七. 妖鏡の珠環

 よく見ると男は頬も痩けて、裾から見える腕はこの男の年齢からしたらかなり細いようだ。しかし随分窶れているものの、着ている物は汚れが無く古くも無い事から物乞いの類でも無さそうだ。

 だとしたら何故ここまで痩せ細っているのか。先程からの男の異様な態度からして静蘭ジンランは嫌な予感がしていた。


「ねぇ、さっきから何目を泳がせているの?何か探し物?」


 黎月リーユエが警戒するかのように男にそう言う。


「は、はは……いえ、何でも無いんですよ」


 明らかに何でも無くないのだが。警戒されているのを感じ取ってか、男には若干の焦りが見られた。何でも無く無いでしょ、と更に黎月が詰めると、男は袖からとある包みを出した。

 掌に収まるか収まらないか程の大きさで、薄い。しかし異様なのはその包みには御札が貼られていた事だった。


「これは?」


「手鏡です。三月程前に妻が商人から素敵な手鏡を買い取ったと私に自慢してきたのですが、それから何だか様子がおかしくて……」


 黎月ははぁ、と溜息をついていた。何か気が付いたのだろうか。しかし静蘭は男の話の続きが気になり、男の話に耳を傾ける。


「普段なら鏡に映る自分の姿なんてあまり気にもしないような妻だったのですが、この手鏡を買い取ってから頻繁に手鏡を見るようになって。それだけなら女だし自分の容姿を気にするようになったのだろうと気にも止めませんでしたよ。でも段々と手鏡に向かって話しかけるようになったんです。不思議な事に妻は三月前の面影を感じられぬ程に窶れてしまいました。私もこの有様です」


 遂には手鏡を手放さなくなってしまい、一日中話し掛けては手鏡を見てうっとりとした表情を浮かべているという。それがまた奇妙で奇妙で妖魔奇怪の類いかと思ったこの男は、暴れ発狂する妻を抑えて鏡を取り上げたのだという。


「それでここへ?どこかへ棄てるにしても廟はやめておいたほうがいいのでは?」


「違うんです、これで棄てるのは5回目なのです。妻から取り上げて最初は質屋に出しました。確かに模様や色が鮮やかで綺麗だったので、高く売れたのですが、売った次の日に家の扉を開けてすぐの所に手鏡が置かれていたんです。質屋は自分は何もしていないし、そもそもまだ売れていないと言いました」


 売れていないのであれば、妻が買い戻した、或いは使用人や知人の誰かが嫌がらせのつもりで置いたと言う事も無さそうだ。唯一手鏡を家に戻す事が出来るであろう質屋も、そんな事をしたって良点は一つも無い。


「奇妙に思って二度目は他人へ渡しましたが翌日にはまた戻ってきていたのです。三度目は山に、四度目は海に棄てたのですが結果は同じく」


 するとその話を聞いていた黎月はまた呆れたような少し面倒臭く思っているかのような溜息をついた。


「それは妖鏡ようきょう。鏡の持ち主の在りたい姿をそのまま映し、夢中にさせて生気を吸い取っているの」


「よ、妖鏡……?!」


 男は狼狽えた。普通の鏡では無いと思ってはいたものの、はっきりと妖と言われれば誰でもたじろくであろう。

 しかし黎月はそんな事を気にせずに更に続ける。


「それ、病気で外見が醜くなってしまった幼い女児が両親に貰った鏡のようだよ。両親は病気を治したらこの鏡で思う存分おめかしをして外に遊びに行こうと女児を励ましていた。でも女児は治る事無く死んでしまい、鬼火となったものの思い入れのあるこの鏡に取り憑いた……ってとこかな」


 なるほど、それは確かに不憫だ。幼い子供であったのならば尚更この世に未練を残してしまうだろう。

「もしかして娘さんはかんなぎ(神意を伝える巫女のような役割)なのですか?!それならちょうどいい、こいつをどうにかしてください!」


 男は妖鏡の詳細を知っていた黎月を巫だと思い込んだらしく、妖鏡を黎月に押し付けた。


「は?いや私は巫でも何でも無いし!」


「でもそんなに詳しいって事は何か対象を知っているのでは?お願いします、もう我が家はそいつのせいで崩壊しかけているんです」


 男はそれだけ言うと逃げるように立ち去ってしまった。まさかこんな自体になるとは誰が予想しただろうか。

 男も焦りがあるのは目に見えて分かるのだが、何も見ず知らずの若者に妖鏡を無理矢理押し付けて逃げ去るとは。


「……今からでも追いかけてさっきの男、とっ捕まえて来ますよ。ちょっとここで待っててください」


「ちょ、ちょっと待って!妖鏡って事はどうせ人間にはどうしようも出来ない代物なんだろう?」


「そりゃそうですけど……かと言ってどうするんですよ、これ」


 実は静蘭は妖鏡の成り立ちを聞いてから、少し同情していた。病気という事は父や母以外に相手をするような人、ましてや同年代の友達なんていなかっただろう。病気を治しておめかしして外に出るという夢も叶う事無く力尽きてしまうなんて、可哀想だしこれが同情出来ずに居られるだろうか。

 否、目の前の黎月は面倒臭そうにしているだけで、ちっとも何も思っていなさそうだが。


「……この鏡、やはり一旦預かれないだろうか?」


「鬼王妃様、それは何故です?どうせまたここに鏡を置いていたって、先程の話の通りなのであれば明日にはあの男の元に戻っていますよ」


「それ、新しい持ち主が現れたらもう勝手にあの人の所には戻らないんじゃない?」


 黎月は嫌な予感がした。その言い草はまるで……。


「確かにそうかもしれないですけど、誰が新しい持ち主になるんですか?」


「私がなろう」


 静蘭があまりにもはっきり言うものだから、黎月は驚愕したと同時に溜息をついた。いつもは静蘭が黎月に呆れ溜息をつくのだが、今回ばかりは逆だ。


「鬼王妃様がわざわざそんな事する必要無いんですよ?あなたは鬼王・黒花状元こっかじょうげんの妻であり黒花領域こっかりょういきの妃という立場にある御方です。自ら危険に飛び込まないでください」


「だからと言って、このまま放置していたらあの男の妻は生気を吸い取られ続けるんだろう?そんなの見過ごせない。それに、この妖鏡は可哀想だ。何とかしてこの妖鏡の女児の無念を晴らせないだろうか」


 静蘭は自分でも素っ頓狂な事を言っているのはわかっている。だがどうにかしてやりたいのだ。

 静蘭の真っ直ぐな目を見て、黎月は小さく首を縦に振った。


「わかりましたよ、鬼王妃様がそう言うなら……。そもそもその妖鏡、神通力じんつうりきが弱すぎて私が近付くまで存在すら気が付かない程でしたし……鬼王様の加護が張り巡らされ、その中心になっている天趣城てんしゅじょうであれば好き勝手は出来ないでしょうから」


 そんな神通力が弱い妖鏡……基鬼でも人間の生気を吸い取るという恐ろしい事が出来るのか。鬼というのはいくら弱いと言われても人間からしたら絶大な力を持つ者であるという事を再確認した。

 札を貼られ、厳重に巻かれている包から手鏡を取り出す。確かに装飾からは異国の雰囲気を漂わせていて、物珍しく美しい。これも妖鏡の仕業なのか、どこか惹かれるものがある。

 しかし話と聞いていたのとは違って、鏡に映された静蘭の姿は実際の静蘭の姿と何も変わらない。


「これ、本当に妖鏡?何故私の姿が変わらないんだ?」


 黎月に聞いてみても黎月も首を傾げていた。


「おっかしいなぁ。鬼の気配はするし、妖鏡なのは間違いないんですけど」


 もしや黎月がいるから怖くて出て来れないのでは?と思ったが、黎月曰くそういう訳じゃらないらしい。


「ちょっと貸してください」


 言われるがまま黎月に手鏡を手渡すと、黎月はその手鏡に向かって鬼のような形相をして問いかけた。まあ、鬼なのだが。


「お前、私が誰だかわかるか?黒花状元の配下だ。今すぐ私の言葉に反応を見せないのであればこの鏡、叩き割ってやる」


 中身は幼い女児だというのに何と恐ろしい事を言うのだろうか。大人の静蘭でさえ異様な空気を纏う今の黎月に背中がゾクッとしたのだが。

 次の瞬間、鏡が光りだした。


「黎月!妖鏡とはいえ中身は幼い女子だ、あまり怖がらせるような事を言ってはいけない」


 静蘭が妖鏡に向かってあまりにも敵意むき出しなので注意するも、言う事を聞く気は無いようだ。妖鏡は黎月を怖いと思ったのか、黎月の手から飛び出して静蘭の方へ飛び込んで来た。


「うわっ……あまり危険な事をしないで……地面に落ちて割れたらどうするつもりだ?」


 鏡は静蘭の胸に擦り寄っている。傍から見たら小動物のように静蘭に懐いているようだ。

 静蘭は昔から動物や子供には好かれる方だったが、まさか子供の鬼にまで好かれるとは。まあ元々人間であったのだからそうなるのだろうが。


「こいつ……明らかに私と鬼王妃様とで態度が違います!鬼王妃様から離れろ!」


「まあまあ、黎月。落ち着きない。君の名前は?」


 僅かな怒りと警戒心を露わにする黎月を落ち着かせ、妖鏡と向き合い、そう聞いた。

 すると妖鏡はそよ風のような小さな声でぽつりと呟いた。


「…… 珠環ジューホアン


「珠環……可愛らしい名前だ。小環シャオホアンはどうして人間の生気を吸うの?」


 言い方は優しかったものの、聞かれた内容からして怒られると思ったのか珠環は震えた。


「違う違う、怒るつもりは無いんだ。ただ訳を聞かせて欲しい。小環がそんな事をしなくてもいいようにお兄さん達が協力してあげるから」


「……本当?」


「もちろん、本当だよ」


 暫く間が空いたものの、珠環はまだ拙い言葉で話し始めた。

 どうやら自分が死んだ事も、この世に留まっている事も理解しているらしい。しかし、鬼火おにびとなって父と母に会いに行っても怖がられてしまい自分だと気が付いて貰えなかった。それがあまりにも寂しくて、両親から貰った手鏡に憑依したそう。

 しかし、その僅か1年後に不運にも両親が事故死してしまった。二人は鬼火となる事無く成仏し、一人取り残された珠環は鏡から自力で出られずに、そのまま遺品整理で親族に売られてからその都度買われ売られを繰り返していたそうだ。

 しかし女達は珠環を覗き込むのに、珠環には一切話しかけたり遊んだりしてくれない。その事にまた寂しさを覚えた珠環は、今度は鏡に持ち主の望む姿を映し出した。するとどうだろうか、凄い勢いで食い付き始めたのだ。その事に味をしめた珠環はそれを繰り返し、生気は知らず知らずのうちに吸い取ってしまっていて制御の仕方が分からないらしい。そして、捨てられたり売られたりしたら寂しいからまた戻ってきたと。

 故意では無い事が判明してからは黎月も敵対心を少し解いたらしく、腕を組みそっぽを向きつつも会話に参加していた。


「……それで、あんたは制御の仕方も分からなければその手鏡からの出方も分からないと。よく入ったよね、何で入れたわけ?」


「何か……ぐぅぅーってやったら入れた」


 幼子特有の擬音語の説明からは何も分からなかったが、とりあえずたまたま入れたらしい。


「黎月、これって出してあげた方がいいのかな?」


「出した所で鬼火に戻るだけですよ。鬼火に戻ったところで、実体の無いこんな弱くて幼い鬼なんてすぐに他の鬼に食われるだけです」


 食われる、という言葉に反応し、また珠環が震え上がった。


「私、食べられちゃうの……?」


「大丈夫、大丈夫だよ。黎月、もう少し言葉を選んでやって」


「これだから幼子は面倒臭いんですよ。まっ、出るか出ないかどっちが良いかなんてこの子が出たいのか出たくないのかによるんじゃないですか?」


 確かにそうだ、本人の意思も聞かなければ。出たいなら引き受けた静蘭が責任を持って出られる方法を模索してあげる必要があるし、そうじゃなくて両親から貰ったこの大切な手鏡から出たくないかもしれない。その時は制御の方法と新たな居場所を探してやる必要がある。


「私ね、ここから出たい!」


 先程とは違い大きな声ではっきりとそう伝えると、静蘭と黎月は大きく頷いた。

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