第44話 リアムとの再会(中編)

 ◇



 エリスは走った。一刻も早くアデルに追いつこうと。

 けれど、人の波が邪魔をしてなかなか前に進めない。


 そもそも、エリスは少なくともここ十年、まともに走ったことがないのだ。

 そんな彼女が、アデルに追いつくというのは無謀な話だった。


(これでは見失ってしまうわ……!)


 今はまだ、シーラ、アデル共に直線上に見えているが、もし角を曲がったりしたら……。


 だが悪い予感というものは当たるもので、桃色の風船は、二つ先の角を左に曲がってしまった。

 その後ろを、アデルが十秒ほど遅れて曲がり、エリスもそれを追いかける。――が、その刹那。



 ――ドンッ!



 と全身に衝撃が走り、エリスは後方によろめいた。

 人とぶつかったのだ。

 

「……っ」


(倒れる――!)


 瞬間、エリスは身体を強張らせ、ぎゅっと瞼を閉じた。

 だがどういうわけだろうか。いつまで経っても身体を打ち付ける感覚がない。


「……?」


 いったいなぜ――と恐る恐る目を開けると、そこにあったのは、どこか既視感のある顔だった。


「これは失礼を。先を急いでいたもので。お怪我はございませんか?」


 エリスが転ばぬよう、咄嗟に支えたであろう腕を何事もなかったかのように放し、申し訳なさそうに微笑んだその顔に、エリスは確かに見覚えがあった。


 ラベンダーブラウンの澄んだ瞳と、それと同じ色の艶のある髪。

 女性受け抜群であろう眉目秀麗な顔だちに、柔らかな微笑み。

 モスグリーンの軍服を纏っていることから、アレクシスと同じ陸軍所属であることがわかる。


(あら。この方、どこかで……)


 エリスは素早く記憶を回顧する。

 けれどそれより早く、相手の方が思い出したようだ。


「おや。あなたは図書館でお会いした」と。


 その言葉を聞き、エリスもはた、と思い出した。

 二週間と少し前、帝国図書館で声をかけてきた紳士のことを。


 そう、名前は確か――。


「リアム・ルクレール様、でしたかしら」


 エリスが呟くと、目の前の男――リアムは目を細め、


「覚えていてくださったとは光栄です」


 と、笑みを浮かべる。

 だがその表情は前回と比べ、どこか白々しい。


(何だか、前と少し印象が違うわね)


 そういえば先ほどリアムは、『先を急いでいたもので』と言っていた。

 つまり、彼の笑顔が白々しく感じるのは、早くこの場を立ち去りたいという気持ちの表れなのだろう。

 もちろん、それはこちらも同じだが。


 エリスはリアムの後方をちらと見やり、アデルの姿がまだ消えていないことを確かめてから、リアムに会釈する。


「先をお急ぎなのでしょう? わたくしも急いでおりますので、これにて」


 最後にニコリと微笑んで、サッとリアムの横を通りすぎる。

 けれどリアムは何を思ったのか、すぐさまエリスを呼び止めた。


「レディ、お待ちを」と。


「……?」


 仕方なくエリスが振り向くと、リアムはなぜか、困惑気に眉を寄せている。


「無礼を承知で申し上げますが……パートナーか、あるいは従者などはお連れでないのですか? 図書館でも、おひとりでいらっしゃいましたよね?」

「……前は、連れておりましたわ」

「では、今は?」

「おりませんけれど……それが何か?」


(前回も思ったけれど、この方、心配性が過ぎるんじゃないかしら。見ず知らずのわたしにこんなことを言うなんて。……それとも、女性は扇子より重いものを持たざるべきという、偏った女性像をお持ちだとか?)


 エリスはリアム以上に困惑しながら言葉を返す。

 するとリアムは再び唇を開き何か言おうとしたが、その声は、通りの向こうから響いた人々の悲鳴によってかき消された。



「きゃああ! 子供が川に落ちたわ……!」

「二人だ! 落ちた嬢ちゃんを助けようとして、坊主まで飛び込んじまった!」

「誰か! 早く浮き輪とロープ! 釣り竿でも何でもいい! 持ってこい!」

「泳げる人はいないのかい!? あのままじゃどっちも沈んじまうよ!」


 人々の怒号が、エリスの耳に飛び込んでくる。

 それを聞いた彼女は、真っ先に走り出した。


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