労働者幸福度向上セミナー
「早い話がですね、風船を割ると幸福になれるんですよ。これ、怪しいと思いますか?」
夏の日の、冷房の効いた喫茶店。
少し光沢のある柔らかそうな白のブラウスに、紺の薄いカーディガンを羽織った黒髪の――なんと言おうか、あまり女性と接点の無かった男が想像する綺麗な女の人。
そのお手本のような清楚な身なりの女が、ホットほうじ茶ラテのカップを持ち、白くていい匂いのしそうな手を温めながらそう言った。
これは、いかにも怪しい。
言っていることも怪しいし、マッチングアプリでこんな美人が向こうから会おうと言ってくる時点で、死ぬ程怪しい。
怪しいと思いながら美人見たさに出て来る私も私だけど、それにしても怪しい。
怪しいのだけど、私はまさにあまり女性と接点が無かった男そのものだ。この綺麗のお手本のような女の人の機嫌を損ねるだなんて、とても考えられるものではない。
少し怪しいとわかっているのだから、騙される心配も無いだろう。話を終わらせるのは、もう少し眼福を授かってからでも遅くはない。
「いえ、まあ……幸せの形は人それぞれですからね、はは」
「わ、佐藤さんはご理解のある方ですね! そうなんですよ、幸せの形は人それぞれ……幸せの本質は、そう簡単に姿を見せてはくれません。だから、人が見れる幸せは、色んな形になるんです」
あぁ、まったく。
私は幸せの形は人それぞれと言ったのに、なんで幸せの本質なんで一元的なワードが出てくるんだろう。
いや、私は形と言って、彼女は本質と言った。
本質は一つ、見える形は多様、ということならおかしくはないのか? 浅慮なのは実は私の方だったりするのか?
「今度一緒に活動に参加してみませんか? 一応ですけど、あの……特に何かを販売するとかでもないですし」
一緒に。ああ、一緒に。私は今完全に見くびられているな。
ちょうど綺麗な人に舞い上がってる最中ではあるけれど、深夜残業続きで疲れ切った頭だけどさあ、そんな死に体の脳みそでも、それぐらいは分かる。
「いや、なんらかの費用はかかるんですよね?」
「かかりません。もちろん風船をたくさん準備するのでその費用はあるんですけど、それは有志で出し合ってますので」
「え、じゃあその、なんでそんなことしてるんですか? 普通はその、本とか、なんか開運グッズとかそういう」
「佐藤さん」
さっきまでマグカップを握っていた彼女の温かい両手が、私の惨めな、爪も肌も荒れた手を優しく包む。
「勘違いされても仕方ないですけど、私達はいわゆる宗教とか、ネットワークビジネスとか、そういうグループじゃないんです。一応風船の会を名乗ってますけど、会長は事務処理をしてるだけの人で、別に崇めたりとかしてないですし。私達はみんなそれぞれ仕事を持っていて、この会で収入を得ているわけではありませんので」
すべすべだ。
いや、さすがにそんな事を考えている場合ではない。いよいよ雲行きが、彼女の醸し出す雰囲気が、怪しくなってきているではないか。
「じゃその、グループを作る目的って」
ああ、恐ろしい。
私の問いに答える瞳は透き通って真っすぐで、いわゆる純粋というやつそのもの。
「働く人の心を明るくすることです」
会社が盆休みに入り、私はあるマンションの一室を訪れていた。彼女に会いたかったからだ。
愚かだとは思う。
一緒に少しお茶して、それから活動に向かいましょう――
そう言われて、ほいほいついて行くのだから。
そこはいわゆるワンルームマンションで、寝具もなく、ただテーブルとイスと、大量の膨らませていない風船が用意されているだけだった。
ここでひたすら作業――自分で風船を膨らまして爪楊枝で割るという、何の意味も無い行いを繰り返すのだ。
この大量の風船、すべてに対して。
後で迎えに来ると言って、彼女はどこかに行ってしまった。意味のわからぬ苦痛ではあるだろうけど、今のところまったく金の話をしてないし、家に居たって大した楽しいこともなく、連休明けの仕事のことを考えて暗くなるだけだ。
仕事。
あのクソくだらないビジネス。
水をイオンで浄化してウィルスや悪い菌から人を守るとか言う真偽不明の健康効果を謳った、およそ何の役にも立たなそうなシャワーヘッドや、蛇口に取り付けるキャップ。
そんなどうしようも無い物を喜んで買いそうな人間を探し出して、テレアポやダイレクトメールにSNSのメッセージに飛び込みの訪問、あらゆる手段でコンタクトを取り、売りつける。
外貨を稼げるわけでもなく、食料や何かの材料を作るわけでもなく、他人の素晴らしい仕事を支えるわけでもない……教育と情報の格差に目をつけて、不安を煽って、あまり知的水準の高いとは言えない人々から細い金を吸い上げる作業。
それを思い出すぐらいなら、退屈な苦行に耐えて美人とカフェに行った方がいい。
金が必要そうな話が出てくる、その時まで。
そう思って、私はひたすらに風船に息を吹き込み、膨らませ、爪楊枝を突き刺して破裂させるという、無為な作業の繰り返しに身を投じた。
風船を手に取る。
息を吹き込む。
風船が膨らむ。
風船の口を結ぶ。
爪楊枝を刺す。
ぱんっ。
風船を手に取る。
息を吹き込む。
風船が膨らむ。
風船の口を結ぶ。
爪楊枝を刺す。
ぱんっ。
風船を手に取る。
息を吹き込む。
風船が膨らむ。
風船の口を結ぶ。
爪楊枝を刺す。
ぱんっ。
風船を手に取る。
息を吹き込む。
風船が膨らむ。
風船の口を結ぶ。
爪楊枝を刺す。
ぱんっ。
ふ、ふうせん、風船を。
あああああ。
三日間に渡る風船の会の活動。
それからたった二カ月足らず。
私は、まさに幸福の中に居た。
彼女は突然姿を消して連絡が取れなくなってしまったが、もうそんなことはどうでもよかった。
仕事が、楽しいのだ。
製品の説明を真剣な面持ちで聞くお客様が、実際にそれを手に取り、素晴らしい効果を実感して頂けることが嬉しくて仕方ない。
楽しんでやっているからだろう、ついに個人売上も地区トップになった。
今度は5G電波やあらゆる電気製品から発せられる電磁波の影響を取り除く、超音波で分子を振動させて浄化した水が発売される。
今なら体に入る電磁波を減らす、特殊なコーティングをしたパワーストーンも付いてくる。
これも売るぞ、売ってやるぞ。
あぁ、仕事だ。仕事がある。こんなに素晴らしいことは他に無いぞ。だって、意味があるんだ。
お客様が喜んでくださる。少なくとも、お客様が普段の暮らしで抱えている不安を軽くできるんんだから、とても有意義だ。
この仕事はとても素晴らしい仕事だ。
お客様の明日を――
もっと先の未来を――
ずっと支える――
こんな素晴らしいスローガンを胸に抱いて働けるだなんて、まるで天国にいるようだ。
だって、やりがいがあるから。
あのなんの生産性も無いただ風船を膨らませて割るだけの、誰の笑顔にも繋がらない、不毛な時間に比べたら――
およそ女との接点が少なかった男の思う、綺麗な女性の最大公約数。そんな雰囲気の女が一人、グレーのスーツを着て応接室に座っていた。
正面に座るのはスーツ姿の還暦手前の男で、腕には百万円は下らない腕時計が巻かれていた。
「いやいや、御社の研修、凄いね。あの佐藤の奴は最近特に弛んでてさぁ、支店の成績悪いのに、ベテランのあいつが全然数字出してなくて。それがねぇホント、凄いよ、数字出てるもん」
「ありがとうございます。やはり同じ仕事を続けていると、どうしてもモチベーションクライシスと申しますか、ご自分の仕事に意義を見出せなくなることがありますから」
「いやほんと、他の奴の研修も御社、えっと」
「株式会社青い鳥でございます」
彼女はにこやかに名刺を取り出し、テーブルの上に置く。男はそうだったぁ、ゴメンゴメンと言いながら笑い、リラックスした顔で背もたれに体を預ける。
「それにしても、やっぱ凄い手法だよね、御社の研修は。普通に会社命令で研修だってあんなことさせたらさ、訴えられそうじゃん。でも、個人的に知り合った人とプライベートでやってることだから、ウチは関係ないもんね」
「おっしゃる通りです。弊社はお客様の法的リスクやレピュテーションリスクを低減しつつ、社員の方のモチベーションに強く踏み込んだ研修を提供する。これを心がけておりますので」
「ほんと、何言われるかわからないもんねぇ。ええっとあれ、同じ内容でまたやって欲しいんだけど、何だっけ? セミナーの名前」
ありがとうございますと言いながら、女は背筋を伸ばして笑顔を作り、誰にとっても聴き心地の良い声で商品名を告げる。
「労働者幸福度向上セミナーでございます」
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