第38話 帝国図書館にて(後編)

 

(そうよ。贈り物はただ、夫の義務として……それだけよ。殿下は本来、お優しい方だったというだけ)


 エリスは次々に湧き上がってくる雑念を振り払い、目当ての本棚を探すことに集中する。

 F607の本棚は――あった、あそこだ。


 無事に本棚を見つけたエリスは、侍女に「あなたも好きなものを借りていいわよ」と伝える。

 すると侍女は嬉しそうに目を輝かせ、隣の通路へと入っていった。


 エリスも自分の目当ての本を探し始める。

 本の並びは、出版社、レーベル、そして作家順になっているようで、目当ての作家の作品はすぐに見つかった。


(沢山あるのね。シリーズものもあるし……これはとても悩むわね)


 エリスはしばらく、背表紙と一人睨めっこをする。

 すると今度は、昨夜読み終えたばかりの小説の内容が思い出された。


(そう言えば、マリアンヌ様にお借りした小説のヒーローって、殿下に似ていたような気がするわ)


 花売りの貧しい娘と、若くして爵位を継いだ伯爵の恋物語。


 伯爵は過去に女に騙されたことから女性不信に陥っていて、けれど家のために妻を娶らなければならず、契約結婚という方法を思いつく。とは言え貴族令嬢を相手にするのは難しい。ならば、平民の女を妻に仕立て上げればいいじゃないか――というところから始まる物語で、伯爵の不愛想で無口なところがアレクシスと重なった。


(女性不信の伯爵がだんだんと花売りの娘に惹かれていって、でも素直に思いを伝えることもできなくて……というところが、とてももどかしいのよね。でも、最後は真っすぐに気持ちを伝えて……)

 

 小説ラストの甘いシーンを思い出したエリスは、咄嗟に両手で顔を覆う。

 うっかり、――そう。ほんの少しだけ、唇がにやけてしまいそうになったからだ。



 すると、そのときだった。



 突然、「レディ? どこかお加減でも?」と斜め後ろから声が聞こえ、エリスはハッと顔を上げた。

 声のした方を振り向くと、見知らぬ男性が心配そうにこちらを見下ろしている。


 歳はアレクシスと同じくらいだろうか。

 一目で上位貴族とわかる洗練された佇まい。魅惑的なラベンダーブラウンの髪と瞳。

 いかにも女性が好みそうな、眉目秀麗びもくしゅうれいな顔立ちをしている。


 男は驚きに硬直するエリスを見て何を思ったか、形のいい眉を少しばかり下げ、エリスの顔を覗き込んだ。


「私はリアム・ルクレールと申します。もしご気分が優れないようでしたら、奥の休憩スペースにお連れしようと思ってお声がけしたのですが」

「……っ」


 そう言われ、エリスはようやく理解した。

 目の前のこの相手は、自分の体調を心配してくれているのだ、と。


 エリスは慌てて言葉を返す。


「いえ……あの、大丈夫です。心配はいりませんわ。少し考え事をしていただけですから」

「そうですか? ですが、やはり顔が赤いようにお見受けしますが。侍女をお連れでないのでしたら、我が家の侍女をお貸ししますので――」

「本当に大丈夫です。それに、侍女なら連れておりますので」


 顔が赤いのは、恋愛小説のラストを思い出していたからですよ――などと言えるはずがない。

 エリスは更に赤面し、目の前の男――リアムからパッと顔を逸らした。


 するとリアムはますます心配そうに顔を曇らせたが、次の瞬間、どこかから聞こえてきた「お兄さま」という呼び声を聞き、表情を変える。


「……ああ、どうやら妹が私を探しているようです」


 そう呟くように言ったリアムの顔は、何かを思い詰めているように見えた。

 エリスはそんなリアムに、初対面ながら違和感を抱いたが、それも一瞬のこと。


 リアムはエリスが何か言うより早く、「申し訳ありませんが、これにて」とだけ告げ、あっと言う間に去ってしまったからだ。



 結果、ひとり残されたエリスは、リアムの消えた先の通路を見つめ、ただただ茫然と呟いた。



「いったい、何だったのかしら……」と。

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