本能寺の変
夜勤ののんき屋
第1話 本能寺の変
参考WEB 明智光秀の『最大の誤算]
https://www.rekishijin.com/37210
信長公記には本能寺の変で、御厩で24人、御殿で26人が討ち死に、信長は自刃したということであるが、、
一方の信忠も本能寺が明智軍によって包囲されたことを知った信忠は、宿所の妙覚寺を出て本能寺に向かった。
ところが圧倒的多数の明智勢に阻まれ、本能寺には行けず、近くの二条御所に入って防戦することになった。
しかし、多勢に無勢で、信忠も自刃した、、。
そして信長、信忠ともに遺体はおろか首すらも発見できなかった。それまでに火を放たれていたということ
しかしこの時代に”火を放って、焼骨すら発見できなかった(あるいは身元を特定出来なかった)となると一体、どれぐらいの火力なのかと思う。焼骨の融点は約1600℃。ちなみに鉄の融点は1,538°C。
イエズス会年報
”或人は彼が切腹したと言い、他の人は宮殿に火を放って死んだと言う。しかし、我等の知り得たところは、諸人がその声でなく、その名を聞いたのみで戦慄した人が、毛髪も残らず塵と灰に帰したことである”
秀吉は信長の遺骸がないため、苦肉の策として信長の木像二体をつくり、一体を焼いて、その灰を遺骨代わりにしている。
当時の火災でこれほどまでの高温なのに、ほかの明智軍が全くの”無傷”だったのかしら?(ちなみに、この時の寺院内部の温度は1000~1600℃、溶鉱炉並み?)
もっと言うなら明智軍は”アルミ耐炎作業”並みの鎧を装備しないと
自分たちも燃えたはず説。
次に、寺そのものは”木造建築”だったはずであるが、木造住宅は鉄骨造よりも、火災に強いという性質があり木材は表面が燃えても、芯の部分まではなかなか燃えないってことですよね
では、そんな寺院内で信長、信忠の亡骸だけは、完全に”消失”したとなると
これは現代のミステリーの消失トリックよりも難易度が高いと思います
信長の家柄
信長のお父様が確か、織田信秀で官位が従五位下、弾正忠、備後守、三河守、贈従三位という公家とか貴族だったのではない?
その父、信秀が亡くなった時、仏前で信長が線香をばらまくという奇行に走って以来
信長は「うつけ者」と言われたっぽいらしいです
光秀と将軍家
足利義輝・・・室町幕府の第13代征夷大将軍(朝廷の令外官の一つ)
足利義昭・・・室町幕府第15代征夷大将軍
朝廷に仕えていた光秀は、あるきっかけで(たぶん、二見城?)信長と謁見して
その信長に気に入られ、以後、信長の家臣となりました。
因みに、光秀は嫁さん居たけど、早くに亡くしてみたいで、何人かの子供はいるが
特に長男の”十兵衛”が気になりましたね。明智光慶ね。
明智光慶には光秀亡き後に死亡説と生存説があるが、私はこれが”天海”?とも思ったが、、。
因みに娘は”魔界転生”にも引用された”細川ガラシャ”です。
、、そしてここからが本番!
織田信忠
兄、信長(本能寺)とともに本能寺から600mほど離れた二条新御所で自刃。
ところが仕えてた主君は足利義昭!
朝廷です。
このときは信忠は右大臣になるならないの話を”誠仁親王”と話し合ってたぽく
朝廷は 好き勝手する信長の「うつけ者」より弟の信忠に期待していたのではないでしょうかね?
しかも信忠って、
”新陰流”の達人だったらしくて、朝廷からすると推しの子だったのかも。
だからこそ信長は本能寺の異変に気が付き、最初に発した言葉が
信忠の謀反を疑ったらしい言動であった。
しかし信長の側近の蘭丸は「光秀」だったと、、。
話は信忠に戻し
寺院が1000~1600℃の高温下(あくまでも火が付けられていた場合)で、
”誠仁親王”を逃した後、信忠自刃
灰になりましたと、、、
何かがおかしいと思いませんか?
ある話によれば、生前、信長にお世話になった、お坊さんが信長の首を持ち帰って
そのお坊さんの寺で供養したと。
しかし、光秀本人が、遺体が誰か判別できないほどの状態であったにも関わらず
そのお坊さんにはそれが信長だとどうしてわかったのかなって思ったわ。
なので、信長、信忠ともに生存説を考えたのだが、歴史に弱い私は頭が混乱しちゃいましたーーー!
では、この事件の黒幕は一体誰だったのか?
誰が一番得をしたのか?
事件の真相について、推理しよっと
ここでは真犯人は非常に巧妙なアリバイを使ってるんですよ
武田との戦で疲労していた家康は安土城を訪れ、その後信長の勧めで上方を遊覧し、
本能寺の変、当時は和泉国堺にあり、そこで信長死去の報せを受ける
この時の朝廷の”誠仁親王”は、本能寺の変の後、誠仁親王は譲位を待たずに、天正14年(1586年)7月24日に薨去してしまった。
あまりの突然の死であった。父親の正親町天皇はすでに当時としては高齢であり誠仁親王もいつ即位してもおかしくない年齢であった。
そして、次の天皇が後陽成天皇(私の小説でも引用した)。猪熊事件で江戸幕府による宮廷制御の強化、後陽成天皇の退位のきっかけともなった。
その五年後、大坂冬の陣、翌 夏の陣、豊臣家の滅亡。
光秀の死についても、はっきりしないっしょ?
通常、君主というか倒せば、誰が倒したか明白になることが多いよね
信長が、今川義元を倒したように、、。
ところが光秀は山崎の戦いの撤退時、名もわからない”農民”によって生涯を閉じているよね?
あの秀吉が、信長の仇と中国お返しの後、兵を挙げたが、それが”農民”であったと、、。
名もない農民がかたき討ち。
有耶無耶すぎる。
その後の天皇家への威圧。豊臣家の滅亡で目の上のこぶがなくなった人物、、、
、、、この黒幕こそ、私は本能寺の変の”真犯人”だと思いますね
天下統一で、まるで清算したかのようにすっきりした黒幕
ここからは極論
そもそも光秀は信忠とともに信長討伐を企てたのではないだろうか?
しかし何かの行き違いが生じ、うつけ者と言われていた主君の亡き信長を見た光秀は
自分が取り返しがつかない行為を及んでしまったことに
だからこそ光秀本人が、遺体が誰か判別できないほどの状態であったと言ったのでは?
主君を裏切った行為に罪悪感を感じたから
信長の首をお坊さんに渡したのではないか
罪滅ぼしになると
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