六花

鴟鴞実治

六花

私の通う学校には、校舎を取り囲む様に藤棚が並んでいる。五月の終わり頃には、3階のここ、音楽室の窓から覗くと、まるでカーペットの様に見える。今はまだ一月で、葉の枯れてしまった木が藤棚の柱に絡まって、まるで冬に人々がくっ付いて互いに暖を取り合う様に、怠そうにもたれかかっているだけだ。



「何故藤棚が植えてあるのだろうか。」以前、私が係の仕事で植物の世話をしている時に、隣に居たご年配の用務員さんに問うたことがあった。用務員さんはいつも幸せそうに細めている目を少し見開き、またいつもの細い目に戻した。


「そうだなぁ、それは五年前だったかな。この学校で自ら命を絶ってしまった子がいたんだ。」


今から一年前の夏の事である。用務員さんは私の質問にそれはとても丁寧に答えてくれた。曲がった腰を伸ばし、額にポツポツと滲み出た汗を作業服の袖で拭いながらそう答えた。そして、その亡くなった人を憐れむ様に藤棚を眺めた。私は頷く事も出来ず、その代わりに用務員さんと同じ様に藤棚に目を向けた。優しく爽やかな風が、人が死んでしまったなんて思わせない様な、可憐に垂れ下がった薄い紫の花を揺らした。私の様子を見て、用務員さんはまた話し始めた。


「その子は毎朝ピアノを弾いていたんだ。この私でも知っているクラシックでね、とても綺麗な音色だったよ。ある時暫く聴くことは無かったけどね、またその音色が聞こえた時はとても嬉しかったよ。

でも、その時が最期だった。最期に弾いていたのは、知らない曲だった。ピアノを弾いていたあの子は、その楽譜と手紙を残して、」


用務員さんの顔が、少し悲しげに見えた。


「自殺してしまったんだよ。」


その言葉に少し息が止まる。知ってる結末だったはずなのに、やはり言葉として聞くと身構えてしまう。


「それで、何故この藤棚が植えられたんですか?」


私は答えを急かす様にもう一度聞いた。心拍数が無意識に上がる。


「もう自殺をする人が出ないように、そう願いを込めての事らしい。」


用務員さんはそう言った後、「もう時間だから行って良いよ」と私に優しく微笑んだ。時計を見ると始業の5分前で、私は礼を言ってその場を足早に去った。遠くで「あの子は幸せじゃったかのう」とか細く、且つなんかこう心に響く様に用務員さんが呟いていた。


実は私はこの話を知っている。ここで人が死んだ事も、何故『藤棚』が植えられたかも。その亡くなってしまった人は、私の姉だった。五年前、姉は高校三年生の頃に自殺した。



姉は音楽大学を目指していた。その中でもピアノを専攻し、将来も「ピアニストになるのだ」と意気込んでいた。だが、家には電子ピアノしかないので、毎日早朝に家を出ては学校にあるグランドピアノで色々な曲を弾いていたらしい。私はその頃中学生だったので、本当かどうかは知らない。ただ、毎朝私がまだ布団に包まっている時間帯には、姉の「行ってきます!」という明るい声が聞こえた。


そんな姉に変化が現れたのは、まだ二年生だった秋、姉の体調に異変が起きた。共働きの両親の代理で、私と祖母が姉を病院に連れていった。


「貴女のお姉さんは、残念ですが、」


姉が診察を終え、私と祖母だけが何故か診察室に呼ばれた。医師が私の目を真顔で見て淡々と話し始める。聞こえて来たのは「末期癌」「即入院」の言葉のみ。他にも何か話していたが、全く頭に入って来なかった。だが、その言葉だけでも、結論は『死』でしかない事は嫌な程分かった。



姉が入院して一週間程が経った。病室に向かうと、姉の泣き叫ぶ声が聞こえた。両親の声も聞こえて来る。これはやばい。慌ててドアを開けると、姉が私に気づくや否や抱きついて来た。普段から明るかった姉だったが、それでも抱きついて来る様な事はなかった。そして、まるで転んでしまった幼児の如く、わんわんと声を上げて泣き始めた。母も「ごめん、ごめん」と何度も繰り返しながら泣いていた。父に目を向けると、眉を八の字に曲げて私達を眺めていた。

そのまま30分近くが経った。私は泣き疲れた姉をベッドに寝かせ、その日は両親と共に家へ帰った。まだ姉が亡くなった訳じゃないのに、まるでお葬式の様な無言が気まずかった。


私は何故あんな状況になってしまったかが分からなかったが、後日母が無理に笑いながら教えてくれた。


「お姉ちゃんはね、自分が大人になるまで生きれないのが悔しかったの。だから、ちょっとヒステリックになってしまってね、ビックリしちゃったね。」


垂れ眉の母は更に眉を下げて言った。少し目に涙を浮かべながら。

ずっと私は夢も才能も無かったから、その気持ちはよく分からなかった。


あれから半年と一ヶ月が経った。私達は一つ学年を跨いだ。姉は余命以上に生きて、今日、姉の誕生日の前日に退院した。今まで姉は機械の様に治療を受けていたが、もう治療法がないらしく、あとは死を待つだけになった。そんな姉は今、病人とは思えない程爽やかな笑顔をしている。死ぬことの怖さよりも、苦しい治療からの解放感が大きいのだろう。これから姉は高校を退学し、家で過ごすつもりらしい。



「行ってきます!」


翌日、まだ私が布団にくるまっている時、いつもの様に姉の明るい声が聞こえた。

『いつもの様』?私は何かおかしいと思い、急いで起きて玄関に向かった。


「お姉ちゃん!」


そう呼ぶと、お姉ちゃんは笑顔で「どうしたの?」と振り向いた。今までのあの暗い生活が、ただの悪夢だった様に思えた。以前の様に『元気』な姉がいた。


「どこ行くの?」

「学校だよ。皆んなにお別れしないとね」


姉は眉を下げた。そうか、矢張りあれは夢ではなかったのか。

私は「行ってらっしゃい」と言うと、「うん、じゃあね」と返してくれた。私はまた寝床へ戻った。



___プルルルプルルル


次に起きたのは電話の音。今日は中学は創立記念日だとかで休みだったので、9時頃に目が覚めた。私が電話を取ろうと思ったが、母が取ってくれた。


「お宅の藤花さんが自殺しました。」


受話器から籠って聞こえるはずの音が、何故か今だけは通って聞こえた。母が膝から崩れ落ちた。



藤花とは姉の名前だ。5月31日、姉の誕生日の誕生花は藤である。そしてその日は姉の命日ともなった。藤棚が植えられた理由は、姉の誕生花がその藤だからだそう。



私はピアノを弾き終わり、音楽室に掛けてある時計を見た。まだ時刻は7時半。始業までまだ1時間もある。姉が最期に引いた曲は「レクイエム」。モーツァルト作曲で、オーケストラ編成だったのをわざわざ編曲したらしい。音楽大学を目指していただけ、凄く良く仕上がっている。そして今、私が引き継いで、弾いた。手をため息混じりに暖めて、擦り合わせる。


窓の方に寄って見ると藤棚がよく見える。私は窓を開けた。ツンと冷たい空気が私を包み込む。あの藤棚は自殺防止の為である。そんなことは知っているさ。せめて、お姉ちゃんのように才能があれば良かったのに。

窓を全開にし、足を掛けた。息を肺いっぱいに吸い込み、飛び込んだ。



いや、飛び込めなかった。寸前で止まってしまった。何故だろう、冬のはずなのに、藤の花が満開に咲いていた。幻覚だろうか、夢だろうか、頬をつねるが痛みはある。暫くそれに見惚れた。涙が流れていることにも気づかず、ただ、それを見つめた。

私は目を閉じ、窓から離れた。もしかしたら姉が見せてくれたのかもしれない。

自殺防止とはそのことだろうか、いや、そんなことあり得ないと思いながら、ピアノに立て掛けてあった楽譜を手に取った。何を意味のない馬鹿なことしようと思っていたのだろう。



そういえば今日、私の誕生日だな。

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