白昼夢

笹護翁

夏の記憶

 蒸し暑く夏だった。


 蝉がシュイシュイと鳴いていて、勉学に勤しむ学生の思考の邪魔をするように頭の中を埋め尽くす。もっとっも、俺は蝉が邪魔と思うほど勉強なんてしないのだが。

 たっぷり水分を含んだ重ったるい風が走る俺の肺に余計な水分を持ち込むせいで、すぐに息が上がってしまって、足におもりでもついてる気分だ。


 遊んでいたら、学校の備品を壊した。それだけの事。だが偶然にも、学校で一番恐ろしいとされる体育科の國塚先生――通称・鬼塚 に壊した瞬間を見られたせいで、俺は今、現在進行形で追われている。

 体育科教師なのは伊達じゃなくて、俺がどれだけ逃げても追いかけてくる。ふつうは俺が逃げ出した時点で諦める。だが鬼塚は違う。地獄の鬼のごとく、どこまでも追ってくるのだ。


 本物の鬼に追われている気分で必死になりながら逃げ込んだ旧校舎の裏。学校の敷地を他の敷地とを分けるフェンスの外に通る国道からは車の騒音が永遠と鳴っていた。


 旧校舎とフェンスの間の小さな空間には木が一本生えているだけの草木が伸び荒れた空き地だ。蝉の音と車のエンジン音が相まって耳を狂わせ、人から考える力を奪い、今すぐこの場から立ち去れと急かすような五月蠅さだった。


 だがこの場から去れば鬼塚に捕まる。五月の蠅のような煩わしさをかねつつ、下手なバンドの無駄に長いライブのような気分が悪くなる雑音と、花火が爆ぜる音が連続でなっているかのような耳の鼓膜を穿つ刺激音からなる騒音。耳をそらそうにもそらせない、最悪な蝉のライブ会場がそこにあった。


 俺は荒い息をまき散らしながらシャツをまくり上げて汗を拭き、校舎の小さな陰に座り込む。太陽が真上にある白日には影もなければ陽だまりもない。太陽の強すぎる日差しのせいで、辺りの色が褪せて白くみえる。

 拭き損ねた額の汗が眦の横を通って頬を伝い、やがて顎まで到達すると、もったいぶるように雫を作って、間もなく地面のアスファルトの上に落ちて丸い跡をつくった。だが次の瞬間にはその跡は蒸発して消え、鼠色の跡は薄灰色のアスファルトの色に戻った。あたりが白くて、汗の消え方もあまりに早すぎるせいで、時でも止まっているかのように錯覚する。


 まるで白昼の悪夢のようだ。


「もしかして、鬼塚から逃げてるの?」


 背後から声がした。


「なっ、はっ、だ!?…れ――だ?」

「あはっ、驚きすぎ。呂律回ってないじゃん」


 声とともに突然つむじを指でうりうりと押される感覚がして、俺は反射的に頭を押さえて振り返る。後ろは壁だ。壁が喋るわけがない。

 視線をずらしていくと、斜め上には窓がある。新校舎と違ってすぐに破れてしまいそうな薄さで、埃などの汚れに濁ったガラスが張られた窓が今日は開いていた。

 そしてそこから、きれいな顔の女子がくすくす笑いながら上半身を乗り出して窓のフレームに肩ひじを付き、俺の髪をいじりながらこちらを見ていた。


 例えるならば、それは花壇から外れた町中の通学路の道端で、コンクリートのひび割れた隙間から己を見ろと主張するように力強く咲く鮮色の花のように。

 または夜、濃紺色の空で夜闇を照らす月よりも、多くの写真家がレンズに収めたがる夏の天ノ川よりも、それに勝ることを自覚しているように黄金に大きく輝き誇る明けの明星のように。


 それはひどく目に焼き付いた。魅了されたとでもいうのだろうか?外の白を吸い込んでしまう黒曜石のように深みある黒の瞳は、鏡のように俺を映し出した。その俺の顔と言ったら、間抜けにもほどがある。


 蝉の声も車の音も煩わしいと思っていたものの全てが消えた。彼女以外に対する関心を失った。この世の全ての優先順位を覆し、あらゆる事象を凌駕する――心臓を穿つなにかが俺の目を、動きを、心を、全てを奪ったのだ。

 俺の中で時が止まった。滴る汗のみが唯一、現実の時の流れを示していた。


 一目惚れ。


 今思えば、それ、もしくはそれに近い現象が起きていたのかもしれない。だが、俺はそんな考えに至る余裕すらなかった。本当の恋では、恋を恋だと理解する前に始まるものなのだろう。


「匿ってあげよっか?」


 鈴を転がすような繊細な声の持ち主だった。肩を揺らしながらいたずらじみた無邪気な笑みを浮かべ、俺を窓から旧校舎へ招き入れた。



●●●

 


「ごめんねー、汚くて。ちょっと待ってて。たしかこの辺にソファーがあったはず――」


 埃臭く、四面の壁にそれぞれ段ボールが天井に付きそうなほどまで高く積まれている。もともとあまり大きくない部屋なようで、たった二人で狭いと思えるような空間だった。俺が入ってきた窓のガラスは白っぽく半透明で、暗い中と対比して外は眩しすぎて真っ白に見える。

 中に入ると外の騒音はぐんと小さくなった。遠く彼方で鳴っているような感じだ。校舎の中は暑いわけでもなく、過ごしやすい。古い校舎だが、新校舎以上に過ごしやすいかもしれない。


 これで冷たい飲み物があればよかったのだが、匿ってくれた恩人にそこまでは求めてない。


「座っていいよ」


 彼女は雑誌と段ボールに埋め尽くされていた二人掛けのソファーと、新校舎ではもう使われていない古いタイプの学習机二つを掘り起こして、俺にソファーに座るように促した。


 言われた通りソファーに腰掛けると、ボフッと腰が程よく沈むと同時に、埃が宙を舞った。


「お前…ゲホッ、掃除、しろよな!?」


 流石に、批判の言葉が出た。

 これはまるで廃墟に放置されていたソファーである。


「あはは、ごめんねー、掃除苦手でさぁ」

「笑い事かよ…」


 呆れる俺の首元からぷらんと垂れたネクタイを見て、彼女はあっ、と声を上げた。


「あれ、よく見たら先輩じゃん。めっちゃため口だった…今更だけど、センパイって呼びますね?」

「ああ、いいよ、タメ語で。君は――」

「私、2年」


 ネクタイで学年がわかる。1年は赤、2年は黄、3年は青。

 彼女はネクタイをしていないが、同級生に彼女を見たことはなかったから、後輩だとは思っていた。

 今年入った1年ですら、可愛い子は男子の間で噂が立っている。2年にこんなきれいな子がいればそんなふうに噂もあってよさそうだが、そんなものも聞いたことがなかった。だとすれば、クラスではそれほど目立ってないのかもしれない。


「センパイ?」

「お、おう」


 ズイッと彼女の顔が近づいてきて、俺は思わず半歩後ろに下がった。とてつもなく、距離が近い。急な出来事に俺は顔を赤に染めるのを必死に堪えた。俺が密かに心拍数を上げているうちに、彼女はまた荷物整理を始める。


「ここ部室なんだけど私以外誰も来ないから、気づいたらこうなっちゃってさー」


 早速タメ口で彼女はやれやれと大げさに頭を振りつつ語る。

 そう言えば、勝手に彼女の管理下にある部屋だと思い込んでいた。


「何部なんだ?」

「映画研究部。部員は私一人で、新入部員は絶賛募集中!」


 パチっとウインクして俺を見る。俺に入部するとでも言わせたいのだろうか。


「入らないからな」

「ちぇー。なら入らなくてもいいから遊びに来てよ。それで一緒に映画を見よう。一人は寂しいからさ」


 彼女の冷たい手が俺の頰に触れる。ひやりとした感覚に俺はビクリと肩を震わせる。


「ね?センパイ。お・ね・が・い」 

「うっ…」


 男女の身長差のベストは十二センチらしい。今、なぜそう言われるのかがわかった気がした。


 頭を撫でるにもハグするにも適していて、何より上目遣いが一番可愛く写る。彼女の、少し大きめの服も良い。彼シャツというのの良さとはこれか。とにかくあざとい。

 もともときれいな顔をしているし、これは相当可愛いかもしれない。あざとい女子はあまり好きじゃなかったが、彼女はあまりにも自然すぎた。

 あざとさというのは自分を可愛く盛るようなものだと思うが、彼女の場合はそれが素であるかのように感じられる。


「ま、まあ、遊びに来るのは全然…」

「やった!約束だよ?」

「はいはい」


 彼女は俺の横に詰めるように座ってくる。

 本当に距離が近い。異性を気にしないタイプの子なのかもしれないが、だとすればたちが悪い。俺はずっと平常心を保たなくてはならないのだから。ああ、俺だけが意識してるみたいで恥ずかしい。 



 しかし彼女の魅力はそれこそ底なし沼のようだった。

 わかりやすく例えるならば、エナジードリンクだ。一度飲んで効果が切れたとき、また飲みたくなってしまう。そしてその「もう一本」に手を出したら、お終いだ。飲む頻度は上がりだす。


 五日に一度、三日に一度、二日に一度――気づけば俺は、基本毎日ここに来るようになった。



 ●●●



「お前最近帰んの早くね?」 


 ホームルーム後。帰る支度をしているところに、よくつるむ友人が不思議そうに俺に詰め寄った。それに便乗してもう一人の友人もやって来る。


「それな?カラオケとかメシとか、ほぼ毎日誘ってきてたのに、最近全くじゃん」


 夏休みはまだ遠い。


 今年は特に暑くて、三十年に一度の猛暑らしい。毎年そんなことを言っているような気もするが、とにかく今年は一際暑いらしい。たしかに、まだ7月初旬なのに暑さは格別で、蝉がけたたましく鳴いている。


 彼女のところに通い始めてからすでに2週間ほど経っている。彼女と会ったのが6月末。7月に入ってさらに日差しは強くなるが、慣れてくればそれほど気にならない。

 ただ、あの蝉の音だけは慣れなかった。


 旧校舎周辺、特に旧校舎裏は蝉は独特でうるさい。種類が違うのか、場所がそういう場所なのか、そんなものはどうでもいいが、とにかくうるさかった。踏切音のような、あのけうるさいだけの鳴き声はどれだけ耳をそらそうとしても頭に響いた。

 最近は更にうるさくて、授業中にも遠くから聞こえてくる。そのせいで居眠りもできない。だが、旧校舎に入ってしまえば音は和らぐ。だから最近は授業が終われば逃げ込むように旧校舎に向かっていた。


 それが原因か、友人らから不思議がられていたらしい。


 俺はすいっと目線を彼らから鞄に移した。


「あー、わり。実は金欠でさー」

「ハハッ、なんだよ。でもお前らしいわ。なんか安心した」


 嘘を付く必要はない。でも、彼女のことは他の奴らには言いたくない。彼女は俺のもの、なんていう独占欲のようなものか。彼女は俺のものではないというのに。


 無造作に鞄を背負って教室を出ようとした時、誰もが恐れる怒声が教室、いや、3年の教室があるC棟全域に響き渡った。窓の外から、ジジッと音を立てて、蝉が飛び去る音がした。


「おい、お前らぁ!今日こそは逃さんぞ。B棟の窓ガラスを割ったのがお前らだってのは分かっている!!」


 正しく、ドラマの1カットのようなセリフをもって、『体育科』を体現したかのような教師――國塚が現れた。


 二人は俺を置いて一足先に逃げ出した。逃げ足は一流らしい。一方で逃げ遅れた俺の肩に、國塚の大きな手の重みがかかる。


「ようやく捕まえたぞ」

「も、もういいでしょ…」


 睨まれて、俺は冗談ですよ、と苦笑いで誤魔化しながらも小さく縮こまる。二週間も前のことに、どうしてここまで執着するのか。俺には分からない。


 ああ、早く彼女のもとへ行きたいのに。

 俺はため息をついて、鞄を机の上に置いた。


「どこ行くんですか?」

「職員室だ。片づけは終わってしまったから、せめて用務員の九尾山さんにはお礼を言いに行くぞ」


 國塚は『鬼塚』と言われて恐れられるが、こういう生徒に寄り添う姿勢は同時に多くの生徒から慕われている。だが俺にとっては迷惑でしかない。俺にとってはもう窓を壊したことも終わったことなのだから。


 それは俺のような人間は皆同じで、何かしでかしたら追いかけてくる國塚から必死に逃げるのは、みんなこれが嫌だからだ。


 廊下は当然冷房なんて効いているわけもなく、ムワンと息苦しい高温高湿度の空気が肺に流れ込み、肌から汗を絞り出す。だがいつものような煩わしい蝉の音はなく、ミンミンゼミが一匹、静かに鳴いているだけだった。


「そういえば、お前あの時どこへ逃げたんだ?旧校舎の裏に行ったのが見えたが、そこにお前はいなかったぞ」

「えっと、それは――――」


 ここで言えば、彼女も。俺は必死に言い訳を考える。いまだかつてないほどに頭が回っている自信があった。


 旧校舎に入ったって言ったら流石に――


「あれ…?」


 蝉が急にうるさくなった。頭の中をかき回されるようで気分が悪い。


「なんだ、どうした?大丈夫か?」


 黙り込む俺を、國塚が若干心配そうに見てきた。俺は慌てて、誤魔化すようにあっと声をあげた。


「あっ――そこって、木があるじゃないですか。あそこに登ってたんですよ!」

「猿か、お前…まあ、気をつけろよ」


 慌てて答えた俺を見て國塚は呆れるようにため息を付くと、俺の頭をガシガシ撫でた。せっかくセットした髪が台無しになってしまった。


「おっ、セミが鳴いてるな。今年は早いなぁ」

「はあ、そうですね」


 何を今更、と呆れつつ、俺は乱れた髪を指で梳いて直すことに試みる。女子が櫛を持ち歩く気持ちも分からないでもないかもしれない。


 いつの間にか煩わしい騒音は弱まり、セミは先ほどのように、一匹だけがミンミンミーと静かに鳴いていた。



●●●



「うっわ、ボサボサじゃん!どしたの?」


 用務員の九尾山さんに謝罪と感謝を述べ、いつもよりも1時間遅くに彼女のいる部室に向かった。

 彼女は変わらず俺を明るく出迎えた。


「鬼塚にやられたんだよ」

「あちゃー。それは大変だったね」


 彼女はそう言うが、楽しそうだった。髪は直したつもりだったが、ワックスをつけすぎていたせいで中々直らなかった。今度からはもう少し量を減らそうと反省する。

 それを横目に、彼女は棚に敷き詰められた古いディスクを漁りだした。


 彼女と出会って一週間ほどで、部室はすべて片付けた。

 お陰で部屋は二人いても狭いとも思わない程度のスペースが空いたし、風通しも良くなった。嬉しそうに目を輝かせた彼女のあの表情は、やった甲斐があったと満足できるものだった。


 一番苦労した挙げ句、掃除機を使って埃を吸い取るという荒業でなんとか使えるようになったソファー。それに二人並んで座り、映画鑑賞。それが、映画研究部の全容だった。


 映画でも作るものだと思っていたが、それを伝えると、人が少なすぎて無理だと笑われた。多分本当は、彼女も映画を作りたいのだろう。でも俺にできることは何もなかった。


 見る映画も彼女が選ぶ。俺はセンスもないし、何の映画があるのかも知らない。彼女が選ぶものは基本的に面白いから、任せたほうが賢いのだ。


「ねー、鬼塚の由来って知ってる?」


 その問いに、思わず興味を持ってしまった。彼女は目ざとく笑う。教えて、とは言っていないが、一人でに語りだす。


「昔はこの地域に『地獄境』っていう有名な不良グループがあったんだけど、それのリーダーが國塚だったの。下の名前の『菴茉アンリ』をもじって昔は『亜生高の閻魔』とか言われてたんだけど、なにがあったのか不良卒業どころか高校の教師になって帰ってきてさぁ」

「アンリ?」

「そうだよ。『菴』に、『茉』ね。誰かが間違えてエンマって読んだんだよ」


 彼女は近くの紙の切れ端に漢字を綴る。

 初めて見る漢字だ。エンマと読んだ奴は頭脳的にも面白さ的にも天才なんだろう。


「境目超えた者をどこまでも追ってくる当時の國塚を知ってる人が、生徒のためと言ってどこまでも追ってくる國塚を、ついに境目超えて追ってくるようになった狂鬼だと揶揄したのが始まりだよ」


 彼女は淡々と語るが、その内容はかなり熱いものだった。人に話せば、盛り上がりを見せること間違いなし。國塚が生徒時代からの話だとすると、少なくとも三十年は前である。誰も、國塚が元不良グループリーダーだったなど知らないだろう。


「それにしても、『地獄境』も『亜生の閻魔』も、絶妙なダサさが感じられる呼び名だな」


 ネットの掲示板のユーザー名にありそうだ。古き良きネーミングセンスともいえる。背景として、世のイケてる高校生の多くのボンタンを履いていたような時代が容易に思い浮かぶ。

 それに、國塚の下の名前が奄茉アンリというのも驚きだ。奄茉を『エンマ』と呼んだ奴は天才だろう。龍の字とか入っているイメージだった。かわいらしい、と言ったら、殺されるだろうか。


「え、そうかな?カッコいいと思うけど」

「マジか」


 感性とはやはり、人それぞれなのだろう。


「これ、人に話してもいいか?」

「別にいいよ。國塚に怒られても知らないけどね」

「そうなったらお前も道ずれだよ」

「ううん、センパイは私を売らないよ。ね?」


 まただ。初めて出会ったときと同じ。惹きつけられる思わせぶりな笑顔。

 年下の幼いかわいらしさに紛れて、俺よりもずっと年上であるかのように錯覚するような大人びて落ち着いた空気間。


 彼女は初めから距離が近かったこともあって最近は余計な遠慮もなくなり、話し上手な彼女とは会話が途切れることはない。だが、この手の話では俺は今もこの先も、彼女には勝てないのだろう。俺は悔しさと恥ずかしさ、そして彼女が俺を信頼してくれているという少しの喜びを胸に、こくりと頷いた。


「うん、そうだよね!」


 彼女は満足げに頷き返すと、また嬉々としてディスク漁りを再開する。


「見て、これ面白そうじゃない?これ見ようよ!」


 マイペースな彼女が羨ましい。


「お前が選ぶやつはなんでそんなに古いんだ?」


 見るからにホラー映画なのだが、かなり古めだ。パッケージを見れば、俺が生まれるよりも前に公開されたものであるのが分かる。


「そうかな?面白いと思うけど。逆にセンパイは何見るの?」

「俺は実写よりもアニメーション映画とかのほうが見るな」

「そうなんだ。なら、今度持ってきてよ」


 彼女はニカリと笑う。俺のセンスに自信はないが、近頃のアニメーション映画というのは世界的にに評価された作品ばかりだ。たぶん大丈夫。


 俺が脳内でどれを持ってくるかシュミレーションしているうちに、突然付いたテレビ。砂嵐――と、ディスプレイは黒く染まった。無音が続く、次の瞬間、大きな音とともに血まみれの長い髪の女が画面前面に映し出された。


「うわぁぁぁ!」


 俺は腰が抜けてまたソファーに倒れこむ。


 いつの間にか、ホラー映画の上映が開始していたらしい。


「ぷっ、あはははっ!やっぱ怖いだけじゃん!」

「う、うるさいなぁ」

「うふっ、だって…っ、ふふ、あははっ!」

「笑いすぎだって…」


 彼女は涙目になりながら笑い続ける。別にそんなに面白いことはしていない。ホラーが苦手な人間は多いはずだ。腹が立つのに、そんなに笑う彼女が可笑しくて、可愛くて、ジト目で彼女を見ていたはずが、いつの間にか俺の口角も上がっていた。


「はーっ、笑った笑った!さて、続き見ようよ」

「…マジで見るの?」

「怖いんだ?」

「悪いかよ」


 こうなってはもう見栄を張るのは醜いだろう。恥ずかしさに頬を染めつつも、開き直ってそっぽを向く。彼女は少し黙り込むと、俺の服をちょいとつまんで引っ張った。


 そんなことしても、もう振り返らない。振り返ったら、また彼女の思うつぼである。


「手、握っててあげるから」

「はあ?!」


 抵抗するよりも早く、彼女の冷たく細い指が俺の手に絡んだ。彼女はニヤリと悪戯じみた表情を浮かべる。彼女と目が合ってようやく、振り向いてしまっていたことに気が付く。

 ふと、俺のことが好きなのではないだろうか、という危険な思考に至ってしまう。そういう浮ついた考えは八割外れ、漢の勘違いに終わって恥ずかしい黒歴史に変わるものだ。


 俺は無言でソファーに腰がける。部屋が暗くて助かった。今明るいところで顔を見られて、目が合ったら今度こそ――俺は頭を振って画面に集中する。相変わらずホラー映画とは恐ろしかったが、彼女の柔らかい手を握っている感覚のせいでまったく集中できなかった。



「前見たときは、面白かったんだけどなー」


 映画が終わると、彼女が突如つぶやいた。画面からは目も離さないし、一言も喋らず集中していたから、そんな感想を持っていたのは少々驚きだった。

 どうやら、一度見たことがあるものだったらしい。もともと部室にあったものだから、妥当かと言われれば妥当だろう。


 俺はといえば、怖かった以外の感想がない。俺にとっては基本的に、ホラーは怖いか怖くないかで、面白いも面白くないかも存在しない。


「古いし、ホラー系って、どうなるか分かってたら面白くないって言うし、仕方ないんじゃないか?」

「うん…」


 社会一般論を述べてみたが、彼女には響かなかったらしい。もっと深い感想が言えればいいのだが、小学生が言うような感想しか浮かんでこない。やっぱり俺には映画研究の才能は無いのだろうか。

 彼女は不満げに画面を見つめる。どこか遠くを、羨ましく見るような、そんな目だ。


 ――彼女も、映画を作りたいのだろうか?


「今度、俺のおすすめ持ってくるよ」

「え?ほんと?!」


 先ほどの不満げな姿はどこへ消えたのか、再びいつもの調子ではしゃぐ彼女。上がった口角から、少し尖った犬歯がちらつく。

 まつ毛長いな、というどうでもいい感想がふと浮かんだ。視線は下がって桜色の唇に。次には大きめのシャツの襟もとの首筋に、ネクタイのないせいで通常より若干露出の多いデコルテ。


 俺は押さえつけるように彼女の小さな頭を撫でて、目をそらしながら空いてるほうの手で隠すように顔を覆う。


 熱い。顔が、特に耳が。もう心臓が持たない。


 ああ、認めよう。


 俺は彼女が好きなのだ。



 ●●●



 夏休みが始まった。

 夏休み中に学校に来たことはない。赤点を取れば強制的に夏休みも学校に行かなければならないが、俺はこれでも赤点は取ったことがない。俺は素行がいいわけではないが、授業には出てるし、成績も悪くないのだ。


 部活に無所属だったから、夏休みは誰かと遊びに行くか、家に籠ってゲームかの二択だったが、今年は一味違う。


 俺はほぼ毎日朝の九時から家を出て、映画研究部の部室に来ていた。午前に二本、午後に三本映画を見る。それが最近のルーティンだ。


「これと、これと、あとこれかな」

「どういう基準で選んでるんだ?」

「適当だよ」


 適当って。

 映画というのは基本的に名作と呼ばれるものや、自分の好きなジャンルを見るものだろう。


 彼女は手あたり次第見る人らしい。本当の映画好きと言うのはこういう見方をするものなのだろう。だが、そのやり方では当然名作もあればもある。


 名作ばかり選んで見ていた俺は知らなかったが、彼女によれば基本的に映画は選ばなければ十本中九本が駄作で、運が良ければ一本がようやく名作らしい。運が悪ければ、十本どころか、二十本見てすべてが駄作ということもある。実際、今がそれだ。夏休みに入って十五本見たが、駄作続きである。


 夏休み前は俺に気を使ってくれていたのか、面白い作品ばかりだったが、夏休み前、彼女は映研の活動を本格的に開始すると宣言した。その結果が、これである。


 正直もうすでに飽きつつある。面白くもない映像を何時間も見るほどつまらないことはない。


「なんで選ばないんだ?」

「そりゃあ、選んだら名作は見つかるけど、自分に刺さる作品とは出会えないからね」

「違うのか?」 

「『名作』と『自分に刺さる作品』は違うよ?『名作』は、多くの共感を呼び、それによって感動や笑いを生む作品で、全体的評価は高い。一方で駄作は共感性に欠けるものが多い。共感できる人が少ないせいで、全体的評価は低い。要するに、客を選ぶのが駄作で、客を選ばないのが名作。駄作は客を選ぶ分、刺さる人にはとことん深く刺さる」


 彼女の言うことはよくわからなかったが、『映画研究部』と言うのは名ばかりではないということだけはここ数日でよく分かった。そして、彼女は本当の映画好きであることもよく理解できた。


 彼女はなぜそれほど映画が好きなのか。刺さる作品とは何なのか。俺は好奇心だけで面白くもない映画を見続けていた。


 最近は映画を見すぎて、映画選びのセンスも上がった気がする。


 午前の二本、夏休みに入って十七本目を見終えて、昼休憩になった。彼女の集中はプツリと途切れ、いつもの無邪気で陽気な彼女に戻った。


「最近のセンパイ、かっこよくなったよね」

「はっ?!」


 俺は口に含んだ麦茶を拭き出す。

 さっきの真面目で物静かな雰囲気はどこへ行ったのか。


「なに、どしたの?ビックリした?」

「あのなあ、お前、そういうのは――」

「そういうのは――なに?」


 吸い寄せられるような大きな黒瞳が俺を覗き込む。一切混じり気のない正真正銘の黒だ。あまりにも黒く、しかしガラス玉のような透明感。黒曜石のような、という言葉がこれ程似合うものもそうそうないだろう。


 少し首を傾け、身長差を活かして下から俺を覗くように見上げられる。セミロングの柔らかそうな髪が彼女の動きに遅れて微かに揺れた。


 うっ、と声が出そうになって、五百ミリリットルのペットボトルの麦茶の残りを一気に口に含み、言葉とともに呑み込んだ。


 たしかに、髪にワックス塗ってみたり、香水つけてみたりしている。気づけてもらえればいいなという考えは持っていたが、いざ気づいてもらえて、はっきりとその感想言われると、想像以上に嬉しかった。


 まったく、嫌な冷や汗をかいてしまう。

 これでは夏休みに入るまで心臓が持ちそうにない。


「飲み物買ってくる。なんかいる?一緒に買ってくるけど」

「私はいいや」

「へいへい」


 旧校舎を出ると、ムワンと重たく湿気た空気が肺に流れ込んだ。今年は本当に

虫がうるさい。


 旧校舎から運動場を挟んで体育館と新しいほうの校舎がある。自販機までは体育館のほうが近いので、俺は体育館を目指して歩く。


 肌がジリジリと焼けていく。暑いというより熱く、熱いというより痛かった。少し歩いただけで、ドバっと汗がにじみ出る。シャツが肌に張り付いて気持ち悪い。


 運動場では野球部が他校のチームと練習試合をしているようだった。金属バットが、カキーンッと音を立て、ボールを遠くまで飛ばしていた。それに伴って選手が走る。こんな暑い中、よくやってられる。


 運動場の脇を通ってたどり着いた体育館では、バスケ部のドリブルのリズム感ある振動と、シューズの地面と擦れる甲高い音が聞こえてきた。


 色んな部活の景色を横目に、自販機を覗いて一番安い麦茶のボタンを押す。ガコンと音を立てて落ちてきた麦茶はすでに結露していて、持っているだけで体の熱を一気に冷ましてくれた。

 喉は乾いてなかったが、冷えを欲する体は無意識にキャップを開けて、お茶を口まで運んでいた。麦茶の香ばしい香りと漏れ出る冷気が鼻をくすぐる。喉を通る液体は、体の中から籠った熱を奪う。最高に気分がいい。夏の醍醐味だ。

 

「石宮じゃないか」


 体育館の扉が開けられる音がして、嫌な声が俺を呼んだ。


「げっ、國塚じゃん…」

「お前部活してたっけか?」


 俺の、げっ、という言葉も無視し、勝手に会話を続ける國塚。黒のジャージ姿で、服の上からでも筋肉の隆起が見えた。完全に忘れていたが、そういえば、國塚はバスケ部の顧問だった。


 学生時代は不良のトップだと聞いたのを思い出し、思わず少し後ずさる。恐ろしいが、少し興味がないこともない。聞いたら、怒るだろうか?


「國塚の学生時代って…」

「おっ、知ってるのか!もう生徒の中で知ってる奴はいないと思ってたんだがなぁ」


 以外にもなにやらうれしそうに食いついた。


「なんで先生になったんですか?」


 好意的な反応をくれるとは思っていなかったから、ついつい聞いてしまった。

 國塚は首をさすりながら、日陰になってる階段に座り込む。


「あー…まあ、俺は当時、不良グループのリーダーだったんだが、俺の統制が甘かったせいで問題が起きたんだよ。教師になったのは責任だ。そしてもう同じことが起きないようにするためでもある。子供には、悪いことを悪いと叱り、反省しない奴には反省させる大人が必要だ」


 俺は唖然とするしかない。脳筋のイメージが強かったせいで、どうせ大したことない返答が返ってくるものだと思い込んでいたからだ。だが國塚のいうことは思ったよりも深く重い、気がする。意外と言う感想の他に何もない。ただ、責任とか言うあたり、昔から根は真面目な人間だったのかもしれない。


 いったい、何があったのかは気になるところだが、聞かないほうがいい気がした。


「そういうわけだから。お前ももう問題起こすなよ?次窓ガラス割ったら、どうなるか分かってるな?俺は今鬼塚と言われてるらしいじゃないか。その名に恥じぬよう、今度こそお前が反省するまでお前を追うからな」

「それはさすがに勘弁してくださいよ…」


 冗談には聞こえない言葉に怯えつつ、俺はぬるくなりつつある麦茶を片手に速足で部室に戻ることにした。



●●●



「おかえりー。遅かったねぇ」


 彼女は部室の整理をしながら待っていた。棚の上まで背伸びして段ボールを持ち上げようと手を伸ばしているところだ。たしか、あの段ボールには棚に入りきらなかったディスクが入っている。新しいディスクを発掘しようとでもしているのか。グラグラ揺れて危なっかしい。


「おい、危な――」

「うわっ」 

「おい!?」


 思っていたより重かったのか、彼女の手を外れて勢いよく滑り落ちる段ボール。


 熱かったのが一気に醒めて、代わりに冷や汗が顎に雫を作る。


 正に、間一髪。段ボールは何とか落ちる寸前で支えられた。

 怪我をしないように片づけたはずなのに、意味はなかったのか。いや、重たいものを棚の上に置いたのが悪かったのか。

 というか、前はもっと高くまで段ボールが積まれていたが、なぜ崩れなかったのだろう。怪我していてもおかしくない。


「おまえ、ここでよく生きてこれたな」

「…センパイ」

「ん?」

「腰」


 俺は視線を彼女の顔から下に下げていく。

 手が、彼女の細い腰を掴んでいた。ゴツゴツした男の手。


 ――誰の手だ…?


 思考が停止する。いや、頭が回りすぎてむしろ止まっていたというほうが正しいに違いない。


 ――あ、違う、これ、俺の手、か。


 〇・一秒の瞬間的な思考で結論を導き、次の瞬間に過ちを理解する。慌ててがっしり掴んでいた彼女の腰から手を離して後ろに飛び退いた。


 これは事故だ。わざとじゃない。支えようとしてこうなっただけだ。


 慌てふためいて声が出ない俺をくすりと笑う声がした。


「センパイ、チャラそうなのに女慣れしてないんだね?」

「は、はあ?それはお前が――」

「ん?」

「え、いや…何も」


 俺は俺を呪う。

 彼女はまた笑うと、下ろした段ボールの中身を覗きはじめた。


「はああぁぁぁ…」


 俺は疲れ果ててソファーに倒れ込む。本当に、このままじゃ心臓が持たない。爆発する。


「で、帰ってくるの遅かったけど、何してたの?」

「え?ああ、先生と話してた」


 彼女がピクリと反応した。


「どの先生?」

「國塚だけど」

「なんか言われた?」

「いや、特に何も。次なんかやったら分かってるな?って脅されたくらい」

「あはは、完全に目付けられてるじゃん!気を付けなよ?」

「わかってるって」


 天真爛漫を絵に表したかのような彼女は、よく笑い、よく話す。他の誰かにも、同じように笑うのかと思うと少し腹が立つ。分かっている。付き合ってもない。出会ってまだ一月程度。


 彼女はディスクをトレイにセットし終えると、疲れたようにソファーに腰かけた俺に引っ付くように座ってくる。俺はちょっと身を引くが、合わせて彼女も動く。


「俺、汗まみれなんだけど?」

「うん」

「だから、その、あんまり引っ付かないほうが…」

「そっか」


 彼女は天真爛漫で、無邪気で、華みたいによく笑う人だが、だからこそ、何を考えているのかはよくわからない。分かっているのは、あざとくて、悪戯好きで、掃除が苦手で、人との距離感がバグっていて、映画が好きで。あと少しドジっ子だったりするのはさっき知ったこと。

 まだ暑いのに、体が熱くなる。

 彼女のことをもっと知りたいと思う。だが、知るのはなぜか少し怖かった。


「あの、なんかあった?」

「ん?なにが?」


 調子はいつものまま。楽観的で、細かいことはあまり気にしない。悩みなんてなさそうなその態度は見ていて安心するものだ。


 だが分かる。絶対、何かあるのだ。


「ねえ、センパイ」

「はい」

「センパイが自分に刺さる映画見つけるまでは毎日ここに来てよ、絶対。約束して?」

「え?は、はい、約束します…」


 なんでか敬語になってかしこまる俺に噴き出すようにぷっと笑うと、彼女は動き出した画面に目を移した。

 ただ彼女は、最後まで俺にピトリとくっついたままだった。



 それから数日。彼女の様子が少しおかしい気がした。

 ただでさえ近かった距離がさらに近くなった。気のせいだったらいいのだが、どうだろうか。一見違いは分からないが、どことなく雰囲気が違う気がするのだ。


「おはよー」

「おはよ」


 いつものように挨拶を交わして、ソファーに腰がける。彼女もいつも通り俺の横に座った。そこまでは普通だ。


 だが今日は手に指を絡めてきた。俺は思わず手を引く。


「お前さ」

「何?」


 この手のやり取りにはもう慣れた。だからあえて冷静に返す。


「あんまりそういうのはさ」

「うん」

「その気になるから」

「そうだね」


 ――そうだね?


 頭が混乱する。狙ってるのか。俺のことが本当に好きなのか。分からない。俺は確かに彼女が好きだ。だが、好きになっていいのだろうか。


「ちょっと、トイレ行ってくるわ」


 俺は立ち上がると、速足で部室を出てそのまま旧校舎を出た。あそこで、好きだと伝えられる男はカッコいいし羨ましい。だが俺にその勇気はないし、なんとなく、伝えないほうがいい気がするのだ。


 蝉がシュイシュイと鳴いている。うるさい。踏切のような、変な音だ。太陽の日差しは相変わらず強い。俺はまぶしに目を細め、影になっている旧校舎の昇降口前の階段に腰がける。


「石宮!ようやく見つけたぞ!!」

「國塚」


 最近、よく会う。そういえば、國塚も周りは蝉が少し静かになるのはなぜだろう。


「っていうかお前、さっき旧校舎から出てこなかったか?」

「え、ああ、そうですけど」

「お前なあ、問題に問題を重ねやがって!」

「え?」


 國塚は呆れたようにため息をつく。何か、やっただろうか。気を付けていたつもりだが。


「ガラスの件はひとまず置いておくとして、どうやって入ったかは知らんが…旧校舎は立ち入り禁止だろう?」

「―――は?」


 時が止まった――違う。音が消えた。蝉の声が消えたのだ。シュイシュイと言う騒音のような蝉の鳴き声は消え、野球部の掛け声だけが目の前の運動場に響き渡っていた。

 肌をジリジリと焼く日差しは衰え、目を開けていてもまぶしくない。というか、先ほどまで影だったはずのこの場所は、いつの間にか日向ひなたになっていた。


 俺は立ち上がると階段を駆け上り、白く濁ったガラスが張られた昇降口の扉を引くが――開かない。さっき出てきたのに。さっきは開いていたのに。というか、この夏はずっと開いていたのだ。


「どうしたんだよ」

「先生!ここッ、開けてくださいッ!!」

「はあ?そんなのダメに決まって…」

「國塚!頼むから、開けてくれ!お願いしますッ!!」


 國塚は俺の気迫に押されたのか、待ってろと告げると鍵を取りに走ってくれた。


 嫌な汗が伝ってくる。温いつばをごくりと飲み込む。彼女の、冷たい手の感覚はまだ覚えてる。どうなっているかは分からない。おかしい。今俺は、これまで俺は、彼女と一緒に映画を見てきたのだ。何を見たかも覚えている。彼女が何を言ったかも覚えている。彼女の惹きつけられる笑みだって――


 國塚は駆け足で戻ってくると、慎重に鍵を挿して回した。俺はそれを確認すると、扉を開けて一目散に部室に向かう。毎日通った道。旧校舎は複雑だが、迷うことはない。


 俺は勢いよく扉を開け、目を見開いた。


 片づけ、綺麗になったはずの部室は、初めて入った時と同じ――埃臭く、四面の壁にそれぞれ段ボールが天井に付きそうなほどまで高く積まれている。ただし濁った窓ガラス越しに見る外は白だけでなく、草木の緑もよく見えた。

 さっきまで彼女と座っていた二人掛けのソファーは埃をかぶり、雑誌と段ボールで埋もれている。


 当然、彼女の姿はなかった。


「は?どういう――」

「おい、お前なあ」

「國塚!彼女は何処に――映画研究部って…!」

「映画研究部だと?それに彼女って…」


 おかしい。彼女とはここで、一緒に映画を見ていた。顔だってはっきり覚えている。あの天真爛漫で、無邪気で、華みたいに笑い、悪戯好き、掃除が苦手で、距離が近くて、映画が大好きで――

 黒曜石のような瞳に、俺は確かに映っていた。あの明るい笑い声も、惹きつけられる目が離せなくなるような笑顔も、間違いなく全て俺に向けられているものだった。

 彼女は二年の、名前は――――――


「え…w?」


 思い出せない。笑いが漏れてくる。ただ無気力に。


「先生、今日って、何月何日ですか…?」

二十一だ」


 今日は、八月六日じゃ――


「ははっ、ああ、そういうことか…」


 おかしかったのだ。彼女と出会ったあの瞬間から。六月に、あれだけセミが鳴いてるはずがないんだから。あれだけ暑いわけがないんだ。そもそもあの時からすでに、のだ。


「白昼夢かぁ」


 俺はその場に泣き崩れた。


 彼女も、俺も、聞いた話もしてきたことも、すべて、夢だったのだ。


 ――どうせなら、覚めないでいてほしかった。



●●●



 國塚は、いろいろ悟って俺を保健室にまで連れて行って話を聞いてくれた。

 信じがたい話だろう。だが、國塚は冷静に、親身に話を聞いてくれた。一通り話し終えると、國塚は一冊の本を持ってきた。


「その彼女って、この子じゃないか?」


 國塚は卒業アルバムらしきそれのあるページに映る写真を指差して聞いてきた。


 そうだ。その子だ。この顔だ。


「この子です!この子は――」

「綾木明音。三十五年前、十七歳で亡くなっている」

「…はあ?」

「当時の不良のバイクに轢かれ、事故で死んだ」


 俺の中で、國塚が責任を取ろうとしている当時起こった問題と彼女の死が繋がった。


 夢なのか現実なのか。


 彼女は確かに実在したのだ。ただしそれはずっと昔に。俺が出会ったのは夢か幻影か。はたまたそれは亡霊か――――――


「旧校舎はしばらく自由に出入りしてもいい。こちらで話は通しておく」


 はい、と返事はしたものの、俺は呆然とベットに座り込むしかなかった。いつもあった傍らのぬくもりはなく、すがすがしいほど蒼く透き通る空の下から、まだぬるい程度の風が、その空席になった空虚を通り抜けるだけだった。



 夏が始まる。蒼い夏が、今ここに。白い夏の記憶なら、すでにここに、頭の中に、あの暑い日差しとともに焼き付いているというのに。

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