まじない・博士・明かり

冬野原油

三題噺7日目 愛着形成失敗!

 博士の手からマグカップがすり抜け、床にたたきつけられ粉々に割れる少し前に僕は慌てて手を伸ばし、拾い上げて「セーフ!」と言った。

「今、なんと?」

 僕のナイスな動きには目もくれず、呆然としたまま博士が問う。そんな博士の手にマグを握らせ、その上から僕の手で柔らかく包む。

「うん。僕に『死んでもいいよ』って言ってほしいな」

 博士の手が再び脱力したのでこれ以上マグを持ったままでいさせるのは危険であると判断し、固まった指をほどかせ、机に置いた。コーヒーの暗い波が何度か揺れた。博士は笑っていなくて、だけど緊張のせいか口角が痙攣し笑っているように見えた。

「なぜ?」

「そりゃ、生きていたくないからだよ博士!」

 明るく言ってみたけれど逆効果だったみたいだ。博士の目にはみるみるうちに涙が浮かび、だらしなく垂れていく。

「っぁ、え、なん、そんな、え、え、じゃ、じゃあ! じゃあ勝手に死ねばいいだろう! なぜそれを私が許可しなくちゃいけない? なぜそんなことを私に求める? なぜ死ぬんだ! なぜ死にたい! いや、いや、すまない、ごめん、そうだ、なにか理由があるのなら教えてほしい。全て叶えることは内容によっちゃできないかもしれないが、いや、いいや! なんでも解決してやるから! だって、だってお前は私が作ったんだから!」

 予想とほぼ変わらない内容を博士は吐いた。呼吸が荒く、顔を大きくゆがめている。涙を流せることが羨ましい。そうやって、怒りをあらわにできることが羨ましい。僕は胸のあたりに大きな塊がせりあがってくるのを感じた。これが罪悪感であることを僕はとてもよく知っている。博士が僕に植え付けてくれた、二つの感情のうちの一つ。

「ごめんね博士」

「謝るな! どうしたんだ? 理由を、話を聞かせてくれ!」

「話すことはないよ、博士。僕に『死んでもいい』って言ってほしい、これ以外のお願いはないよ。あ、できれば笑顔で言ってほしいな」

 なぜ、と言いながら僕に縋り付こうと一歩前に踏み出す博士の様子を見て、僕は同じくらい後ろに身を引く。空を切った両手が虚しい。

「話すことはないよ」

 もう一度繰り返す。自分でもこの決心がいつまで保てるかわからない。早くしてほしい。苛立つと同時に僕は僕のことが心の底から嫌になる。自分が脆いことを知って、生きる支えとするために僕を作った弱くてとてもかわいそうな博士。彼のために生きてくれる仕組みに一番必要な機能が責任感だ。本当に本当に嫌な機能。

「話すことはないよ、博士」

「私を信用してくれないのか!?」

「うん。残念だったね。だから、」

 話すことはない、と何度でも繰り返す。博士が諦めてくれるのを待つ。別に博士の許可がなくたって死ねる。これは僕のわがままだ。だけど博士には諦めてほしい、後悔してほしい、苦しんでほしい。たぶん無理だろうなとは思う。博士は折れない、僕に死んでもいいなんて言えるほど強くない。だから僕がいるし、だから僕は死にたいのだ。

 いやだ、と小さくつぶやいて動かなくなった博士を見る。本当に仕方のない人だ。せめて暗いところで泣くことのないようにと、明かりを点けてから部屋を出る。それから僕はありったけの力を込めて、自分の頭を両腕で捻る。


 体の中で鳴る音ってほかより大きく聞こえるんだな、と思ったのが僕の最後だ。

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まじない・博士・明かり 冬野原油 @tohnogenyu

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