようだった。むしろ納得したように頷いている。
「そっか。だいぶこの世界の空気が君に合うみたいだね。それならここでの呼び名がいるな」
シアンはしばらく考えてから口を開いた。
「……うん、じゃあ、シースイと呼ぶよ」
「シースイ」
それがここでの私の呼び名。
不思議な響き。私が元いた場所とは、直感的に名前の響きが全然違う気がする。
「あの、他に好きな名前があったらそっちでもいいし」
私をリードするようでいて、すぐに自信なさげに言葉を重ねるシアン。彼が相手だと落ち着いて自分の言葉を口にできる。
「い、いえ、シースイで、いいです」
「そう。じゃあ、よろしく」
シアンはゆっくり立ち上がり、家の扉を開いた。すぐに出口付近の電気を点ける。
ぱっと照らし出された部屋は壁も床もすべて木で、あたたかみがある。ただ、全体的に食器や本や吊るされた植物などがごちゃごちゃしていて、乱雑に散らかっていた。テーブルに広げられた布の上には何かの葉が干されていて、乳鉢や乳棒が置かれていた。
森で採取をしていると言っていたが、彼が仕事に使うものだろうか。
「今、上の部屋を片づけてくるから待ってて。しばらく必要になると思うし」
シアンは脇にある階段を上っていってしまう。やがて上の方から物を動かすような物音が聞こえてきた。
突然見知らぬ場所に迷い込んで、見知らぬ人の元で過ごすことになっている。
不安なはずなのに、元いた場所を恋しく感じない。家や学校での自分という根っこの部分を知られていない場所にいることに、ほっとしている自分がいる。
しばらくしてシアンが二階の部屋に私を案内してくれた。
ベッドとクローゼットの他は、端の方に木の箱や袋が積み上げられている。
「ごめん、物置にしていた部屋だから今晩はこれで我慢して。片づけはまた後日」
そう言いながらシアンは両開きのクローゼットを開いた。古そうだけれど、デザインも造りも滑らかな飴色の表面も、アンティークめいていてちょっと素敵だった。
「今着ているの、学校の制服だよね。その服の方がいい? それとも別のやつ?」
私は自分の小奇麗なブレザーとスカートと革靴を見下ろす。正直あんまりいい思い出はないので着ていたくないが、服まで用意してもらっていいのだろうか。
シアンは特別優しく接してくれるわけではない。けれど素っ気なさそうな声音の中に私への気遣いがあることがわかって、私は既にこの人を信用し始めていた。
「お金の問題は心配しなくていいよ。服数着にそんなにかからない」
シアンはそう言ってくれるけれど、本当にお世話になっていいのだろうか。どう答えていいか口を噤んでいると、シアンは屈んで私と目線を合わせてくれた。
「服は君の自由。君は自分の意思で選んでいい」
私が選ぶ。
選んでいいのか。
服も食事も進学先も、私にその権利はずっとなかったのに。
「……あの、できたら、別の服がいい、です」
「わかった。明日にでも町に行って用意するから」
シアンはすんなりと私の我儘を受け入れてくれた。意思表示をしても怒ったり否定したりしてこない。彼に尊重されていることが、私は普通に嬉しかった。
この人の元でお世話になれるならそれがいいと思った。
こうして、森の奥で静かに暮らしているシアンと、突然見知らぬ場所へ迷い込んだ私の、ちょっとふしぎな生活が幕を開けた。
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