蒼の向こうへ〜銀河戦争史〜

智槻杏瑠

【第一部:連邦領侵攻】

序文

 その景色は水面の下から見上げるように似て、ゆらゆらとうごめくものだった。

 抱まれる温もりに満たされ、揺らめく景色とまとまりのない感覚の中に浮かんでいる。

 羊水に浸されたような永遠に続く安寧は、刹那の轟音に切り裂かれた。空気を揺らす金切り声が耳を塞ぐ。

 水中に響くような不明瞭な誰何の声が続く絶叫によって中断させられた。

 すぐ目の前から聞こえた甲高い叫び声は苦痛を訴えるもので、洞窟の残響のように耳の奥にずっと跳ね返り続けた。視界が暗転し、床に倒れたと気づいたのは背中に冷たい床の触感と衝突の痛みを覚えたからだった。

 数瞬前までの温もりは、一秒ごとに熱を失う肉の重量感としてのしかかる。微温く赤い液体が額に垂れる感触が、全てが泡で包まれたように朦朧とした感覚の中ではっきりと知覚できた。

 身体も動かせず、考えるべき頭も持たず、ただ喉の動く限り泣き叫ぶしかない――


 発条ばねに弾かれるように飛び起きた先の景色は真っ暗だった。

 視力と思考力の回復と共に、視界の中でぼやけた像が形を取る。

 顎の先から垂れた雫が音を立てて布団に落ち、初めて彼は自分が汗をかいている事に気づいた。

 彼の左側で誰かが寝返りを打った。深夜に睡眠を邪魔された不快感がこもった呻きと共に。

 激しく脈動する心臓に震わされる胸を汗が伝う。知覚を取り戻し、青年は自分の悪夢の意味するところを思い出した。

 ナイトガウンを手に取った青年はベッドを抜け出し早足で洗面器に向かった。かじりつくように蛇口を捻り、流れ出した水を手に取り顔に被る。それを三十秒もの間無言で続ける姿は、常人のそれではなかった。

 無音の洗面所で水滴を滴らせたまま、青年は未だ収まらない荒い息のまま鏡を見据えた。鏡の奥で粘ついた黄金色の髪と真紅の瞳の青年が彼を睨みつける。

 金髪の青年はまる一分の間、微動だにせず鏡と向き合っていた。その内心で暴風雨が荒れ狂っていたにせよ、余人に深奥を探るなどできるはずもない。

 「ねぇ、どうしたの」

 明かりのついた洗面所から戻ってこない相手を気にかけて、青年と同じガウンを身に纏った栗毛の女が眠気眼のまま顔を見せた。紐を締めない布の隙間から、豊かな乳房と艷やかな肢体がその顔を見せている。

 女と同様に前が殆ど開いたままの青年は女に向き直って頭を振った。

 「なんでもないよ」

 取り繕う事が苦手な青年の声に安堵させるための気遣いも空元気の明朗さもなく、形ばかりの返答に女は目を細めた。

 「そう言って、ずっと夜中起きてるじゃない」

 顔を拭いたタオルを洗面台に投げ捨てて、青年は不服そうな女に心の籠もらぬ唇を押し付けた。だがそのような対応で満足する女ではない。

 「そうやって誤魔化せばいいと思ってるの」

 女はその白い手で青年の胸に触れる。ガウン越しでも汗に湿ったその胸は、未だに拍動が女の手にも伝わっていた。

 「なんでもないって言ってるだろ」

 語調の強い青年の語に、女の表情が硬くなり、つんとして踵を返した。

 「じゃあ私を夜中に起こさないで」

 ガウンをソファに投げ捨てて、女は再びベッドに倒れ込んだ。青年に背中を向けて毛布を被る。

 女の聴覚神経に届かない程度の舌打ちを飛ばし、彼女の後を追った。冷めきった内心を取り繕う態度を示すように、青年はその腰に白磁の彫刻を思わせる白く肉付きの薄い手を当てた。

 銀河帝国の帝都星ブラウメンは現地時間の午前二時を迎えている。


 雲を見下ろすバルコニーの向こうには”無限”が広がっていた。

 朝から家庭教師に作法や勉強を叩き込まれ、やっと解放されたばかり。

 もう十歳になるというのにこの生活は何年も変わりやしない。

 養父は帝国海軍の軍人だから家を空けることが多くて、今だってこの広い広い宇宙のどこかにいる。

 ブルーメンシュタットの高級将校用官舎の小さなバルコニー、それが少年にとって唯一外の世界と触れ合うことができる場所。

 そこは天まで届くようなビルの群れとその間を行き交う無数のスカイボートやエアバイクが視界いっぱいに飛び込んできて、この銀河有数の巨大都市の活力の光を投げかけてくる。夜にもなればあらゆる建物のあらゆる階層がきらきらと煌めいて、昼と見紛うような明るさを現出するのだった。

 夜になっても寝たくなどなかった。寝たらほぼ毎日のように見るあの悪夢とまた出会うことになる。執事に無理やりベッドに放り込まれる事になるのを承知で、少年は少しでも長く小さなバルコニーにいたかった。

 少年の心に生えた翼が飛翔する先は下ではなく、上だった。

 見上げれば薄暮の蒼い空の向こう側に無限の世界が広がっている。ただ広く、深く、手をどれだけ伸ばしても絶対に届かない場所。

 少年にとって空は未知の世界だった。

 地表を発した宇宙船が重力の地平を蹴り上げて飛翔していく。彼らは皆少年が見たこともない世界へと消えていくのだった。

 この蒼い空の向こうの世界はきっと終わることなく広がっていて、あの宇宙船たちは無限の世界を旅している。比べて自分が見る世界はナイフとフォークの使い方や文字の読み書きだけ。籠の中で餌を与えられる鳥と同じだ。

 自由がほしい。この閉塞した小さな世界から飛び出して、あの空の向こう側へと旅したい。この身に纏わりつく悪夢を振り払う術が欲しい。誰からも束縛されず、自分の心の赴くままに生きたい。それを少年は願い続けた。

 少年は毎日この小さなバルコニーから、無限の空へと手を伸ばす。蒼の向こうのその世界へと思いを馳せる。必ず自分の手足で辿り着くと決意を新たにしながら。

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