化物学園ナンバー1
庭渡栖鈴
Ⅰ.春
1.新学期
第1話 僕の心
●
「弱肉強食」は在る。僕にはそれが生まれた時から解っていた。生まれ落ちてから、それが僕を支配する始まりの常識だった。お願い母さん、僕を見捨てないで。僕を置いて行かないで。どんなに心から、涙をとめどなく溢れさせても、僕の母は振り返らず遠のいていくだけだった。
強い人間は弱い人間を支配する。それが善意ならば僕はこんなにも捻くれなかった。
僕が6歳の時に両親は離婚した。母は僕を置いて小さな荷物を抱えて家から出て行ってしまった。いたって普通の家族だったはずなのに、気が付いたら僕たちの家族の絆には亀裂が生じて二度と戻らなくなっていた。夫婦喧嘩があったわけじゃないのに、母は僕に何も言わずにいなくなってしまった。当時の僕には到底理解ができなかった。自分が大切だと思っていた存在が、いともたやすく手から離れていったのだ。
「
父さんに何度も泣いて謝られたけど、何も思えなかった。僕は心に傷を負った。この離婚が、どっちかの悪い行いで起きた結果だったら良かったのに。違った。父さんは母さんを愛していた。逆も然りだ。でも、そんな円満な仲でも、終わる日が来ることに幼い僕には耐えられなかった。僕が先回りしていれば、母の気持ちを解ってあげられていたら、全部変わっていたのかもしれない。
僕はいつの間にか心を閉ざしていた。自分の役に立たないあの眼を、怒りで縫い付けた。
「僕、ここに受験する」
「…出席日数足りてるか?」
僕はこの日、父さんに初めて進路を伝えた。あの泣きわめていた6歳から既に9年の月日が流れ中学三年生になっていた。父さんはずっと僕を気にかけていた。心身の健康にずっと気を遣っていた。あんなに健康的だった父の姿は仕事と家族のせいで痩せこけていた。
「それは大丈夫。それに僕はこの受験者の対象だもん」
「…」
この時僕は泣いていたのかもしれない。口も手も震えて、父親に心配をかけていたのかもしれない。僕が進路に選んだのは
「だって、僕は化け物だから」
あの学園は”化物学園”と呼ばれている。受験者は全員化け物、地下室に化け物が閉じ込められている諸々の噂が形を成してそう名付けられたのだ。父さんは僕の言葉に反対しなかった。だって事実だから。僕は自分が化け物だって痛い程解っているから。
●
冬の景色は寂しい。今年は久しぶりの雪が日本海から山脈を超えてやって来た。乾いた風が寒さに拍車をかけている。僕は母さんがくれた大事なマフラーを直す。首周りの違和感をなくすために。
「もうすぐ中学校が終わる…。やっと抜け出せるんだ」
「あ、化け物じゃんおはー!」
「…おはよう。となっち」
「あはは、まだ俺の事その名前でよんでんの?」
僕が通学路を歩いている最中に後ろから声をかけられた。小学校からの幼馴染の
僕が彼を時折となっちと呼ぶのはただ呼び方に悩んでいるときに、彼が自ら提案したものだ。15までずっとこう呼んでいるのはもう僕だけだ。
「お前ってさやっぱあの学校受けるの?」
「…うん」
「やっぱりw?化け物の君にはお似合いだよw」
「そういう君はどうするの」
「僕?」
いつもそうやって彼は僕をいじってくる。嬉しくないけど、唯一の関りは彼しかいないことを考えたら、立場が弱い僕が突き放すのはリスクが高すぎる。渋々僕はこの爛ただれた関係を引きずっていたのだ。気が付いたら僕らは学校の教室についていて、彼は一番後ろの席に、僕は真ん中の席にいた。この周囲の視線を浴びる鳥かごのような席に僕は着席したのだ。
弱肉強食だ。学校は小さなヒエラルキーが支配する檻なんだ。ずっとずっと逃れられない世界だった。
「さて、受験まであと一ヵ月きったけど皆は進路大丈夫かーい?」
「…」
「高校は義務教育じゃないけど、行ったら楽しい生活を送れるかもなので、行くと決めてる奴はしっかり準備して~行かない奴は高校生活以上に楽しさを見つけるんだぞ~」
ここまでは大丈夫。僕だってしっかり進路は決めてるし、その先にはクラスの皆はいかないはずだから。あとはこの一ヵ月を乗り越えて卒業するだけ。それだけ。なと君は僕を必要以上にいじったりはしない。いつも意地悪しているのは、そのとなっちこと、なと君を取り囲んでいる人達だ。
「ねー心君はあの学園に行くんですかあ?」
「そ、そうだけど」
「あっはは!そうだよねー。何だっけ心君って人の思考読めるとかだっけw?」
「え~プライバシー侵害!読まないでよね!」
「てかこの学校に1人しかいないって逆に可哀想だよねーw」
クラスの女子はとてもキラキラな人だ。休み時間に僕にわざわざ声をかける程暇な人でもある。僕は少し俯いて机の木目を見るばかりだった。嫌いなら関わらない方がずっと良いのに。僕のクラスにはいないが、別クラスに不登校の子がいる。その子は、あの人たちにいじめられて来なくなってしまった。遊ぶ相手がいなくなって暇なところに、化け物の僕ほど恰好の的なのだ。いじりがなと君なら、いじめはあいつ等だ。
「(無視無視。クラスの人に呑まれるはダメだ…。1年2年で出席日数はちょっとギリギリなんだ。これ以上嫌な思いをしたからって逃げたらダメなんだ)」
心を落ち着かせて僕は机の中から教科書を取り出す。目を疑う光景が入ってきた。僕のノートに落書きがされていた。表紙に幼稚なイラストが描かれていて、ページを捲って見れば僕が書いた文章に逐一赤色のペンで修正と言う名の汚い言葉の羅列がされていた。教科書も見れば全部に黒いペンで落書きがされていた。中身もくしゃくしゃにされていてた。困惑と焦りで何度も机の中の教科書たちをいじる。その僕の様子から、隣の席からクスクス笑い声が聞こえてくる。そんなことを気にしている場合じゃない!
でも一番無理だったものがあった。僕が昨日忘れてたプリントのファイル。そこには大事にしていた物が、なと君がくれた初めて話しかけてくれた時に貰った小学校の時の似顔絵と、提出用の進路のプリントが、ねばねばとした白色の液体で張り付いていた。こんなもの、ボンドか接着剤だって分かっているのに、この時は焦りが渦巻いていて、僕は”最悪”の想像をしてしまったのだ。
「な、なんで、これ」
「あーそれw?ウチのクラスの男子がやったんだよねー」『ざまあないね』
「ウチ止めたのにさ。面白がっちゃってwごめんねー進路台無しにして」
「いやーわりいなw」
僕の周りで嘲笑の声が響いている。確かに今まで彼らは僕に意地悪をしてきた。苦しい。気持ち悪い。小学校の時から、靴を隠されたり、給食を勝手に減らされたり、聞こえる声で悪口を言ったり、勝手に噂をでっちあげられたり。でも物を破損したり汚したりは向こうは絶対にしなかった。だってバレたら一番面倒になるからでしょ。姑息だよね。気持ち悪い。無理。助けて。
『んぬう!』
「あ!だめ!」
「やだ何コイツ!!?キショいんですけど!!」
『ほんと無理なんですけど!』
「やっぱコイツ化け物じゃん!?手下とか最悪~!!」
『やっぱやばい奴じゃん』
「これ担任に言おうぜー!やばいの持ち込みとか悪い奴だなお前!」
『うげー』
…。
気が付いたら僕は保健室に駆け込んでいた。途中でなと君に話しかけられたけど、無視して僕は走っていた。無我夢中で意識がはっきりした時は、もう保健室のソファで寝転がっていた。意識が戻って過呼吸になる。首を絞めるマフラーが苦しい。でも、これは外せない。
僕を助けようとマフラーから出てきた”コイツ”が、僕の丸くなった体に収まっている。殴りたい。僕が化物だっていう確固たる証拠を今の今まで出さなかったのに…。こんな奴!!
「う”、お”ぇ」
「あらあら大丈夫!?」
さっきまでの惨状が蘇る。そうしたら気持ち悪さが限界を超えて、思わず吐いてしまった。保健室の先生が急いで袋を用意してくれたおかげで床をそこまで汚さず済んだが、もう何も考えられなかった。保健室の先生は親に早退すると連絡をしてくれた。褒められるかどうかは知らないが、僕は欠席はしても遅刻と早退は絶対にしなかった。嫌の意思表示はしても、逃げる意思表示はしたくなかった。
「桜城君が荷物持ってきてくれるって」
「…はい」
「袋持ってて。あとこれ水、お口もこの水道で綺麗にしてね」
先生は淡々と話してくれる。大人に相談なんてしたことないし、頼りにも思ったことが無い。でも、こうやって何も言わなくてもしてくれることに嬉しさを感じていた。しばらくすると、なと君が荷物を運んできてくれた。僕に何も言わず、目が合ったけど知らんぷりされてしまった。流石に自分のお手元にいた人達が悪質なことをしていたことに、負い目を感じていたのかもしれない。彼はそんなに悪い人じゃないのに。
「心君のお父さん、お仕事でいけないから1人で帰れる?って」
「大丈夫です。家の鍵もあるので」
「気を付けてね」
僕は荷物を持って、同じく眠っていた”コイツ”を一発叩いてマフラーと首の隙間に入れる。先生も僕についてくるコイツを見て少し引いていた。仕方がない。【特殊能力】を持つ人はこの世の5割しかいないんだから。僕は靴を履く。上履きは隠され防止で毎日持ち帰っているので、自分のリュックサックを開ける。そこには袋で閉じられていた僕のクリアファイルがあった。二重にされて上下を輪ゴムで止められている。そして名前の欄に消し跡が付いた綺麗な進路の紙も入っていた。
「…ありがとう」
●
僕は学校を早退した。欠席ギリギリと僕は言ったが、本当は数日は余裕があるし、もう2学期の成績は学園の基準を余裕で満たしていた。もう後は正直受験本番に挑むだけだ。彼らは僕が目指す学校を嘲笑っていたが、普通に人気で良い学校だから。唯一、いやその唯一が嘲笑う対象かもしれない。
この世界には特殊能力なるものが存在する。昔々アメリカ合衆国のニューヨークにて突如現れた”扉”が全ての始まりだった。扉は異世界の人間を招き入れるものだ。ただ99%災いを招いているけど。その災いに対抗する様に僕ら人間に特殊能力が発現した。あらゆる”もの”が由来となったその能力は、扉からやって来る化け物や災害にずっと対処してきた。
その対処をするものを皆は、かつては勇者と呼び町を救えば英雄の称号が贈られた。今では扉からの災いに対処する組織として【
「(でも、勇者みたいな存在は憧れてたからなぁ)」
僕が目指していたのはそのダサい勇者でもある。それはまた昔話、僕が5歳で家族旅行で箱根に行った時、扉が出現して中からモンスターが出てきて、僕たちを襲って来た。その時に鬼神みたいにかっこよく強い4人が”勇者”のように現れて退治したんだ!殺し方がグロテスクだったけど、禍福課の人を間近で見た僕にはそんな姿もカッコよく映っていた。彼らに近づきたいから、僕はあの学園を目指すんだ。あそこはただの学校じゃない。禍福課を育成する機関もある立派なところだ。馬鹿にされるほどなんかじゃない!
「(早く行ってみたいなぁ。でも、その為には)」
自分の力と向き合わないといけない。コイツを見て僕はどうしようもなく落ち込む。心を閉ざした僕には、今までの力さえ出せない。僕は酷い人間だ。一時の憎しみと哀しみで僕はこの瞳を縫い付けたのだ。
「危なーーーーい!!!」
「え」
ドコン!と人と衝突する音が響いた。僕は道路に背中を打って、向こうは腕を伸ばして転倒阻止。傍から見れば今僕と彼で床ドン状態である。ぶつかってきた彼は、水色で火のように燃え上がる髪に狛眉で、大きな青色の目をしている。服装を見ればこの近くにある別の中学校の制服を着ている人だ。
「あ、すみません」
「こっちこそごめん!背中大丈夫?」
「はい。えっと、
「うん。そっちは
僕は彼の手を引かれて立ち上がる。背丈は向こうの方が若干上だった。冬でも寒そうな薄着の制服だ。髪の炎が彼を温めているのかな。
「俺は
「僕は
「本当!?俺ら未来のクラスメイトじゃん!よろしくな」
彼は明るい顔で、握っていた手を強くする。嬉しそうな笑顔で髪の色が紫の暖色へと変化している。感情で髪の色が変化しているのは凄い能力だ。隠密に向いて無さそうだなぁ。
「悟川って今日午前授業だったん?こんな真昼間にいるんだし」
「…早退したんだ。色々あって」
いじめで泣く泣く早退したなんて言えないよ。情けない話だけど、初対面だし。
「そっか。…なあ、この後暇だったりしない?折角会えた運命だし、一緒に遊ぼうよ!」
「え」
僕がちょっと落ち込んでいると、彼は意外な言葉をかけてきた。僕たちが出会ったのは運命的なものだって、だから遊ぼうと誘ってくれたのだ。父さんは仕事で夜まで帰ってこないし、一応帰る連絡は入ってるから、誘いにのるのも悪くない。それに、なと君以外しかも好意で僕に話しかけてくれたんだ。
「うん、いいよ」
「いよっし!そんじゃ、近所の公園制覇しようぜ!」
釣瓶君は僕の手を引いて道路を走る。僕らが長い道を歩けば、本当に僕の通学路から近くの公園に辿り着いた。砂場にブランコに広い砂利の広場がある。その周りを大きな広葉樹や茂みで囲っている。遊具は少ないが、代わりに広場のように広い平場ばかりだ。住宅街に囲まれた閑静な公園。
「久しぶりに来た…」
「そうなん?俺はいつもここで兄貴とサッカーしてたぜ」
「へぇ」
「ちょっと待ってな!今から遊ぶやつ持ってくる」
そう言って釣瓶君は爆速で公園から出ていった。多分家に帰ってボールとかを取りに行ったのかもしれない。僕は釣瓶君が戻ってくるまで公園をぐるりと眺めていた。公園に来るのは小学生以来だった。家族とも公園で遊んだし、数回なと君とも一緒に遊んだ。いつの間にか、近寄ることも無くなったけど。
こういう静かな場所にはあまり扉がやってこない。人が繁茂している場所や賑やかな繁華街には出現率がだんだんと高くなる。でも、その静かな場所で来る扉は100%普通の能力者じゃ倒せない災いばかりなのも解っている。出現率が低いのと反比例に凶悪さが高まるってことだ。正直恐い。扉は規則性も無く、気まぐれでやって来るせいで、夜もおちおち眠れないが世間の常套句になっていたりもする。
深く考えながら僕は一人の公園でブランコをこいでいた。
「持ってきたぞー!って先に公園で遊んでる!俺もやるー!」
「あはは。釣瓶君って公園好きなんだね」
「遊ぶのが好きだからな。友達と遊ぶのはもっと楽しいし!」
友達か…。学園に入学したら釣瓶君は一番最初の友達になるのかな。でも、今既に釣瓶君と公園で遊んでるし、学園での初めての友達はまた別の人なのかな。おかしいな、僕つい数時間前に嫌な思いして吐いてたはずなのに。こうやって楽しい思いをしたら、案外呆気なく背を向けられるんだ。フラッシュバックする原因が無いからかな?いや、彼から不快の声がしないからだ。
僕たちは2人してぎこぎことブランコをこいでいる。でもせっかく釣瓶君が何か持ってきたし、それで遊ばないと。制服姿だけど。
「ねぇ、何を持ってきたの?」
「これだよ。バトミントンのやつ」
「さ、サッカーボールではないんだ…!?」
「俺、遊ぶ為なら何でもやるからな。スポーツのやつもまだまだ色んなの持ってるぜ」
「(遊びガチ勢かな)」
釣瓶君はただスポーツが好きな少年と言うわけでは無く、遊ぶ為なら何でもするタイプだった。目的より手段に命を懸けていた。僕たちはブランコから降りて、広い砂利の平場でバトミントンを始める。体育の授業で多少かじった程度の知識しかないけど、羽を落とさず打ち返すさえ分かっていればいいやと、僕は釣瓶君から受け取った羽を元気よく打った。
●
心冶が早退して数時間が経ち、学校はもう下校時間になっていた。3年生になると3学期にはすぐに帰れる。冬になった季節ではこの時間でも日が沈むのも早い時期だ。桜城勿菟は取り巻きの女子をつけて通学路を歩いていた。心冶がいなくなってから、すっかりとその日は喋らなくなった勿菟に、女子たちは不満そうな顔をしている。うざったいと思っていた人物が、自分達が尊敬する人に影響を与えていることが気にくわないのだろう。
「ねー元気出してよ。どうせ明日アイツ普通に学校来るって」
「ちょっと遊んだだけなのにね」
「…」
勿菟は内心複雑に糸が絡み合っていた。勿菟が心冶に話しかけたのは所詮気まぐれという感情だった。優しさよりも先行したのだ。何故なら彼は化物だったから。どんな季節でも関係なくつけているマフラーに、ひっそりと首との隙間にいたあの生き物、あれが勿菟の興味を惹きつけたのだ。
小さな赤色の丸い生き物で、大きな一つの瞳が糸で縫い付けられている。緑色の睫毛に痛々しい程の憎しみが籠った糸が縛り付けられていた。子供ながら、幼いながらの好奇心が彼との関係の始まりだった。
正直勿菟と心冶の関係はお互い良いモノだとは思っていなかった。陽と陰の真反対な性格と人間関係、そして一部の能力者への差別。顔が良ければ、運動神経が良ければ、第一印象で人は接し方を変える。それは能力も例外ではない。ただ火を出す、雷を放出する、見た目が変わっても害がない、誰かの不快のツボを刺激しなければ、いじめられることもないのだ。
心冶は化物をひっつけた化物なのだ。その化物も顔は人によっては気味悪いと感じるだろう。勿菟もずっとそうだった。紅い血の色が不快にさせていた。だがそれ以上の嫌悪の根源は、心冶自身が人の心が読めることだった。
僕たちはバトミントンの羽を打ち合う。何度も失敗して落としているが、繋がった時はとても気持ちがいい。羽は宙を泳いで地に落ちる。
「なぁ、学園受けるってことは何か能力持ってるタイプだったりする?学部によっては非能力者もいけるけど」
「僕はあるよ。でもあんまり好きじゃないんだよね。学科は特殊科受ける予定だよ」
「学科も一緒じゃん。んで能力は好きじゃないって、もしかして嫌な思い出とかあるの?」
僕は一瞬固まってしまう。嫌な思い出と言えば幾らでもある。何故って、人の心が読めてしまうから。アイツの瞳を縫い付けてからは、全部の心の声は聞こえなくなった。だけど、よりにもよって悪いことの声はずっと聞こえていた。今こうして釣瓶君と遊んでいるが、彼の心の声は聞こえない。悲しい思いも怒りも無いからだ。今ここで自分が”覚”だって暴露したら、どう思っているかなんて全部筒抜けだ。どうせ、僕を否定するから。それは仕方がないさ、だって怖いじゃないか。僕だってわかる。
「ちなみに俺は火の能力だな。多分…【釣瓶火】ってやつ。妖怪にいるあの青白い炎のあれ!」
「そうなんだ。火の能力って強そうだけど」
「多分そうかもな。髪まで燃えるとは思わなかったけどな。しかも熱くないんだぜ」
火の能力か。シンプルに強いし、かっこいいし。釣瓶君の見た目にも反映されてるけど、害も無いおしゃれな髪だ。そんな能力だったら僕もちょっとは暗い性格にならなかったのかもしれないな。
「僕は…」
「無理に言わなくて良いぜ」
「え」
「向き合うタイミングっていうのあるじゃん。今言わなくても、いつかは来るかもじゃん。その時まで別に他人にうち明かさなくて良いと思うけど」
確かにそうだ。この先どうせ向き合う日が来る。向き合えていないなら、痛みを伴うマネはしなくていいのかもしれない。彼は優しい言葉で僕を励ます。その気遣いが慣れていないせいで、僕の心はむずがゆいが嬉しさが溢れていた。
「どうせだし、もっと色んな事しようぜ。金無いけど歩くだけでも楽しいだろ。金あったらもっと楽しいかもだけど」
「うん。そうだね」
僕たちは数十分バトミントンをすると、次に繁華街の方まで歩くことになった。釣瓶君は中学生は金が無いと嘆いているが、無くても思い出は無料だって。彼と一緒にいて苦痛がない。心の声も聞こえてこない。僕らは公園を出て真っ直ぐに繁華街へ足を進めていった。
勿菟たちは繁華街で寄り道をしていた。中学生は本来校則で禁止されているが、規律を厳格に守る性格ではない為、彼らはここにいたのだ。主に女子が買い食いをするのが目的である。勿菟は少し離れたところで女子の買い物を待っていた。
「…?」
勿菟は何かを発見する。繁華街の車が通らない大通りに、一つ大きな扉が出現したのだ。オレンジ色に黒色の縁がついていて、でかでかと大きくDと書かれているヘンテコな扉がゆっくりと開いている。勿菟は一歩ずつ後ろに下がる。危険信号が脳みそからとめどなく鳴らされている。災いを運ぶ扉が、今開いているのだ。
「ねぇ勿菟ぴ、次どこに行く?」
「早くこの場から離れろ」
「え、何?」
女子たちは扉に背を向けているので見えていない。勿菟は女子の袖を掴みその場を離れようとする。しかし扉は先ほどまでゆっくりと開いていたが、何かが介入しバコン!と大きな音を立てて扉が開かれたのだ。
人によっては完全に開かなければ、中から何かがでなければ認識できない場合が多い。基本的に能力者は出現した瞬間に気づけるが、非能力者はそれができないのが殆ど。しかし勿菟は非能力者でありながら、扉を認識ができていた。
『んぼおお!!』
「え、なに!!化け物じゃん!!?」
「いいから逃げるぞ!」
扉の奥から大きなスライムが出てきたのだ。3つの不規則な目が不気味に映り、周囲の人間は悲鳴を上げて一目散に逃げていく。その3つの目をぐりぐりと動かし捕獲する対象を決めている様子を見せる。その目線の先には蘇芳色の髪色をした勿菟だった。スライムはその軟体の体を動かし、真っ直ぐに勿菟を追いかける。町の街灯や看板を飲み込みながら襲い掛かって来る。
「お前ら向こうに逃げろ」
「やだ!無理!」
「嫌言うな!あいつは俺を狙ってんだよ!」
勿菟は声を荒げて女子を突き飛ばす。そして道を右に方向転換し、スライムの相手をする。スライムは突き飛ばされて勿菟に文句を言う女子を掻っ攫い、さらに襲い掛かって来る。勿菟は舌打ちをしながら繁華街を走っていく。スライムは道行く人を無視し建物を伝って追いかけていた。
僕と釣瓶君で繁華街を歩いていた。いつもなら人が沢山いて賑わっているが、なんだか様子がおかしい。微かに声高い悲鳴が聞こえてくる。そして心の声が至るところから聞こえてくる。咄嗟に僕は体をかがめて縮こまってしまった。
「だ、大丈夫か?」
「うん…ちょっと能力でビックリしただけだから」
大丈夫ではない。今までこんなに悲鳴や悲痛な声を聞いたことが無い。繁華街で何か異変が起きているのはよくわかっている。何度も頭の中に木霊して反響している。気味が悪い程の声の数に、自分も気持ちが悪くなる。
『助けて!』
『扉から化け物が出てきた!』
『早く対処しろよ!!』
『気持ち悪ぃ!』
『誰か…!』
「!」
「どした悟川!」
僕のうずくまっていた体は誰よりも真っ直ぐに動いた。自分でも驚いてしまう程にこの突発的な体が、声の持ち主に向かっているのだ。ずっと聞いてきた彼の、勿菟君の、となっちの声だ!
「し、知り合いの声が聞こえた!」
「聞こえるってここ人少ないし、静かだけど…」
「襲われてる…助けなきゃ!」
「わかった。手伝うぜ」
釣瓶君は優しい。初対面なのに僕に付き添ってくれるのだ。僕は勿菟君の声の場所へ向かう。今も心の声が脳に反響している。声の遠近も関係する。僕の聞き取り可能範囲は1㎞圏内。運動なんて得意じゃないけど、僕はただただ走るしかなかった。
勿菟は絶体絶命の文字が脳裏をよぎっていた。何もかもを飲み込んで肥大化するスライムに、取り巻きだった女子ともども飲み込まれていた。触手のように絡まれて拘束されている。体を動かして対抗しようとしても、強い力で対抗心をねじ伏せられる。危険信号が頭を支配して冷静な判断ができなくなっている。勿菟の意識も遠のき始めて、どうしようもなくなる。警察のサイレンや、禍福課の人たちが来たような声が遠くから聞こえるがそれが近いのかも遠いのかも知りえない。
「勿菟君!」
はっきりと大きなその声が勿菟の耳に届いた。顔をなんとか動かせば、スライムから少し距離をとった場所にあの心冶がいたのだ。そのすぐそばに知らない誰かもついている。無謀だ、勿菟は口にできなかったがそう真っ先に思った。散々いじめられる原因を作った自分を、助けようだなんて無駄な正義感に、勿菟は涙が出てきてしまった。彼は化け物だ。人の心を読み、特に悪口には誰よりも敏感に読む奴だ。
「(なんで
とてもとても情けない。勿菟はずっと涙があふれている。拭おうにも手足を拘束されて動けない。非能力者の勿菟自身よりも、心冶はずっと綺麗で優しい心を持っているのだ。この危機的状況も諸共しないその正義感が、ずっとずっと羨ましいと勿菟は思っていたのだ。素直になれないで、自分が持っていないその優しさに嫉妬をしていたのだ。
何とか僕たちは勿菟君がいる場所に辿り着いた。大きく狂暴そうなスライムが、勿菟君と僕をいじめていた女子を捕縛している。
「なんとか助けないと」
「勇者たち来るって聞こえてるけど、どうする?最悪俺らもやられるって」
「釣瓶君はどんな感じに能力使える?」
「俺はそのまんま炎扱うやつ。明かりにもできるぜ」
『んぼぼぼ!』
「わ!」
呑気に話している場合じゃなかった。スライムは僕らに向かってその粘液の触手をふるった。何とか回避できたが触手に接触した車は遠くまで吹き飛んでいった。自分達があんな目に遭ったらただではすまなそう。威嚇の声を荒げながら僕たちに向けている。
『んむぅ!』
「…」
「え、可愛い奴じゃん!悟川の能力のだったりする?」
僕のマフラーからひょっこりと現れる。僕に”覚”の能力を引き起こす原因だ。目を思いっきり縫い付けているのに釣瓶君は全く恐怖の声が聞こえてこなかった。この子は僕に向かって何かを訴える。唯一意思疎通ができないこの子は、僕を使えと閉じた瞳で訴えてるように見えた。
「どうなっても知らないよ」
『んむむぅ!』
正直、僕にはどう対抗すれば良いのか算段が無い。でも、今はもう”無意識”に体が脳が動いている。僕はマフラーから取り出し手に押し込む。するとボクシングのグローブのように僕の手に馴染んでしまった。何が何だが僕にも状況が呑み込めていないが、迷っている暇はない。何だって使ってやるんだ。
「ねえ釣瓶君、火を頂戴」
「え、お、おう」
『んぼぼぼう!!!』
釣瓶君は戸惑いながらも僕の手に火を纏わせる。髪色と一緒の青い炎が、手を原点に僕の全身にまとわりついた。スライムは怒りで触手を何本も伸ばし振り回している。突発的で計画性のない、ただ暴れまわるだけの化け物。僕と一緒で化け物だ。
「勿菟君を返して…!!」
”無意識”に僕は敵の攻撃を身軽に避ける。こんなの昔も今も経験したことが無い。でも今はこの体が正義と優しさを僕の心を燃やしているんだ。弱い僕ににだってこんなことできるんだ…。初めて知った。
世の中には「弱肉強食」が存在する。その立場はいつでも崩れることができる。どんなに強者ぶったところで、それより上の強者に飲み込まれてしまう。その反対だってある。善意のある強者になろう。誰かを助ける人に成ろう。昔に母さんと約束したんだ。僕は触手の攻撃を反射で避ける。それでも当たってしまい吹き飛ばされるが、僕の体は痛みもなくピンピンしている。
ふと母さんとの約束を思い出した。あの時は色んな声が聞こえていて、いつも母さんに泣いて抱き着いていた。優しい抱擁と声がいつも僕の心を癒していた。
「心が聞こえるのは辛いけど、でも役立つことだってあるの。心ちゃん、どんなものも役割を持って生まれるの。ちゃんとその力に向き合う時が来るよ」
正直ずっと路頭に迷っていたんだ。学園に行くの憧れの人達のように、勇者のように禍福課の人になりたかったから。でも、目的の原点を僕は忘れていたんだ。母さん、思い出したよ。ずっと辛いことばかりで閉ざしてたけど、でもまだ良いことが良い人がいるんだ。自分が今ここでずっと落ち込んで、現実から目を背けていたことも、立ち止まるわけには行かないんだ。約束を果たす為にも。
「お母さんはね、どんなに離れても心ちゃんが大好きだからね。いつか弱い人たちを助けられる優しくて強い人に成ってね。悪い奴は成敗だよ!」
僕はスライムの体の核が存在しそうな真ん中に狙いを定め、僕は炎をまとった拳をぶちこんだ。スライムの中に拳が入り込み、まとっていた炎が勢いよく噴射される。その轟々たる勢いに僕は吹っ飛ばされてしまったが、釣瓶君が自分の身をていして受け止めてくれた。
「大丈夫か?てかすげえな!」
「うぅん…ありがとう。何か体が勝手に動いちゃった」
一連の行動は、僕の体と意識が乖離かいりして動いていたのかもしれない。火を頂いたことも、スライムを攻撃したことも記憶しているのに、自分のことのように思えなかった。自我で把握できなかった領域の出来事なのかもしれないのかな。スライムの方に視線を向ければ、炎に飲み込まれてバン!と破裂の音が聞こえ小さくなっていた。勿菟君と女子たちは宙に置いて行かれそのままドサっと落ちてしまった。
「すげえ!お前無意識でそんなのできんの!?」
「…でも打開できたのは釣瓶君の炎のおかげだよ。拳だけだったら多分負けてたし、ありがとう」
「あっはは。良いってことよ!勇者こと禍福課は仲間がいてこそだからな」
制服が土埃などで汚れてしまったが、助けられたことを喜ぶのが一番だよね。でも、いち大人でもない15の僕が倒したことなんて賞賛されるわけがない。と思っていたけど、すぐに駆け付けた大人達に君がやったのか?すごいな!と釣瓶君と同じように褒められた。でもでも、僕があの戦いをしたのはほぼ無意識に体が動いただけで賞賛されるほどのことではない。
あとのことは大人がやると、僕と釣瓶君は帰された。勿菟君に話しかけようと思ったが、落ち込んでいるのかずっと俯いた姿に僕は何もできなかった。
●
あの日から一ヵ月と経って、僕は無事に筆記試験をクリアした。推薦の方が能力お披露目で受かりやすいとは聞いていたけど、僕にはやっぱり自分の力への向き合いができず勇気が無いまま一般受験に挑んだ。結果は見事合格。釣瓶君に連絡をしたら彼も合格の通知が来たと2人して喜んでいた。
いたって普通の筆記試験で面白みはなかったけど、受かる受からないだったらこれくらいシンプルな方がずっといい。僕は自分の部屋に飾っている母さんの写真立てをとる。心の中で母さんに声をかける。
「(母さん。僕、約束を果たすために、かっこいいあの人たちみたいに、強くて優しい禍福課になります。応援してね)」
春の中学卒業式。僕はあの日以来、勿菟君に話しかけることもかけられることもなかった。気まずい空気のまま最後に写真を撮ることもできずに、僕たちは苦い別れになったのだ。彼は能力者じゃないから、きっと普通科の高校とかに行くのかもしれない。でも、元気で学校生活を送っていて欲しい。
その後、僕は制服で釣瓶君と写真を撮った。ちょうど同じ日に卒業式があったのだ。来月からの百鬼学園でどうか釣瓶君と同じクラスであることを、ひっそりと願っている。
僕の心はあの日から燃えていた。そしてこれからが、僕の燃える心がもう一度開くのだ。これは能力による弱肉強食の檻の中で、僕は幸せを追い求める話。手垢まみれの王道に、僕は本気で挑むんだ。
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