穴底

壱原 一

 

鄙びた山村のご老人宅へ取材に伺った。自治体の広報誌の小記事だ。


車を降りて見上げると、なだらかな上り勾配の山肌に何とも通気性の良さそうな木造の古家が点在している。


合間の草地は畑の跡だろう。大きな緑色のコンポストやビニールハウスの残骸がぞんざいに放置されていた。


ご老人は姿勢こそ寄る年波の重さに屈曲していたものの、確然と力強い目をしていらした。瞳も眉も黒々として、髪だけが綿雲のように白く、薄暗い玄関に映えた。


滞りなく取材を終え、淹れてくださったお茶を頂きながら世間話をする。


唯一の住民。余所にご親族は居られず、この家で往生すると仰る。これだけ古色に富んだ暮らしぶりだと、却って特色が際立つのか、ぽつりぽつりと取材の者などが絶えないらしい。


そうしたご縁で頑固な年寄りを気に掛けてくださる有難い方もいらしてね。お迎えが来たら骨になる前に見付けていただける塩梅です。


皺深い面差しはともすれば気難しく恐ろしげな印象を受けるが、話し口は穏やかで優しい方だ。


辞去する段になって、整備不良か車の不調が判明した。ご老人のお知り合いの方が寄ってくださる運びになり、軒先で待たせていただく。


ああ…これは長いから、泊まってらして。


ご老人が黒い目で空を見上げ、萎びて弛んだ喉の奥から、乾いた嗄れ声で、独白のように仰る。


山の天気は変わりやすいと聞く。あっと言う間に黒雲が立ち込めて、細かな雹混じりの猛雨が降り始めた。


*


まだ薄明るい時分だったが、ご老人は早々に休むと仰った。少量の質実なお夕飯をご馳走になり、客間へ案内いただき、ひんやりした洗い出しの床の風呂場で、雨垂れのようなシャワーを手早くお借りする。


客間へ戻ると布団を出してくださっていた。ご老人は言葉通り休まれたようで、屋内は雹や雨滴があちこちへ当たり落ちる灰色の音に包まれている。


仰向けで床に就き、天井を眺めて雨音を聞いていると、直ぐに眠気を来した。


天井の羽目板に黒々と手形が付いている。ニスのように艶々して、根深く染みているように見える。


板同士の境目を跨いでくっきり付いているので、天井が完成した後に真下から押されたに違いない。


昔の住人の出来心だろうか。あるいは、なにか厄除けめいたもの…


取り留めのない推量をする内に寝入って、小用を催して目を覚まし、客間を出てトイレへ向かった。


*


手探りで廊下の電球を点す。突き当りの左右それぞれにドアがあった。


ドアに小窓が備わっていて、模様入りの型板硝子が嵌まっている。一瞥するに、片方は水色のタイル張りで小便器が、片方は板張りで和式便器が窺えた。


建付けが優れないのか、和式便器側のドアしか開かない。粛々と借りに入ったところ、昔ながらの全穴の落下式だった。


便器の底がなく、じかに槽へ口が開いている。便器正面の壁の下端に、足首丈の換気窓が設えられている。


窓は乳白色の磨り硝子で、窓外の夜陰をぼかし透かす。手前に何かの空き箱が置かれ、中にちり紙が積まれていた。


落ちても引っ掛かる幅なので墜落こそしないが、踏み外せば確実に足が落ちる。


真上に吊られた電球が点かず、廊下からの明かりを頼りにする他ない。橙色の光明は大半がドアに遮られ、上澄みの仄明かりだけが小窓の硝子越しに寄越されている。


経年の草臥れが色濃い床板と便器が、ぼんやり浮かび上がる。


僅かな斜光の一筋が、夜の海面に見る反射光のひと欠片のように、槽の底の暗い溜まりを照らしている。


自ずと身の引き締まる心地で便器を跨ごうと臨む。拍子に、何か不調和な音を聞く。


屋外の雨脚は幾らか和らいでいる。外周でざあざあと降る音と、近場の各所で打ったり跳ねたり滴ったりする音が多様に入り混じっている。


分厚い音の層の中ほどで、自律的に動く音が耳に障った。


数瞬だけ、微かに、ちゃっちゃと、身軽な動物が泥濘を駆けるような音。


野生動物と即断したのに、両手を半端に上げたまま、静止して耳を澄ませている。


右耳の先の方で再び同じ音を捉え、正体を視認しようと独りでに目が逸る。


煤けた便器。暗い楕円の穴。深い槽の底。


ぬらぬら煌めく一片の照り返しが、なめらかでまろく青白い形に差し替わる。


子供の禿頭。


こちらを振り仰ぐ予備動作と同じ速さで仰け反って、脳内で言語化した時には客間へ戻っていた。


どだん、ごとごと、がた、ばたばたばたと下から上へ跳び出して、天井裏の木板を蹴立て駆け寄って来る音がする。


見上げた天井の手形の近くに、もう一つ、指跡を見付ける。


天井裏から爪を掛けて、羽目板をずらし、指を差し込む。持ち上げて開けた隙間から部屋へ跳び下りるための指の跡。


廊下。隣室。欄間を過ぎて音が着く。正に斜め上の隙間から、激しく掻き立てる音が降る。


膨満する恐慌が喉から込み上げる刹那、小さな古屋の奥の方でほとほとと床板が叩かれた。


一定の強さと間隔で、痩せて年老いた人差し指の第二間接の背が、穏やかに床を叩いている。


たちまち爪の音が止み、天井裏の物音がすぐさまそちらへ走って行く。


早朝にお知り合いの方が玄関で呼び掛けてくださるまで、徐々に弱まる雨音に、まんじりともせず耳をそばだてていた。


*


お父様と幼馴染たるご縁から、子連れで身を寄せていたお手伝いの女性がいらして、女性のお子さんを実のきょうだいのように慕っておられたと言う。


お母様は女性と女性のお子さんにとてもとても厳しく、女性は女性のお子さんを残して出て行ってしまわれた。


暫くしてお子さんが帰らず、総出で探したが見付からなかった。


本当に酷く辛い仕打ちが繰り返されていたので、家出だろうと噂されたとか。


以降に泊まり掛けでお邪魔することは無かったものの、折々顔を出させていただいていた。その誼みで親しくしてくださるようになったお知り合いの方から伺った話だ。


眠るようなお顔だったらしい。あの日より長い猛雨のあと、壺ごと何もかも埋もれてしまった。


お墓には入らないご意向と、常々仰られていた。



終.

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穴底 壱原 一 @Hajime1HARA

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