ハルと、フユと。

鴻 黑挐(おおとり くろな)

恋は稲光

 高校の卒業式を終えたその夜に、俺は荷物をリュックにまとめて家を出た。

 俺の実家は奈良県南のさびれた山の中にある真宗しんしゅうの寺。喧嘩別れみたいな感じで無鉄砲にそこを飛び出して、何もかもをやり直したくて誰も知り合いのいない神戸まで来た。

 家無し、学無し、金も無し。そんなガキが当然マトモな仕事に就けるわけもなく。今は夜の店で下働き兼用心棒みたいな仕事をさせてもらいながら、ボロアパートで細々と暮らしている。

 「おい、エンユー!何ぼーっとしてんだ、そろそろ閉めるぞ!」

厳つい顔のオッサン(店長よりも上の人らしい)が、顔とツルツルの頭を真っ赤にして怒鳴る。

「はいはい、わかってますよー!」

オッサンはいつも不機嫌だし、なぜか小指もない。でも、仕事とかアパートとかの面倒を見てくれたのはオッサンだから、頭が上がらない。

「あと、俺はエンユーじゃなくてほむら はるか!三ヶ月も一緒に働いてんだからいい加減覚えてくださいよ」

「知るかボケ!無駄口叩かんとチャチャっと掃除せんかい!」

「うぃーっす」

 店の掃除が終わって、裏口から歓楽街の路地に出る。

「エンユー、これ持ってけ。腐らすよりマシじゃ」

オッサンはいつも余った料理を俺に持たせてくれる。なんだかんだ面倒見がいいんだ。


 外に出ると、東の空がうっすらと明るくなってきていた。

 ベロベロに酔っ払った人、足早に駅へ急ぐ人。すれ違うのはスーツを着たサラリーマンばかり。

「朝早くからご苦労さんだね、全く」

あくびを噛み殺しながら、通勤通学の波に逆らって家路につく。

 その時、視界の端で何かが動いた。ビルの合間の薄暗い路地裏に、何かがうごめいている。

『ヲねぇさァ〜ん、ちョっトアソんでイきませェ〜んカぁ』

若い男の声に似た鳴き声を発しているソレは、色白の手に似た何かだけをこちらに見せて手招いている。

 だが俺は知っている。アレは人間ではない。普通の人間には感知できない階層レイヤーに棲み、人間を啜る怪物――『モノノケ』だと。

「そうかい、そうかい」

両耳のピアスに指で触れると、俺の体に紫の稲光が満ちる。

「お呼びってんなら……」

左足をグッと踏み込み、右手で手刀の形を作る。手刀に纏わせた紫電は『モノノケ』と同じ階層レイヤーのエネルギー、『霊力れいりょく』。奴らを消し飛ばすための力だ。

「……『そっちに行ってやる』よ‼︎」

目的を言葉にして、確実に、はっきりと、『モノノケのコアを貫く事』を意識する。全身に満ちた霊力が俺の体を動かす。

 その瞬間、俺は音速を超えた。

 衝撃波ソニックブームが鳴り止むより前に、俺の手刀が『モノノケ』のコアを消し飛ばす。

『ぎィいイいーッ‼︎』

古びたドアが軋むような悲鳴が上がり、手だけを人間に似せた黒いモヤは霧散した。

 両足でブレーキをかける。すり減ったスニーカーのソールがアスファルトにガリガリ擦れて、数mくらい滑ってようやく止まった。

 ……ああ、また戦っちまった。

「あのぅ……」

赤の他人のために命削って戦うのはもうやめようって、あの夜決めたはずなのに……。

「あの、貴方あなた

「うおっ⁉︎」

ぼんやりしていたところに声をかけられて、俺はハッと顔を上げる。

 女の人が地面に座り込んでいた。

 キレイな人だ、と一目見て思った。白い着物と、それに負けないくらい白い肌。彼女が座っているところだけがぼんやりと光っていた。

「貴方、お怪我は御座ございません事?」

木の葉がそよ風に揺れるような声。彼女が首を傾げるのに合わせて、腰まである黒髪がサラリと音を立てた。

「あ、ああ……」

ぼんやりと返事を返す。すっかり見惚れてしまっていたので、話の内容はまるで頭に入っていないけど。

 そこで、ようやく彼女の違和感に気がついた。

 髪はボサボサのギトギト。足は擦り傷まみれで、履いているサンダルは今にも空中分解しそうになっている。着ている服も、最初は着物だと思ったけどよく見たら浴衣とかじゅばんみたいだ。

 俺の実家はいわゆる『駆け込み寺』みたいな事をやっていたので、こんな感じの人はいっぱい見てきた。この人はきっと、地獄みたいなところから、命からがら逃げ出してきた人だ。

「そういうアンタこそ……」

呼び止めようとした瞬間、彼女は俺の隣をスルリと通り抜けていった。

 俺は思わず彼女の腕を掴んだ。枯れ枝のように細い腕だった。このままここで別れてしまえば、彼女がどこかに消えてしまいそうだと思ったから。

「待てって!」

叫んだ声は思ったよりも路地裏に響いた。

「えっ」

彼女は目を見開いてこちらを振り向く。

 さて。呼び止めてはみたものの、この後の事は全くのノープランだ。どうしようマジで。

「あの、シャワーくらいなら貸せるけど……。どうします?」

マジでビックリするくらいに裏返った声が出た。


 築ン十年のボロアパート。六畳一間でキッチン・ユニットバス付き。狭苦しい我が家ではあるけど、大して私物もないので不便はしていない。

 鍋でおかゆを作りながら卵を溶く。シャワーの水音をかき消そうと、勢いよく箸を動かしてしまう。

 結局、成り行きであの女の人を家に連れてきてしまった。職場の人たちに見られていない事を祈るしかない。

「なーにやってんだ、俺は……」

明らかに訳アリの女を助けて、家に連れ込み、挙げ句の果てには彼女のためにメシまで作っている。

「いや、でもなぁ……。あそこで見捨てたら夕方にはその辺でのたれ死んでそうだったし……。あそこ通勤路だから、死んでるのとか見つけちゃったらメチャクチャ後味悪いし……」

自分で自分に言い訳しながら、鍋のおかゆをかき玉中華粥に仕立てていく。

 仕上げにネギを散らして、火を止める。その時、試練が俺を襲った。

「ションベンしてぇ……っ!」

風呂場に先客がいる状態で用を足すのはリスクが高すぎる。彼女が出てくるまで待つか?いや無理だ、確実に漏らす。

「……ま、パッと済ませれば大丈夫だろ!」

勢いよく風呂場のドアを開ける。

 ドアの向こうに全裸の彼女が立っていた。

「あっ」

胸から滴り落ちるお乳が白い線を引いている。ガリガリに痩せた体を見て、なぜか昔見たお釈迦しゃかさまの苦行像を思い出した。女の裸というより、神様か仏様のようだった。

 俺はしばらく彼女に見惚れていた。……が、尿意には勝てない。

「かっ、体拭きなって、ホラ!」

俺は彼女にバスタオルを差し出し、リビングに通す。

「鍋におかゆあるし、そこの引き出しに入ってるTシャツ引っ張り出して着ていいし、布団はそこに畳んであるの使っていいから!」

「貴方は何処どこで眠るのですか?」

彼女が不安そうに眉間にシワを寄せる。

「あー、俺?大丈夫大丈夫、風呂場で寝るんで!」

ユニットバスに俺が足を伸ばせるスペースは無いけど、まあしょうがない。

「じゃ、おやすみ!」

バスタオルを羽織った彼女に小さく手を振って、俺は風呂場のドアを勢いよく閉めた。


 バスタブの中で丸まって眠ったけど、体の節々が痛くなって目が覚めた。トイレタンクの上に置いている時計を見ると、午前十時すぎを指している。

 恐る恐る風呂場のドアを開けると、彼女はせんべい布団ですやすやと寝息を立てていた。

「よかった……」

とりあえずコインランドリーで洗濯をしてこようと、昨日彼女が着ていた服を手に取る。

「あれ?」

ところが、風呂場にあるのは白い着物一枚っきり。下着も何も見当たらない。……と、いうことは。

「ノーパンノーブラかよーっ⁉︎」

洗濯どころではない。まずは彼女の服をなんとかしなきゃ。

「まず下着!それから服!さすがにもう店は開いてるだろ!」


 下着を買って古着のワンピースを見繕う。しめて三千円ちょっと。一週間分の食費が二十分で吹き飛んだ。

「あーあ。バカだなー、俺」

彼女と出会ってから、どうも調子を狂わされっぱなしだ。一人でいればそれでよかったのに、彼女のことが気になってしょうがない。

「メシ、ちゃんと食ってくれたかな……」

そんなふうに思いつつ、俺はドアノブにカギを差し込んだ。

「う、う……」

ドアの向こうから呻き声が聞こえる。

「っ、大丈夫か⁉︎」

玄関のドアを勢いよく開ける。レジ袋をその辺に放り投げて、布団の中に潜り込んでいる彼女に駆け寄った。

「いや……やだ……たすけて……だれかぁ……」

何かにうなされながら、彼女は布団の中で震えている。布団に小さく涙のシミができていた。

「大丈夫、大丈夫。怖い人はここまでこないから。なっ」

俺は彼女の背中を布団の上からさする。

 震えが止まると、彼女は布団からガバッと飛び出して几帳面に片付けようとし始めた。

「も、申し訳御座いません」

「いいよ、まだ寝て……」

 陽の光の下で彼女の全身を見て、俺は危うく心臓が止まりかけた。

オーバーサイズすぎてもはやワンピースになっている俺のTシャツ以外、彼女は何も身につけていなかった。にじみ出るお乳がTシャツにシミを作っている。頭で理解はしているつもりだったが、実際見るととんでもねぇ格好だ。

ほむら様」

名乗ってもいないのに名前を呼ばれて心臓が喉から飛び出しそうになったけど、そういえば彼女が着てるのは高校の運動着だからガッツリ俺の名前の刺繍が入ってたんだった。

「大変御迷惑をお掛け致しました」

そう言って彼女は深々と三つ指をつく。

「片付けが終わりましたら、わたくしは、お、お暇、させて頂きますので……」

額を床につけたまま、彼女は震える声でそう言った。

 俺は彼女を両手でギュッと抱きしめた。赤ちゃんの匂いがした。

「いいよ。ずっとここにいても」

「え……?」

「いくアテも、帰る家もないんでしょう。……同じだ、俺と」

この人を離したくない。こんなに強烈な思いで胸がいっぱいになったこと、今まで一度もない。

「二人でメシ食って、二人で風呂入って、二人で寝よう。一緒に暮らそうよ」

運命だと思った。彼女も同じ思いだったらしく、俺の言葉に何度もうなずいてくれた。

「俺、はるか。焔 悠って言います」

「私は冬雪ふゆ。『冬の雪』と書いて、冬雪と申します」

「よろしく、フユさん」

俺はニッコリと笑った。フユさんも微笑んでいた。

「……とりあえず、着替えない?」

彼女は少し赤面した。

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