第9話

 木下と呼ばれた将校は、顔に衝撃がありありと浮かんでいた。


「前橋、何の真似だこれは」


 彼は定まらない声のトーンで、前橋に言った。


 前橋の様子は穏やかなままで、落ち着き払っていた。


「まあ落ち着けよ先輩。あんたはちょっとやりすぎだ。エヴァ王女は俺が調査していて、まだそういう執行段階にはない。彼女に対してのあんたの行動には少し看過できんな」


 兵士たちが木下と目くばせをするにつれ、部屋には緊張が高まっていった。力の力学が劇的に働いていて、彼らが前橋と衝突したくないのははっきりと感じられた。


「お前は大きな間違いを犯している」


 木下は形勢の主導権を握ろうと、鋭い声で前橋に言った。


「我々は十分な証拠があるんだ。それに、私の階級はお前と同じだ。お前は私の行動に文句をつける権利はないぞ」


 しかしながら、前橋は冷静なままだった。


「あー、俺の階級についてなんだけど」


 彼は笑みを浮かべながら言った。


「さっき昇進したんだよ。31歳にして今は少佐だ。というわけであんたよりも上の階級だな、先輩」


 木下の顔には驚愕の表情が浮かんでいた。


「驚いたろ?正直言って俺もだ。」


 前橋は木下を強く言い負かすように続けた。


「海軍では、山本五十六提督が31で少佐に昇進したらしいが、陸軍ではほぼ聞かない。陸軍最高の逸材と言われた永田鉄山元帥ですら35だったからな。」


 昇進による新たな権威をもって、前橋は木下を見下しながら言った。


「まあとにかく、今は俺の方が上なんだよ、先輩。軍では階級がすべてなのはわかってるだろ?だから上の階級の人間は無視できないはずだな。というわけで今命令してやる。『ここからすぐに立ち去れ』。この女は俺が取調べる」


 木下の顔は困惑と不信で満ちていた。彼は前橋の命令に対し、明らかに葛藤をしていたのが分かった。彼の部下たちも同じように動揺が見て取れて、彼らの上官と前橋の両名に対し、交互に視線を交わしていた。


 結局、木下は諦めたのか、鼻を少し鳴らして言った。


「出るぞ」


 木下は前橋に敵意のまなざしを向けながら、部屋を出ていった。


 前橋が銃をホルスターに収めると、部屋の緊張は一気にほぐれた。私はまだ衝撃の余韻が残っていたが、それでも彼の介入には感謝していた。


「ありがとう大尉――ごめんなさい、今は少佐ですか。あなたが来なかったらどうなっていたことか」


 槇子は前橋に言った。


「やめてください、槇子さん。これまでと同じで『前橋さん』でお願いします」


 彼は少し笑いながら言った。


 彼は続けた。


「槇子さん、本当に申し訳ないのですが、ここは二人にしていただけませんか?もちろん私はあなたを信頼していますが、ただ軍人というのは時に情報を民間人と共有できない状況があるのです」


「もちろんですよ、前橋さん。私もあなたを信頼していますからね。」


 槇子はそう優しく答えると、


「ではまたね、エヴァ。」

 

 と言って、病室を出て行った。


 槇子が出ていくのを見届けた後、前橋が私に振り向いて言った。


「すでに状況はお前の槍の師匠から聞いているな」


 私は少しため息をついて答えた。


「今はもう、私が故郷の人々の手で踊らされていた愚かな駒でしかなかったということを知っている。多分、ライサが言っていた通り、私はバカなお姫様でしかなかったみたいね」


 勘違いだろうか。ただこれまで余裕な態度を続けていた前橋の表情が少し陰ったように見えた。


「お前に言わなければならないことが三つある」


 前橋の声が静かに響いた。私はその突然の言葉に、わずかに動揺した。


「まず、おそらくお前の槍の師匠は、お前の国が列強の侵略によって創建されたと言った。違うか?」


 あの時のライサの冷笑が目の前に甦り、私はすこし顔をしかめた。


「ええ。王国に伝わる神話、多分、私の祖先が権力を正当化するために作ったおとぎ話、そんなのに関しては私は全く信じてなかった。でも、ライサが言ったような事実は、あまりにも私の想像と違っていて、正直――絶望した」


「いや、それは正確な描写ではない」


 前橋は淡々と否定し、彼のその発言は私を驚かせた。


「もっと正確に言えば、確かにお前が育った時の王国の現状、つまりは、お前も含めた世界中の多様な混血による国民、それが生まれたきっかけ自体は、原住民の列強の侵略によるものだ。列強が派遣した軍隊によってな」


 彼は続けた。


「しかし、実際にはそういう征服者たちは、原住民たちと平和的に混じりあった。全くの流血もなく」


 彼の話を聞きながら、私は感情の波に揺れていたが、続けざまに語られる言葉を逃さなかった。


「原住民たちは、確かに罌粟の取引で財を成していたのは事実だ。しかし、それは栄養価の高い作物が全く育たず、時には疫病が蔓延していた過酷な地で、仕方なくやっていたことだ。つまりは生きるすべがそれしかなかった。一方で、兵を送った列強のお偉いさんは残虐な侵略を計画していたのであろうが、送られた兵隊の側は原住民のそうした理屈をよく理解していて、現場指揮官を中心に侵略には消極的だった。そうした事情が合わさって、衝突も戦争もなく、自然な交流を通じて、自然と血が交わっていった。世界史史上極めてまれなことで、お前の槍の師匠が言ったようなことの方が一見すると筋は通っているが、現実はこうなっていたんだ」

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