おさまりきらない思い出を

私情小径

おさまりきらない思い出を

姉がどんなひとだったか、もうあまり思い出せないけれど、憶えている限りで良い印象は殆どない。まず性格は確実に最悪だった。なんせ約束を全く守らないひとだ。待ち合わせにそもそも来ないなんてことはザラで、謝罪ももちろんありやしない。前言撤回なんのその。反故を生き甲斐にしているようなひとだった。


 また姉は所謂サバサバ系というやつで、その性格が災いしてか友人は少なかった。見舞いに来た人数なんて俺や彼女の担任を含めても片手の指の数にも満たない。


 ……断っておくが、姉は決して自称サバサバ系ではなかった。療養中の彼女が一貫して自分の命に頓着しなかったのがいい例だ。


末期に至ってなお、それは変わらなかった。


快活で、表情豊かなひとだった。風邪すら滅多にひかなかった。本当に、病気なんかとは無縁のひとだったのだ。


あとは、なんだろうか。


姉の顔も、声も、においも、眼差しも、すべてが記憶の中でほどけていく。彼女の遺品以外に、俺は姉の生きた痕跡を見出すことができなくなっている。


薄情、だろうか。


俺は姉が亡くなって以来一度も彼女の夢を見ていない。


 


「おはよう姉さん。今日も曇りだよ」


 


 梅雨入りの黒南風が吹く日曜日。今日は姉の一回忌だ。


 


 


 四阿もみじが家を訪ねてきたのは十二時過ぎのことだ。


 四阿──あずまや。珍名ランキングなら上位に組み込むこと間違いなしの彼女と初めて出会ったのは、二年前に遡る。


 今でこそ良好な関係を築いているが、当初の仲といったらそれはもう、それはもう酷いものだった。そんな俺らの関係を取り持ったのが姉で、そういう意味で四阿もみじは、姉の遺品といえるのかもしれない。


少なくとも、姉は俺と四阿もみじを結ぶ唯一だった。


 


「お線香をあげても」


「ああ」


 


 俺が返すと、四阿は隣室の仏前へ向かう。


 姉の死後、四阿は何度もうちを訪ねてはいるが、線香を欠かしたことは一度もなかった。まあ、それが目的なのだから、当然ちゃ当然だが。


ともかく彼女は律儀で、丁寧で、情に厚い。俺とは正反対の性格で、本当によくできたやつだ。


 マッチを擦る音と、白檀のにおいがする。


 独特なその香りを吸い込んだ刹那、脳裏に想起されたのは案の定姉の顔で──死後硬直で口のぽかんと開いた横顔が、棺桶の中で目を瞑った綺麗な顔が、死を纏った静かな姉がこちらを覗き込んできて──俺は咄嗟に口を抑えた。


 


「っ……ゔゔぉえ、ンぇぐっん」


 


 飲み込んだ。


 


「えッふう……ん」


 


 息を整える。


 嫌いなにおいだ。


 葬式以来、姉に線香をあげたことはない。


 目を閉じる。大きく息を吸って、吐いて。


 忘れろ忘れろと、強く念じる。


 


「──い。先輩」


 


 四阿の声だ。


 顔を上げれば、彼女は怪訝な顔で俺を見つめている。


 


「ん、ああ。なんだ、済んだなら帰れ」


「どうせお昼ご飯まだですよね。買ってきたので食べてください」


「……作ってはくれないのか?」


「そこまでの義理があるとでも? 奢るだけ有難いと思ってください」


「感謝してる」


「……」


「嘘じゃない」


 


 話して、少し、落ち着いた。


 いや話したというか、まあ、あしらわれたというか。


 四阿は俺の言葉を無視すると、持ち込んだ袋からプラスチックの容器を二つ取り出す。ハンバーガーだろうか。きっと有名どころのモノなのだろう、見るからにお洒落で、美味しそうだ。


 


「どうぞ」


「いただきます」


 


 俺が食べていると、その内に四阿も食べだした。


 しばらく何の会話もなかったが、ふと四阿が切り出した。


 


「先ほどお線香をあげた際に、ちらりとあの人の部屋を覗かせていただきました」


 


 勝手に申し訳ありません、と四阿は続ける。


 


「ああいや、別に構わないが、何かあったのか」


「いえ、その、先輩は最近あの部屋に入られましたか」


「いや……もうずうっと」


 


 ずっとあのままだ。彼女がいなくなった時のまま。時間の止まったまま。


 


「片づけませんか」


「え、ああ。四阿がやりたいなら勝手に」


「先輩も一緒にです」


「俺は、別に」


「先輩が、やらなきゃいけないんです」


 


 強い声だった。


 決して荒げていたわけではない。


 ただ、強い意志を含んだ声だった。


 


「苦しいままですよ」


 


 強い、言葉だった。


 四阿の言葉を反芻する。酷く難しい言葉だった。


 苦しいままだろうか。ああ、確かにそうかもしれない。でもそれは、きっとそれは。


 


「それは、お前も──」


 


 ──お前だって、苦しいはずだろう。きっと、俺よりも、ずっと。


 四阿が俺の手を引く。何も言わなかった。


 


「今日は、なんだかいつもより優しいな」


「失礼な。私はいつも優しいですよ」


 


 手を引かれて、そのまま姉の部屋へと向かった。


 


 


 静かな部屋だと思った。誰もいないのに、影だけ残った部屋。


 ひとの住まなくなった部屋の気配は独特だ。


 重くて暗い死とはまた違う、居心地の悪い静謐。


 それでも、姉の部屋だ。積もった埃以外に何も変わらない、過去に置き去りにされた部屋だ。他でもない俺が、置き去りにした部屋だ。


 


「片付けようとしたことはあるんだ。実は何度も」


 


 こくり、四阿が頷く。


 


「でもそのたびにさ、いつかひょっこり戻ってくるんじゃないかって。馬鹿だよな。死に目にだって立ち会ったんだぞ。今更なにも戻るわけがないのに」


「私も同じです。ある日ふらっと訪ねてくるんじゃないかって、今でも思います」


 


 四阿が窓を開ける。湿った雲はどこへやら、いつの間に天気は晴れへと転じていた。


 差し込む日差しが眩しくて目を細める。


 振り向いた四阿は、一瞬とても穏やかな顔をしていたように思う。


 


「始めますよ」


 


 そこからは早かった。


 クローゼット。鏡。机。ベッド。


 それらに溜まった一年分の埃を落としてしまえば、残ったものは段ボール一箱分にも満たなかった。


 時間にして二時間もかからなかっただろう。


 あっけないというか、拍子抜けというか。俺と四阿は、共にそんな気持ちだった。


 


「姉さんの……五十鈴姉さんの言うことは全部正しいんだって、そう思ってた。あの人は間違えることはあっても、後悔はしなかったから」


「強いひとでした」


「ああ本当に」


 


 強いひとだった。自分の弱さも他人の弱さも、まとめて笑い飛ばしてしまえるような、そんなひとだった。


 


「『人間ひとりが抱えられる思い出なんて段ボール一箱程度が限界なんだ。私はちっさなポーチがあれば十分だけどな』って、今にして思えば、なんて薄情な人だったのか」


「さすがに、このポーチでは収まらなかったようですけれどね」


 


 そう言って四阿は笑う。つられて俺も笑った。


 遺品の中には、ひとつだけポーチがあった。粗雑な姉にしては珍しい、洒落たブランド品だ。


 こんなちっぽけなポーチに、姉は本当に全ての思い出を詰め込もうとしたとでもいうのだろうか。


 


「いい言葉だと思った。実際、正しいのかもしれない。それは今でも思ってる」


「私も、五十鈴さんの発言にしては珍しく深みのある言だと思いますよ」


「だろう? だけどな、その後の言葉がダメだったんだ。まあ、それも今にして思えばだけど」


「へえ、何て言ったんです?」


 


 四阿が目を瞬かせてこちらを窺う。ふと、彼女が随分と可愛らしい顔つきであることに気が付いた。


 


「先輩?」


「──『だから貴方も私の事なんて忘れなさい。重いだけよ』」


「うわあ……それは」


 


 それはない、とでも言いたそうだ。同感である。


 


「呪いだったんだろうな。彼女にそんな気はなかったのだとしても、俺には呪いだったんだろう。ほんと、勝手なひとだったよ」


 


 だから、部屋を片付けなったのは、きっと俺なりの反抗だったのかもしれない。姉の言うとおり忘れようとして、それでも無意識にそれを拒絶した。その形があの部屋だったのだ。


 なんて、後付けの勝手な解釈でしかないけれど。


 


「死んでさえ弟を困らせて、まったく自己主張の強いひとだよ」


「はい。あんなに奔放で身勝手なひと、他に知りません」


「写真嫌いだったから遺影に使えるのも全然なくてさ」


 


 四阿はこくりと頷き、目をつむった。


 カメラを握って手放そうとしない五十鈴の姿が鮮明に思い出させるのだろう。こちらが彼女を撮ろうとすれば全力で拒否する癖に、俺や四阿の失態を撮ることに関してはノリノリだったあの姿を。


 


「けっきょく五十鈴さんの遺影って、三人で撮ったあの写真でしたよね」


「そうだな。新潟で撮ったやつ。魂を吸われるからとか、真ん中は早死にするから嫌だとか言って散々駄々を捏ねてた時のやつだ。俺の知ってる限り、あれは姉さんの映った唯一の写真だよ」


「ふふ、覚えてます。最終的に私が真ん中になったんですよね。」


「そのくせ先に逝っちまうんだからなあ。忙しいひとだよ」


 


 もう姉の死に顔を思い出しても吐き気を催すことはなかった。


 ──ああなんだ、こんなに簡単なことだったのか。


 心の深い部分にあった靄が消えていくようだった。


 ようやく俺は五十鈴姉さんを送ったのだと、そう思った。


 不思議と涙は出なかった。


 


「そういえばあのポーチ、中は見たか?」


「いいえ……見てみましょうか」


「ああ」


 


 段ボールからポーチを取り出す。軽い。


 きっと何も入っていないのだろうけど、何か妙にドキドキする。


 四阿はしびれを切らしたのか、いつまでも動かない俺を尻目にポーチのチャックを引っ張った。


 


「あ、お前」


「あ‼」


 


 急な大声に驚いて、俺も気になって中身に目を向けた。


 


「……あ」


 


 ──そうだった。


 長いこと見ようとしていなかったから、すっかり忘れていた。


 鈴のような声で、お日様のようなにおいで、愛しげな眼差しで。


 そして何よりも、誰よりも優しい顔で。


 姉は、よく笑うひとだった。

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