62.ささやかな望みで前進
楽しかったことや嬉しい出来事を、いくつか紹介して締め括った。誰も嫌な思いをしなかった日に感謝して、膝の上で微睡むレオンの黒髪を撫でる。何とか起きていようと頑張ったけれど、我慢できなかったのね。首が不安定に揺れるのを支えた。
「……こんなに寝つきがいいのか」
「今日はたくさん遊びましたから、きっと疲れたんですわ。幼子って突然眠りますのよ」
旦那様は何度も頷いて納得している。兄弟姉妹がいなかった一人っ子で、公爵家の後継という重圧を背負って生きてきた。自分より幼い子と接する機会はほぼなく、知り合う子も高位貴族の子息令嬢ばかり。堅苦しい挨拶や礼儀作法を通じてしか、交流したことがないのだと思うわ。
可哀想と同情するのは失礼だ。旦那様は人に見せず努力をして、様々な知識や経験を積んだ。その中に、同年代の子と遊んだり幼子に接する経験が含まれなかっただけ。それ以外の部分はこの場の誰より積み重ねたのだもの。
誰でも秀でた部分と劣る部分が存在する。私もそう……高位貴族の振る舞いほど優雅さはない。最低限の礼儀作法を覚えて、前世の知識で補っている。王族とお茶会でもしたら、ボロが出そうよ。その意味でも、社交が最低限なのは本当に助かるの。
「旦那様、気になったのですが……」
「なんだ?」
聞いていいか迷うが、ずっと引きずっても答えは出ない。私ではなく旦那様の中の問題だ。ならば尋ねてすっきりしよう。
「さきほど言いよどんだのは……父に何か無礼がございましたか?」
「いや! そうではない、そうではなく……その」
またもや言葉を呑み込もうとする。旦那様の「その」は良くない口癖ね。笑顔で促す私を見て、困ったように眉尻を下げるお父様を見て、また私に視線を戻した。その所作、レオンに似てる。あ、逆だったわ、旦那様の息子なんだからレオンが似ているのね。一緒にいる時間が短くても、そういう部分って似るのかしら。
話す気はあるみたい。そう判断して、笑顔で待った。トントンとレオンを眠りに誘う音だけが響く。
「伯爵……いや、義父殿にその……名で呼んでほしいと……思って」
普段のすぱっと言い切る姿が嘘のように、何度も言葉を探して告げられた。ささやかすぎる願いに、私の目が丸くなる。公爵閣下と呼ばれるのが、嫌だったのね。それは家族になりたいって意味に受け取って構わないのかも。
顔が赤くなった旦那様が俯くのを、お父様も呆然と見ていた。ツンと父の足を突いたのは、エルヴィンだ。声を出さず、ぱくぱくと口を動かした。
「光栄、です。お名前で構いませんか」
「ああ! ヘンリック、と」
旦那様が弾かれたように顔をあげる。頬や喉、耳はまだ赤い。嬉しいのか、口元が緩んでいてなんだか可愛いわ。やっぱりレオンの父親なのね。こういうところがよく似ていた。
「ヘンリック様、私もそうお呼びしますわね」
「頼む」
今夜は収穫が大きかったわ。お茶を飲んで、玄関ホールで別れた。なぜか旦那様……いえ、ヘンリック様が物言いたげだけれど。レオンと同じだわ。望みがあれば口にしてください、とお願いした方がいいみたいね。
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