星の子たちの

@QuantumQuill

前編「極めて白い雲」

それは遠い遠い何処かの話……


少年はようやく目を開ける。

少年が昨晩床に就いたのは、25時のごく浅い、夜の始まり。次に目を開けるとき、少年は当たり前に床に就いた時と同じ天井を見るはずだった。しかし、今、少年の目に写しだされる情景は、まったくそうではない。眼前に広がるのは、漆黒の空。だが我々が毎晩見る、ほのかな月明かりが照らす暗い紺色の夜空とは異なる。少年が見ているのは本当の「黒」。まさに色味のないモノクロの世界だ。

加えて、どうやら光の具合もおかしい。空には、羊雲が浮かんでいた。それも、極めて白い。大地は一切の黒を湛えていて、光源は見当たらない。しかし、そういう黒い世界の中で、唯一雲だけが純白で存在感を放つ。羊雲たちはその輝きを抱え、一列に並んで、地平線に淡々と向かっている。

地平線を果てまで辿っても、人影は見当たらない。建物もひとつもない。建物がないから、全くの音も反響していない。ただ、静寂だけが大地を闊歩している。見知らぬ荒野に、少年一人だけがいる。

そんな景色を目の当たりにし、少年は真っ先にこう考える。


夢ではないか?


至極全うである。少年が今目にしているような不可思議な世界は、普通に生活していれば、夢の中でしか遭遇しえない。しかし、少年は彼が目撃していることを「夢である」と断言できる確たる根拠を持ち合わせていない。それに、少年が自分の頬をつねってみたり叩いてみたりするが、この「夢もどき」が覚める気配がしないことも、少年が夢かどうかを精査することの無意味さを示している。少なくとも、少年が懸念するべきは、「夢かどうか」ではなく「これからどうするか」だった。少年が無意味にその場でのたうち回っても、少年が昨晩とまた同じ天井を見られそうもないのは少年自身が最もよくわかっていた。


少年は、よっと腰を立て直す。長く眠っていたのだろう。腰は小さく悲鳴をあげる。

立ち上がることで、視点が高くなり、より大地の心細さが際立った。本当に何もない。しかし、少年は進まねばならない。

少年はある一方を目標に、歩き始めた。

少年は歩き続けた。足を止めてはならなかった。何か大切なものを失う気がした。

淡白な景色は変わらない。

少年は、次第に孤独に歩き続けることが怖くなって、目をそっと閉じる。閉じる前に見ていた黒い景色と、閉じた後に見えるものはさほど変わらない。しかし確かに安心が存在する。

少年は足の感覚だけで進む。無機的な感覚だけが足の裏に残る。ただ無機的なモノを覚えるだけ。だがまなこの裏の安心だけが、歩き続けるための強固な糧となる。


ふと、風が耳元を走った気がして、少年はようやく目を開ける。

広がる光景は、黒い荒野。しかし、遠くの丘の上に、ぽつんと建物があるのが見えた。少年は、希望を以てその建物を目指す。


近くから見ると、建物も大地と同じく有機的ではない。色は白色。形は、八つの頂点を持つ直方体型——いわゆる豆腐型の家である。壁には「田」の形の窓がひとつ、その隣にあっさりした内開きのドアがあるだけだ。ドアに至るまでに、30平方メートルほどの庭がある。庭に緑はない。庭からドアまで、直線的な道が掛かっている。

人気ひとけは無い。


少年は庭の道をゆき、扉に手を掛ける。途端、遠くから空気を割く乱暴な音がした。それは少年がこの世界に来てから聞いたこともないような爆音だった。少年は非常に驚く。もしや不法に侵入しようとした自分への天罰ではと考えて、目を瞑る。次第にその爆音は静まり、少年が目を開けると、そこにはバイクがあった。バイクの尻にはプロペラがついていた。どうやら、そのバイクが爆音を出して飛んできたようだった。

バイクから人が降り、少年を見下ろす。背が高い。2メートル以上はあるだろう。その割に体は細い。少年は息を飲む。彼らの間で静寂が増幅される。今世界で、動いているのは空に浮かぶ羊雲だけなんじゃないかと思った。

バイクの人が少年のあごに手をやり、俯いた顔を上げさせる。

「君は知らない人みたい」

声はとても優しかった。激流の中の淀みのように、荒れ狂う心をぬくもりで包んでくれるようだった。

彼の顔もこの時初めて見た。彼はハイライトがない暗い目をしていた。しかし、それは放任主義のようでもあって、彼なりの優しさの在りようみたいだった。

「君が客であってもなくても、今は関係ない。ひとまず入りたまえ」

と彼は少年の先をゆき、ドアを開ける。


少年は彼の家に入る。彼の家もまた、外形通り淡白だった。白い部屋に、白いテーブル、白いキッチン、白いベッド。白い棚に白い植物が添えられている。

「そこに掛けて、待っていて」

と部屋の中心の白いテーブルを指差される。

少年は言われるがまま、座る。バイクの人はキッチンで、鍋を使って湯を沸かし始めた。

沈黙の時間が過ぎる。


「こんなあやしい人間をやすやす受け入れていいんですか」

少年は激しい動悸をしながら問う。口の筋肉はぎこちなく固まったままだ。

「それはこれから尋ねること」

そう言い終えると、バイクの人はキッチンを後にし、ふたつのティーカップを持ってテーブルに座る。少年と彼は正面から相対する。少年はティーカップの片方を差し出される。

「シリカの茶と言うんだ。ほら、そこの」

白い棚の白い植物を指す。

「あの実を煎って作られる。毒じゃない。君とは団らんを築きたいんだ」

「団らん?」

「腹の内を探り合うようなことはしたくない。私も君を追い出す気はない。二個体が同時に同位置にいることは珍しいんだ。私はこの時間を大切にしたい」

彼は続ける。

「君のことが知りたいな」

彼は少しの笑みで少年に訴えかける。少年はまんざらでもない。

さっきまで孤独に歩き続けていた冷笑主義の荒野と対比して、今少年が居る無機的な家は、シリカ茶のクセのある湯気で包まれていた。鍋の中の水はまだ熱をもって、小さくふつふつと音楽を奏でる。少年はその音楽を聴いて少しうれしくなっていた。それをじっくりかみしめて、かみしめた上でようやく口を開く。

「僕は……」

少年は、自分がこの黒く、乾き、静寂の世界とは別の世界からやってきたこと。そのわけは分からないこと。前の世界では、「学生」という身分で、「学校」という施設に通っていたこと。少年の趣味が勉学であることを語った。その間、バイクの人は飽きたような曇り顔ひとつせずに少年の言葉を聞く。部屋の中は陽だまりのような言葉で満ちていた。語り終えるころには、シリカ茶はティーカップの中に半分残って冷めきっていた。

「ほうほう、じつに楽しげな生活だ。仲間と毎日語り合えるのは、まるで想像できないなあ。私たちは個体数が少ないから。私も君みたいな他人に囲まれた生活がしてみたくなった」

彼はにこりと、首を傾けて笑う。

「お兄さんは、どこで生まれたんですか」

「お兄さんじゃない。セググと言う」

セググは席を立ち、二人分のティーカップをキッチンに持って行った。ティーカップに残っていたシリカ茶を捨て、逆さに干した。その動作をするための、カン、カンという無機的な衝突音が、少年の返答を待つ心を焦らし、期待させる。セググはキッチンの上の棚を開け、小さな紙の箱を取り出す。

彼はテーブルに戻ってくると、その箱を開ける。箱の中には煙草が入っている。

「シリカ葉巻だ。シリカの葉が使われている。私たちを眠りから遠ざけ、鋭い集中と共にさせるだろう。宵のただ中だが、私は君とまだ話したい」

この暗い何もない世界にも、夜はあるのか、と思った。少年の身近な「夜」とはまた違うかもしれないが、確かに今は夜らしい。少年は眠気があるように思えた。

少年は煙草に火を点ける。ほうっと青い火がついて、薄青い煙が上がる。この最中、セググは語り続ける。

「夜、とは眠気を伴う時だ。私たちは太古の先祖から、意味のない眠気にさいなまれてきた……。

しかし、少し前私が開発したこの画期的な『シリカ葉巻』なら……。

さて、君ももう少し語らえるかな」

部屋は薄青い煙で満ちていた。だが悪い感じはしない。冴えた感じ。眠気は去って、まだ話を聞ける。

「君の質問は何だったかな」

「セググさんが、生まれたところ。セググさんは、僕と違うところがあります」

ああそうだ、と彼は言う。

「私たちは『星の子』だ。星とは、私たちを産み落とすとされる目に見えない神様のことだ。彼はあの黒い空の果てにいると言われている。そして時に羊雲から私たちを眺めているそうだよ。私たちはある時、空の果てから流れ星として落ち……」


セググは彼の出生とこれまでについて語り続けた。彼は背が高いが、生まれてからちょうど六年しか経っていないそうだ。出生のみならず人生まで言及してしまうから、彼は見かけによらずおしゃべりに見えた。

彼のおしゃべりが続く一方で、少年は眠くならない。それは非常に違和感があって、気持ち悪かった。

「セググさん、僕寝たいです」

セググはきょとんとした表情をした。

「あらまあ。じゃあ、煙を抜くね。付き合わせてごめんね」

そう言ったのち、セググは窓を開ける。薄青い煙は黒い空に抜けていく。彼はシリカの葉巻をキッチンの棚に片付ける。その間、少年はだんだん眠気を取り戻す。セググは「ベッドは使っていいよ。私寝ないから」と言う。少年はベッドに上り、「今日はありがとうございました。楽しかったです。もしいいなら、元の世界に戻れるまで居候してもいいですか」と言った。セググは何も言わず、少年の方を向いてほほ笑んだ。




翌朝、少年は重い体を上げる。おそらく、慣れないシリカの何かしらの成分がたったのだろう。だが悪い感じはしない。

朝と言っても、太陽が地平線から昇った後のことを言うのではない。昨晩セググが語ったように、朝と夜は睡眠を基準にしている。眠くなるころから夜で、眠りから覚める頃が朝。だから、景色は昨晩と何ら変わりない。

ベッドを降りる。セググはどこかに出かけていていない。部屋にはシリカ茶のクセがあり、芳しい匂いが立ち込める。どうやらセググは最近までこの家にいたらしい。白いテーブルの上には、メモが置いてあった。メモにはシリカ茶の作り方が書いてあった。

少年はメモの通りにシリカの実を煎って、湯を通して、茶を作った。白いテーブルに腰かけ、窓の外を見つめながらシリカ茶を、朝のコーヒー代わりに喉に流し込む。沸かしたての茶は、とても熱く、喉の管を下っていく様子がまじまじと感じられた。

ふと、外に出たくなる。少年は飲みかけのティーカップを持って内開きのドアを開ける。外に見えるものは何もない。庭にも草は映えていない。全てが直線で構成されたような、無機質で、面白みがなく、淡々とした世界。音がない世界。ただ白い雲だけが地平線に進んでいる。


ティーカップが空になるころ、かの爆音を鳴らして、セググが戻ってくる。セググは庭の前でバイクを停める。少年は咄嗟のことに驚いて、ティーカップを落としそうになる。その様子を見てセググは言う。

「おや、楽しげではないようだ。離れていてごめんね。定期的にツーリングに行くのが通例なんだ」

「いや、そうじゃありません」

「ではどうしてそんな悲しそうな顔をしているんだい」

少年は落としかけたティーカップを握りなおして返答する。

「ここは学校に似ているんです」

「学校?昨晩、学校は他者に囲まれて、にぎやかで、楽しいところと聞いたが」

「ええ。その通りです。友達と遊ぶときは本当に幸せです。でも、この暗く、閑散とした世界いることと、学校の中で過ごすことは、共通点がある気がするんです。その正体は分からないけども」

セググは黙りこむ。その2メートルを超える高い背で、まるで鉄塔のように微動だにせず黙る。少年もその存在感に圧迫されてそれ以上声を出せない。少年の目尻を汗が流れたような気がしたとき、セググは遂に柔らかい表情を取り戻す。

「じゃあピクニックに行こう。遠くに砂丘がある」


少年はセググの使っている爆音のバイクに乗せてもらって砂丘に向かった。エンジンを鳴らすとバイクは粉塵を上げて飛びあがり、地面は遠く下に送られる。少年は慣れない居心地に、セググの腰を掴み続けていた。

バイクが飛行機のように空を飛ぶ。僕らが知っているバイクよりもずっと早く。二度聞いた空気を割く爆音は意外にも感じられない。出発地点だったセググの直方体型の家は、二次関数的に存在感を失っていく。少年はその小さくなりゆく白い建物を眺め続ける。セググは運転に集中して話さない。


少年が、セググの家が地平線に沈むのを目撃するのと同時くらいに、バイクは速度を落とし始め、音を大きくして着陸した。

砂丘は、少年に故郷の面影を想起させた。少年の故郷たる地球において、この黒い荒野と様相が似る環境は、砂丘や砂漠、サバンナほどである。少年はさっきと地面の質と起伏くらいしか変わらない光景ではあるものの、強烈なノスタルジーを感じた。

セググはバイクを降り、どことなく白いシートを取り出し、地面に敷く。またどことなく皿を出し、置く。さらにどことなくクッキー菓子を取り出し、皿に移す。その動作は淡々と、しかし確実に行われる。指使いはひどく手慣れたものだ。

「シリカ菓子だ」

セググは言う。シリカ製品はこれで三種目だ。茶に、葉巻、そして菓子。他の素材はないのだろうか。

「セググさんは、本当にシリカが好きなんですね」

「そう見えるか」

「ええ、本当に」

「実は友人が栽培しているのを融通してもらっている。家にあるやつだけじゃあここまでたくさん作れないだろう。彼とも長らく合っていないが」

セググは呟く。その声は砂丘の遠く遠く果ての方まで伸びていって、消える。反響はしない。ただ一方通行の音の波。

ふと、音が聞こえる。空飛ぶバイクの空気を割く排気音。砂丘の一方通行の音の波の仕組みのせいで、より鋭く聞こえる。音の先からは、やはりバイクが飛んできていた。音から察するに既に着陸姿勢に入っている。バイクはセググのものより大振りで、たくさんのアタッチメントが付いている。

そのバイクの操縦士は身を乗りだしてこちらに手を振っている。加えて何か話しているようだ。「おー……」、「おー……い」

「おーい!セググー!」

セググの名を呼ぶ彼は、バイクが地面に付くのが待ちきれずに、途中で飛び降りてこちらに駆けてくる。大柄だ。セググと同じく背丈は2メートルは超えている。服飾はいわゆるストリートな感じで、隙間が多そうだ。髪は真ん中で二つに分けられていて、やや長い。彼が近づくたび、彼の声は大きくなる。

「噂をすれば」

セググは言う。どうやら彼がセググにシリカを融通しているという友人のようだ。

「セググ!そいつは誰だ?前はいなかったろ。気になって寄り道しちまったよ」

「この少年はこの世界に流れ着いてきた、別の世界の者だよ。帰りたがっている」

少年は初対面の相手に、言葉を発せず小さく頷くだけである。友人はそれまで少年の方を向いていたのを、セググの方に変えて、右手で頭をぽりぽり掻く。

「って言っても、俺は何の助けにもならねえぞ」

「知っていてくれるだけでいいよ。私の家に居候している。用があれば来ると良い」

友人は理解しているようなしていないような顔で頷く。

友人はその後すぐ去ってしまった。彼は家に帰る途中だったそうだ。昔馴染みのセググを見かけたのと、そのセググが見知らぬものと一緒にいるのを見かけて寄ってきたらしい。彼は荷物も降ろさずにまたバイクに跨ると、慣れた手つきで動力を入れた。バイクは大きな音を立てて起動する。バイクが浮き上がり、去り際に、彼は

「あと、俺の名前はギヌイっていうんだ。仲良く頼む、少年!」

と言った。


彼のバイクの音が無くなって、少年はようやく緊張から解き放たれる。体の筋肉がほぐれて、やっと深く座れた。少年は正直ギヌイのことが嫌いだった。知性がなさそうな言動が特に。

「どうしてギヌイさんと友人になったんですか。セググさんと対局にありそうな人なのに」

少年は問う。セググは一息つく。

「ギヌイと私は生まれてからの友だ。私が生まれた年と同じ年に生まれたのは、ギヌイと、あとほんの少ししかいなかったからね。加えて、私とギヌイは同日に生まれたんだ。何かしら星から共通したものをもらったんだろう」

少年は「ふーん」と相槌を打つ。


少年とセググはシリカ菓子の皿を間に挟んで、食べている。そこに言葉の交流はない。起伏とモノクロだけの砂丘に似つかわしい、極限まで省略されたコミュニケーション。互いが菓子を取ろうと手を伸ばし、その時歌詞が皿の淵に当たるその音だけが、ある一定のリズムのように砂丘に渡る。

少年は砂丘の果てまでの景色——ノスタルジーの象徴を見つめている。

少年は口からシリカ菓子が無くなる。次を取ろうと皿に手を伸ばす。しかし、菓子が皿の淵と擦れる音ではなく、爪と皿がぶつかる音が流れる。これまでのリズムを崩すようなその音は、二人の間に強く残る。



「少年」

呼ばれる。

「ここに来たのは、少年の悲しげな表情を治すためだよ。君は無意識に、この黒い世界に居ることと、元居た学校での生活に共通点を見出している。君が元居た世界に戻っても、君に十分な幸福は訪れないだろう。その不安を払拭してやりたい。君が見た共通点とは何だい」

セググの声が、耳の淵を優しくなぞって、奥の方へ流れ込んでいく。その声色の潮流は、道なりに、奥へ奥へ進み、僕の内耳へ侵攻する。内耳の中のの殻を沿って進み、やがて脳裏に到達する。彼の優しい声のメロディはじっくりと僕の脳をひたしていく。太平洋の、清いサンゴ礁の海に抱かれている感じ。その魔力のようなものは、僕に忘れかけていた記憶を思い出させようとする。それは黒い世界と学校生活の共通点を示すものであろう。

僕は遠くの景色を見る。起伏とモノクロだけの砂丘。白い雲が進んでいる。小さい風の音が聞こえる。ノスタルジーの正体は……

ああ、そうだ。僕はかつて、同じような砂丘に友人と一緒に来たことがある。


灼熱の太陽が穿つように照り付けるころ。僕らはようやく直前の林を駆け抜けて、目的の砂丘に出る。どこまでも黄色く、触れているか分からないほど繊細な砂。それは烈日を受け入れて熱を孕んでいる。遠くから塩気のある海風が吹いてきて、僕らの進行を阻む。僕らは汗まみれだった。でも止まらない。果てまで続く起伏の連続は、僕らに無限大の冒険の可能性を想起させた。

僕らは砂丘の中腹まで走って、休憩し、また立ち上がる。そして鬼ごっこをすることになる。僕は普通の逃げ役だった。僕はカウントが終わるまでに、ありったけ逃げる。丘をひとつ超え、鬼が見えなくなるところで、カウントが終わる。しかし鬼は僕を追ってこないようだ。僕はまだ離れる。さらに丘をひとつ、ふたつと越えていって、遠くで走り回る仲間たちの姿が胡麻のように小さくなった。彼らの声も、海風にかき消されて聞こえない。

ふと、僕は足元の違和感に気付く。他に比べて固い。僕は問答なしに腕を、砂の中に突っ込む。やはり、障害がある。金属のようで、しかし熱のせいで冷たくはない。僕はその可能性に取りつかれて、ひたすら砂を掘り続ける。鬼ごっこなんて忘れていた。

僕はようやくそれを掘り出す。古い時代の缶ジュースだった。客観的に大したものではないけれど、僕にはそれがコロンブスの財宝に見えた。

そこで鬼ごっこのことを思い出す。僕は渡ってきた丘を戻り、みんなを探す。二つ目の丘の上から、ようやく他の仲間が見えた。しかし、彼らは既に鬼ごっこを終えて、集まって涼んでいた。

ひたむきに鬼から逃げて、ひたむきに採掘を努力した僕は誰からも見つからなかった。


ある時、学校に定期テストの頃がやってくる。僕と仲間は、その話題に移る。仲間は課題の量に嘆いたりする。あるいは勉強内容が難しくて音を上げたりする。そういうわけで僕たちは勉強会を開く。ある友人宅に集まって、ひとつの机を囲み、持参したテキストをやる、というものだ。僕は勉強が趣味だ。高校で買う教科書だけでなく、他の参考書以外の本も読んだ。だから僕はこういう勉強会は必ず呼ばれる。

僕にはよく質問が飛んできた。この歴史的事項はなぜこの並びなのかとか、この数学的記号は何を表すのかとか。その質問に答えることは楽しかった。仲間たちも興味深く聞いてくれた。しかし、例えば数学的記号の役割を説明するときに、受験の範疇を超えたことを話したくなる。というか、僕自身高校範囲を超えて学んだことで理解が深まったから話したいのだ。しかし、仲間たちに高校範囲を超えたことを懇切丁寧に伝えようとすると、かれらは「受験に使わないから」と聞くのを止める。あるいは「難しすぎる」と聞く努力をしない。だから僕は彼らに合わせて、話したい気持ちをいつも抑える。

僕の勉学の外向性を、周りが受け入れることはない。



「セググさん」

少年はゆっくり立ち上がる。セググは、彼の目線よりも高くなった少年の顔を下から見上げる。

セググも立ち上がる。彼の高い背丈は、安定を象徴している。

「少し歩こうか」


少年とセググは砂丘を歩く。微細な砂の悠然なる大河。時に少年は足を取られそうになるが、セググの手助けなしに持ち直すことができる。

「学校の仲間とバカ騒ぎするのはとても幸福です」

セググは静かに耳を傾ける。

「でもそれ以上に、他と比べて異常な勉学者としての僕の成分が、僕に居心地の悪さを訴え続けていたんです」

少年は砂丘を進む。どうしてだか分からないが、少年はただ歩きたい気分だった。それから先、何も口にしない。少年は言いたいことを言い尽くした。ただ歩き、歩く。セググはそれをすぐ後ろから追う。

ふとある時、少年が足を止める。風の雰囲気が変わった気がした。肌を突くような冷たさを抱えていた風は、やや温もりを持ち始めていた。

「この無の象徴のような荒野にも、季節は巡るんですね」

「『年』という単位は季節の感覚がないと生まれない。君はもっと早く季節の存在に気付くべきだったね」

少年は手を口に添えて、ははっと笑う。

「大気温度が変わるという意味としての季節が存在するなら、あの黒い空のどこかに熱源があって、この大地はそれに対して公転運動をしているんでしょうか。それともこの荒野は大地が温まるシステムを持っている?少なくとも、地球では前者の通りでした。太陽があって、地球が回って……

セググさんはどう思います?」

セググはしばらく考えこむように黙る。その後、彼の麗らかな声色と優しい表情で

「そうだね。どうだろうか。もっと詳しく知りたいな」

と言う。

風はどんどん温もりを増していく。もうじき『冬』が明ける。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る