第2話 突然の婚約破棄(中編)

 ◇



「この役立たず――! よもや殿下を裏切るなど、恥を知れ!」


 その晩、公爵である父に平手打ちされたエリスは、部屋で謹慎するよう命じられた。


 エリスの部屋はこの屋敷で一番狭い。もともと使っていた部屋は、異母妹のクリスティーナに取られてしまったからだ。

 そのとき一緒に、亡き母から譲り受けた貴金属や宝石類も奪い取られた。

 残されたのは、デザインが古臭いからという理由で置いて行かれたドレスだけ。

 

 エリスはヒリヒリと痛む頬を押さえながら、固いベッドに倒れ込む。


(いったいどうしてこんなことになってしまったのかしら……。わたしは、あの男性のことなんて何も知らないのに……)


 本当に、一度も見たことのない男だった。

 それなのに、あの男は私の肩に火傷の痕があるのを知っていたという。


(確かにここのところ殿下はわたしに素っ気なかったけれど……まさかこういう理由だったなんて……)


 私はこれから先どうなるのだろう。

 王太子から婚約を破棄された令嬢に、行く当てなどあるわけがない。

 

 エリスは不安のあまり、両腕で自身の身体を抱きしめる。



 エリスが王太子ユリウスと婚約したのは、まだ七歳のときだった。

 年齢と家柄が丁度いいからと結ばれた婚約。


 だがユリウスはとても優しくしてくれて、エリスは、この人に相応しい女性になりたいと、幼心に決意した。


 それから約十年余り。エリスは必死に生きてきた。



 婚約して一年後、エリスが八歳のときに実母が病気で死に、父が愛人と再婚したときも、エリスは気丈に振る舞った。


 愛人には、実弟シオンと同い年の六歳になる娘、クリスティーナがいた。

 つまり、父は少なくとも六年以上浮気をしていたのだが、エリスは父を責めることはしなかった。


 だが、そんなエリスの思いを踏みにじるかのように、元平民だった継母と異母妹はやりたい放題に振る舞った。


 屋敷の家具を全て入れ替え、宝石商を毎日のように呼び、ドレスを買い漁った。異国から珍しいものを取り寄せては、サロンで周りに自慢していた。


 けれど父はそれを注意するどころか助長させる態度を見せ、そんな父親に見切りをつけたエリスは、実弟シオンのためにも自分がしっかりしなければと思ったのだ。


 だがまもなくして、父はシオンを他国へ留学させると言い出した。

 父は公爵家の入り婿だったから、正当な爵位継承者であるシオンを邪魔に思ったのだろう。


 それに反対したエリスは、肩にタバコの火を押し付けられたのだ。


 しかも父は、その怪我をこともあろうにエリスの責任にした。

 火傷の傷が癒えないエリスを王宮に連れていき、ユリウスに向かってこう伝えたのだ。


「娘が粗相をして肌に傷を負ったため、殿下のお許しがいただけるなら、妹のクリスティーナを代わりの婚約者に据えられればと考えております」と。



 その言葉を聞いたとき、エリスは自分の人生はもう終わったと思った。


 父に愛されない自分。弟とも引き離され、屋敷では最低限の生活を与えられるだけ。

 それだって、自分が王太子ユリウスの婚約者であるからだ。


 物を取られたり、隠されたり、そういう小さい嫌がらせで済んでいるのは、自分が王太子の婚約者だから。

 もしその地位を奪われたら、いったい自分はどうなるのだろう、と。


 けれどユリウスは、涙を堪えるエリスを優しく抱きしめてくれた。


「傷なんて気にしないよ。僕の婚約者はエリスだ。それは変わらないよ。だから泣かないで」と。


 その瞬間だった。

 エリスが、ユリウスに恋をしたのは。


 それからは、エリスは継母に何を言われても、クリスティーナにどんな嫌がらせをされようと、毅然として生きてきた。


 自分が生涯ユリウスを支えるのだと。王太子妃になるのだと。

 生きる目的を与えてくれたユリウスの優しさに報いたい、と。


 毎日毎日、必死に努力してきたのだ。



 ――ああ、それなのに……。



(殿下は、わたしを信じてはくださらなかった……)



 それがとても悲しかった。

 とても悔しかった。


 自分は何もしていないのに、愛しているのはずっとユリウスただ一人だと言うのに、その気持ちを信じてもらえないことが、ただただ苦しかった。


 

 エリスは声を殺して泣いた。

 灯りもつけず、暗い部屋でたった一人。


 慰めてくれるユリウスは、もうどこにもいない。




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