魔女

西の空には、うっすらと雲がかかっている。灰色に濁った空気の向こう、焼けた鉄のような色をした夕陽が、水平線の彼方に没しようと動き始めていた。

ただでさえ日の光が入らない旧校舎の裏は、いつにもまして薄暗い。


「早いな…」


いい加減起き上がらないと。

湿った地面に手の平をついて、ゆったりと緩慢な動きで立ち上がる。

学ランについた土を大雑把に落とした。


体のあちこちがジリジリと痛むのを堪え、旧校舎裏から新校舎まで、足を動かす。

歩みを進める内に、校庭では、夕焼けに橙色に照らされた硬式野球部が、耳を貫くような大声で練習しているのが見える。

鬱陶しく感じながら校庭の傍に設置された蛇口を思い切りひねって、頭から水をかぶった。


真冬も真冬の水道水。

頭上から降り注ぐ冷水が、土の汚れや鼻血を洗い流し、僕に冷静さすら取り戻させてくれた。


「冷たッ!」


そりゃ冷たいに決まってるけども。頭から首元に流れてきた水は、冷たいというより、もはや痛かった。

急いで首元を横にひねり、頭からかぶった冷水が学生服を濡らさないよう、頭をブルブルと震わせて水滴を地面へと落とす。


何十秒かで一通り落とすべきものを落として、ようやく一息つく。

前傾姿勢を元に戻して、そのまま座り込んでしまいたい気持ちを抑えながら、教室に置いたままのカバンを取って帰宅すべく、一歩を踏み出した。



扉を開けて教室に入る。人は誰もいないが、僅かに残る人の熱量を感じ取ることができた。

机の上に雑に置いてある鞄を肩にかけ、教室を後にする。


「にしても…」


こんなにボコボコにされたのはいつ以来だろう。

そもそも、こんな日々をジリジリと送り続けてから、どれくらいの時が経ったのだろう。

いつまで…


「…どうでもいい。」


…どうでもいい、本当に。

これ以上苦しくなるのはごめんだ。

頭の中をリセットしようと首を振ると、濡れた髪の毛から水滴が飛び散った。


ベコベコになった下駄箱から靴を履いて、喧しい運動部の集団、校門をくぐり抜け、ふと空を見上げる。

焼けるような色をした空はもうほんの一部で、そのすぐ上は、目にする人をほっとさせるような温かみのある紫色に染まっていた。


もうすぐ日が沈む。


「そうだ。」


何か明るいことでも考えよう。

そうしてすぐに思い浮かんだのは、昼休みの会話。


「横川さん、めっちゃ可愛かったな…」


素敵な笑顔だった。

話していると、ドキドキした。


「また、話したい」


彼女の『間宮君、今度また話そうね』という言葉が、計り知れないエネルギーを僕に与えてくれた。

…だからこそ。


「…痛い。」


体全身から感じる鈍い痛みが、僕を最低最悪な現実へと引き戻す。

彼女は転校してきたから知らなかっただけで、僕の取り巻く環境を知ったら、僕から距離を取るに決まっているのだ。

そして、もし万が一彼女から僕への関係が続くようなら、進展するようなら。ならばこそ僕は、彼女との繋がりを断ち切らなければならない。彼女のために。


「…クソッ!」


クソだ。クソッタレだ。

やり場のない怒りを感じて、衝動的にコンクリートの地面を思い切り蹴っても、つま先に痛みを感じただけ。


「…つまんねぇよ、マジで」


何だか全部がバカバカしくなって、下を向いて歩いていることもバカバカしくなって、地面から顔を上げた。

歩いていることすらバカバカしくなって、足を止めた僕。


…?

?足を止めた僕?

なんで僕は足を止めたんだ?

僕自身の行動に、強烈な違和感。


「何だ、これ」


何が起こってるんだ。

なんで僕は止まってるんだ?

なんで僕は動こうとしないんだ?


意識すればするほど、体がどうしても動かない。

いつもの下校路だ。葉が枯れ落ちた街路樹、煩雑に設置されたカラーコーン、やや曇り、色褪せたカーブミラー。


僕だけがおかしい。


僕は辛うじて動かすことのできる目線を必死に動かした。


──誰かいる。


「やあ」


気軽な掛け声だった。

正面から突如として現れたそいつは、一目若いのにしわがれた声だった。骨ばった手といい、野草のような口臭といい、何もかもがちぐはぐだった。


「君のことを、少し観察させてもらったんだ。」


全てが演出されたような、気味の悪さ。

この世界に存在を確立していないかのような曖昧さは、ふと気を抜くと見失ってしまいそうだった。


「観察って…何なんですか、あなたは」


彼女はニタりと頬を吊り上げて、こう言った。


「私はね、魔女だよ」











俺たちはありとあらゆる手を尽くして、食糧難の5月を何とか脱し、6月を生きて迎えることができた。

その日は全員で神に感謝しながら、調子に乗って食べ放題飲み放題の焼肉で肉と酒を死ぬほど頼みまくった。

その後、例の如く食らっても食らっても目減りしない大量の肉に、死ぬほど後悔することになる。


何とか肉を処理し、追加料金を免れた俺達は店を出た。


「気持ち悪…」

「おい言葉にすンな、もっと気持ち悪くなンだろうが…!」


摂取しすぎたアルコールによって、足取りはおぼつかない。胃袋は、大阪のおばちゃんが詰めこんだ袋詰め放題の袋ぐらいパンパンで、いまにもはちきれそうだった。


深夜の住宅街は、住宅から漏れ出す光すらほぼなくて、頼りになるのは薄暗い街灯だけ。

先頭をゆらゆらと歩くオークを頼りに足を進めていると、突如オークの巨体が前から消えた。


「……こけた。アキラ氏、カイ氏、助けてくれ」

「…起き上がれるか?」

「…無理じゃ、足に力が入らん」

「仕方ネェな…。オイアキラ、肩貸せ。…いくぞ、せーのッ!」


二人でオークに肩を貸して、何とか持ち上げる。

オークが足を震わせるだけで、一向に地面へ足を着こうとしない。


「オイオーク、ふざけてないで立ってくれ」

「これが限界じゃ、マジで。」

「…」

「…」


俺とカイで顔を見合わせる。


「…しょうがネェ、引きずって行くからな」


後シェアハウスまでの距離は、歩いて10分ほど。

何とかオークを二人がかりで運んでい行けなくもない。


ヒイヒイ言いながら、オークを引きずって前へと進む。

俺もカイも無言で息を合わせて、足取りを進めた。


いつもよりずっと長く感じた道のりも、ようやく終わりが見える。


「オレがカギ開けるから、その間オーク頼ンだわ。」

「了解」


カイが玄関のカギを開け、いつの間にか気持ちよさそうに寝ているオークを二人で玄関の通路に放り投げた。


「…グガガァア…」

「…」

「…」


地鳴りのようなイビキをかくオークを叩き起こしたい衝動にかられたが、そんな気力もない。

二人で無言でオークを踏みつけながらリビングのソファーへと向かう。


「…あー疲れた」


ソファーへと腰を下ろし、ようやく一息つく。

はち切れそうだった胃袋も多少運動したおかげか、いくらかマシになった。

アルコールも丁度良く回って、心地が良い。


「…」


このまま目を瞑ってしまえば、すぐにでも寝てしまいそうだ。

というか、寝る。


……

………


「どうせ忘れちまうンだろうけど」


眠りに落ちる寸前。カイの言葉が、ぼんやりと聞こえる。


「高校で会った時、正直ビビったぜェ。地元の知り合いが絶対いねェトコに進学しようと思ってたのに、まさかまさかだァ」


「…そんで、俺が意を決して中学の時ンこと話したヨォ…。」


「オマエ俺のことどころか、中学の事なーんも覚えてなかったんだからなァ。」


「しかも次の日にはそのやり取りすら忘れちまって…。」


眠い。


「でもヨォ、アキラ。オマエが忘れても、俺は、俺だけは、オマエに救われたこと、絶対忘れねェから」


分からない。


「……あの女……オマエも……無意識に……過去へ決着を……」


……

………

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