ただのお話
布団
鍵の話
朝、クラスで一番早く教室へ着いてしまう者ほど残念な人はいない。
特に、定期考査の期間などはその残念さが顕著に現れる。想像してみよう。あなたが珍しく、テスト勉強をするためにいつもより早く学校へ来たとする。もっと寝ていたいと渇望する自分の意思と体を奮い立たせ、着替えや朝食、果てには登校という高い障壁を乗り越えてあなたは教室の前へ着いた。
さあ、勉強を始めよう」と意気込み、教室の扉を開……かない。鍵がかかっていると認識すると同時に、長い階段を降りて職員室に行って教室の鍵を取り、さらにまた長い階段を上ってここに戻ってこなければならないという絶望が脳裏を掠める。終わりだ。自分の運命の悲しさを噛みしめながら階段を降りて職員室へ入る。そして、「〇年〇組の〇〇です。教室の鍵を借りに来ました。」というテンプレートの挨拶をして教室の鍵を取り、また階段を上って教室へ戻らなければならない。
これは私の実体験なのだけれども、教室の鍵を取りに行くまでで相当な労力を使う。しかし、それだけではない。肉体的な疲労は先ほど述べた通りだが、精神的にも疲れる。
例えば、階段で登ってくる人や事務員さんを避ける(疲れていたり邪魔だと思われてそう)ことや職員室に入るタイミング(先に待っている人は抜かせない)、職員室に入った時の挨拶にかなり脳みそのリソースを割かれる。
特に、挨拶は大変である。あれはテンプレと言ったが、声のボリュームや明瞭さ、目線などを考えなければならず、ましてや関係の深い先生と挨拶の真っ最中に目と目が合ってしまった時には頭の情報の処理量を超え、なぜだかわからないが全てのことがマイナスになり、自分の言動一つ一つを後悔することとなる。人生がかかった受験や就職の面接でもないのに大変なのだ。
そして、挨拶を終えて 鍵を取り、再びあの階段を上るとなるとこれがまた非常に疲れる。私が一年生だった頃は教室が校舎で一番高い四階にあった。階段四階を一往復ならまだ体力は持つにしても、二往復目の登りとなるとかなり疲れが出てくる。さらに、学校に来るまでに『登校』という自転車で三十分ほどの運動を済ませているのでだいぶ体力は削られている。
しかし、どれだけ過酷だとしても登らなければならない。登らなければ何も始まらない。現実は非情だ。
そうして諦めに近い感情を抱きながらなんとか階段を登り切ると、二人か三人かのクラスメイトと遭遇し、私の思考回路は加速する。「あっ、待ってる。速く行って鍵開けないと」「いや、疲れたから急ぐのは無理だ。そもそも急ぐのであれば自分で取りに行けばよいではないか」「そんな言い方はないだろ。自己中だ」「それにしても疲れた。何勉強しようか」「やっぱ勉強するの面倒くさい」「あ、ありがとうって言われた。なるほど。うん」などと一瞬にしてこれらが頭の中を駆け巡る。
そして、教室へ入って荷物を置き、ふぅ……と一息つくのも束の間、鍵を返さなければならないという義務が残っていることに気づく。
端的に言おう。嫌である。とてつもなく嫌である。これ以上の嫌なことなどないと思うほど嫌なのだ。またあの長い階段を降りて職員室に入り、鍵を返して、今日何度目かわからないあの階段を登るのだ。考えることすら嫌である。
それだけではない。私は鍵を返さなければならないが、クラスメイトは教室へ入って準備さえ終えればノータイムで勉強に移行できるのである。これが大変羨ましく悔しい。鍵を返して戻ってきた時に目に入るスマホを触っている連中が憎くて仕方がない。だが、私も人のことはあまり言えないので心の中で許している。
そうして波乱の鍵の返却を終えて教室へ戻ると、これまでの苦労を思い返す間もなくテスト勉強の時間である。悲しいものだ。
一番最初に教室へ着いた者がこの鍵の犠牲者となる。その者はどうあがいても時間をロスしてしまうのだ。私と違ってそのまま教室へ残ろうとすると、いつ二番手が来るかわからない状況で永遠にも感じられる虚無の時間を過ごさなければならない。そして、時が経ち、二番手がきても鍵を持っている保証はない。その状態で単語帳などで勉強しようにも、クラスメイトと遭遇した際になぜ鍵を持っていないかと冷たい視線を浴びせられる恐れがある。これらは大変恐ろしい。けれども、私と同じように鍵を取りに行くと時間をロスし、体力も削られ、集中力も持っていかれる。
「楽をしてリスクのある賭けをする」か「苦労して堅実に損をする」。犠牲者はこの二択を選ばなければならない。理不尽である。
一応、私はこれまで話した通り「堅実に損をする」タイプだが、これは断じて感謝されるためにやっているのではない。あくまで「自分で取りに行ったほうが早く終わる」という思考に陥ってしまっているからである。そもそも、教室の鍵がどうたらこうたらと書いているのは、一言で言うと私がせっかちだからである。どれほど私がせっかちか語ろうとするとここから新たな話が生まれてしまうので割愛するが、ただ一つ、伝えたいことがある。それは、私のような人のために鍵を返していただきたい。ただそれだけである。
布団
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