血の紋章、失われた約束――憲兵の記憶
@nararu
第1話
「そうそう、すごく面倒なことになりますよ、将校さん」
私は彼に言った。
「今あなたは人々の尊敬を集める帝国陸軍の将校さんですからね。しかもさらに悪いことに、犯罪を取り締まる憲兵様が女を買っていたわけですから。たしか罰則はなかったような気がしますけど、間違いなく違法行為ですよね?」
その言葉が彼の胸に突き刺さるようで、彼は恐怖と混乱で震え始めた。私たちの意図を理解するのに時間がかかるのは当然だろう。彼が声を絞り出したとき、まるで自分自身に問いかけているようだった。
「君らは一体何なんだ?」
彼の声には恐怖が混じり、確信を失った様子が見て取れた。その表情が面白くてたまらなかった。偉そうな政府のお役人が、自分たちの悪事のおかげでこんなに苦しんでいるのだから、逆に彼をいじめ返すことが、私の中に奇妙な満足感を与えていた。
さっきまで彼と寝ていた娼婦――正確には娼婦役の仲間が、彼の服の中から手錠を奪い、後ろ手にかけた。私はその様子を見ながら、さらに彼を追い詰めるように身を乗り出した。
「じゃあ、これからどうしますか、将校さん。私、今日とっても寛大なんですよ。そうですね――まず有り金を全部置いて行ってくださいませんか?それからこの小切手にも金額を書いてもらえません?」
夜遅くだったにもかかわらず、街はうるさくごった返していて、つい10年前に大きな戦争があったことなんて信じられないほど街は活気に満ちていた。それと同時に、欲望があちこちに溢れていて、あたかも陰湿な虫が湧いているかのような感覚だった。ぎらぎら光るネオンは街に点在するラブホテルを飾っていて、時にけばけばしく輝き、一方で狭い裏路地には影をくっきりと作っていた。個人的には、そのどちらも――うるさいネオンも街に潜む闇も――好きではなくて、その意味ではこの部屋はかすかな明かりであったので、心地よい均衡を保っていた。
将校の表情は、手錠をかけられたまま、驚きと恐怖が混ざり合っていた。
「まあまあ落ち着いてよ、将校さん。この小切手を銀行で換金したら自由にしてあげるから」
私は穏やかに言ったけど、その言葉の裏には冷たい笑みが浮かんでいた。
「ところでさ、最近新聞なんかで報道されている義賊って聞いたことない?やり方がとても狡猾で――もっと素晴らしいことに、誰も殺さない義賊のこと」
将校はその言葉に反応し、ついに気づいたようだった。
「あの悪名高い犯罪組織『ホームランド (Homeland)』!君らはその一員なのか!」
「人聞きの悪いこと言わないでよ」
私は肩をすくめて言い返した。
「『義賊』だからね。私たちは無駄に金が余ってるあなたたちみたいな社会のお偉いさんからお金を分配しているだけよ」
実際には人々に渡すお金はそれほど多くなくて、私たちの取り分の方がずっと多いんだけど――それでも民衆から私たちは好かれているという自負があった。
「いくらなんだ」
焦った将校が尋ねてきた。
「600万円よ」
私は嘲笑しながら、相手をさらに追い詰めるように答えた。
彼の顔に浮かぶ驚きは、期待通りの反応だった。いつも通り、まずは相手を怖がらせるために多めの金額を提示し、それから少しずつ現実的な額に引き下げていくのが私たちのやり方だった。しかし、彼の次の言葉は予想外だった。
「それだけ?」
私は一瞬、言葉を失った。600万円という金額は、少なくとも今の1955年の日本では、陸軍将官の10年分の年収にも相当する大金だ。私は、彼がその金額を即座に払うことは不可能だと思っていた。しかし、どうやら彼にとってはその程度の額など大したことではないようだった。彼が位の高い貴族の出だと聞いていてはいたけど、その瞬間、彼の家系がいかに裕福であるかに改めて驚かされた。
だが、彼は表情を引き締め、次の言葉を吐き捨てた。
「いや、だめだ。私はこんなごろつき集団に屈することはない。私はこれでも帝国陸軍の一員で、悪人を取り締まる憲兵だ。これは全部言ってみれば私のせい。だから暴行しようが、拷問しようが殺そうが、好きにしろ」
「うるさい奴だな」
私の恋人である稔が怒りをあらわにして言い放った。
「強がってんじゃねえよ、虫が。さっさと払えばいいんだよ!」
彼は将校の顔を容赦なく殴りつけた。
「やめて」
私はすぐに稔を制止した。彼が乱暴になるところは好きではなかったが、それでも私は彼を愛していた。
「私はあなたが本当は優しいと知ってるから。だからここは抑えて、稔。私たちは暴力的な犯罪者集団じゃなくて、あくまで義賊なんだから」
稔は私の言葉に少し戸惑いながらも、ついには観念したように肩を落とした。
彼の背は高く、顔立ちも整っていた。少なくとも私には優しかった。だけど私には、彼には言えない秘密があった――彼は昔、私が知っていたある人に似ていて、その人は私の命の恩人であり、最も敬愛する人物だった。
突然、かすかに聞こえた「ガシャン」という音が、私の頭にこだました。何かが崩れ落ちるような音だったが、その音は私に不安を与えた。部屋の空気が一瞬で不穏なものに変わり、私は周囲を警戒し始めた。
その瞬間、扉が激しく開かれ、兵士たちが突如として部屋に押し入ってきた。完全に包囲された私たちの前には、銃を構えた兵士たちが並んでいた。彼らの制服を見る限り、帝国陸軍の憲兵だった。
その中の一人――背丈はこの国の男たちの平均である165センチ程度で、体格はすらっとしており、制服の着こなしは清潔感があった一方で、やや冷たい雰囲気のある男――彼はおそらくこの中のリーダーで、将校と思われた。
私は軍には詳しくなかったけれど、陸軍の制帽にあしらわれている金色の星は研磨剤で定期的に磨かなくてはならないと聞いた。でもその頻度には人によってばらつきがあるから、その兵士の性格が星の輝きによってわかるということだった。その将校の制帽の星は、私が今まで見ていた軍人の中では、とりわけ大きな輝きを放っていた。
「こんばんは、一条君。君は本当にいい仕事をしてくれたよ」
手錠をかけられた将校に向かって、入ってきたその将校が皮肉たっぷりに言った。その態度には明らかに私たちに対する優越感が漂っていた。
「大尉、だましたんですか?」
手錠をかけられた将校、一条と呼ばれた彼は、声を震わせながら問いかけた。
「いやいや、何もだますようなことは言ってないよ。俺はただ、『今日はお疲れ、来週月曜日にまた』って言っただけだ。その後は楽しい週末を過ごすように願っていたところだったんだけど、実際楽しそうじゃないか」
その将校はあたかも状況を楽しんでいるかのように答えた。
「おいおい、ちょっとおおげさなんじゃないのか?」
稔の言葉は軽く、だがその背後には彼独特の自信と余裕が漂っていた。彼はどんな状況でも笑い飛ばせる男であり、それが彼の最大の武器だった。部屋の空気は緊張に満ちていたが、稔はその緊張を自分のペースに引き込み、笑みを浮かべた。
「まあ確かに俺らのやってることもちょっと悪いかもだけどさ、さっきまでこの将校さんがお楽しみしてたところをちょっと邪魔しちゃっただけだぜ。何がいけねえんだ?少なくとも、銃を向けるほどのもんじゃないだろ。ああそうだ、たまたまなんだけど、俺の父親って衆議院議員なんだよね」
稔は一息つくと、私の方をちらりと見た。その目には、次に私が何を言うかを待つ期待が込められていた。彼の余裕に押されるように、私は一歩前に出て口を開いた。
「銃取り出したのはまずいんじゃない、将校さん。犯罪者を制圧するには法律で「武器対等の原則」を守らないといけないんじゃない?銃なんて持ってない私たち民間人をそれで制圧するなら、きっとあなたまずいことになると思うな。それが衆議院議員の息子ならなおさら。彼のお父さんを通じてあなたの上司に言えば、首が飛んじゃうんじゃない?」
私は少し身を乗り出して付け加えた。
「もし私たちを見逃してくれるなら、そうしないであげる。対等な取引だと思わない?」
こうしたことは正直珍しいことじゃなかった。こういうタイプのお役人である、警察、憲兵、その他の捜査機関、そうした職員は、時に社会の上層部に対してお伺いを立てないといけないのを私たちは知っているから、こうしたときの切り抜け方は、稔のおかげで慣れていた。
第一、私たちのやっていることは大した犯罪じゃない――せいぜい金持ちに対する脅迫、詐欺くらいのもので――だからそうした捜査機関の公務員たちは、私たちの小さな犯罪取り締まりと自分たちの保身とをその場で天秤にかけて――私たちは結局無罪放免となるのがお決まりのパターンだった。要するに、自分たちの身を守るためなら軽微な犯罪くらい見逃した方が得だというしょうもない役人根性丸出しなのがこういう捜査機関なのだった。
「一つだけ残念なのは今回お金が稼げないこと」
私は自分の中でつぶやいた。
私は、すでに頭の中で、この手錠をかけられた情けない陸軍将校のような金持ちを狙った計画を考えていた。
大尉、と呼ばれた将校は少し微笑んだ。私は、その意味を、この取引を承諾したものだと理解した。
しかし――突然彼は稔に発砲した。自分の身に起こったことを信じられない表情で、稔はその場に倒れ、彼は目が私を見つめたまま、次第に光を失っていった。
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