蛆でモダンな気分のガール
mimiyaみみや
4月8日 村中先生
私の記憶は男の腕から始まります。その腕は私の父のものでありましょう。当時四つか五つであろう私は、父に首を締められておりました。
天井にぶら下がった蛍光灯の光のせいで、父の顔には影が黒ぐろと落ち、また何ぶん昔のことですから、今では父の顔を思い出すことはできません。父の腕の男性らしい力強さを懐かしく思い出すだけです。
父があまりに力を込めるものですから、私の頭はぐらぐら揺れ、その視線は父の頭や天井を行ったり来たりしておりました。
「やや、死んでいる。この死体は村中先生のところへ持っていこう」
ややあって父はそう言いますと、私の体を畳に寝かせました。頭を打ち付けないようにそっと寝かせるように置いたのは、今思えば父の優しさだったのでしょうか。
あとになって知ったことですが、村中先生というのは遠くの街に住む高名なお医者様で、研究のために死体を買っているという、ちょっと変わったご老人でした。
父は古い大きな旅カバンに私を詰め、外に出ました。その旅カバンには硬い車輪がついていて、それがコンクリートの上をガラガラ転がると、微細な振動がタイヤを伝って小さな虫のように私の皮膚を這い上がり、それが耳に入って、なんだか耳の中が痒くりました。
お行儀が悪い私は、耳の中に小指を入れて掻き回したい気持ちになりましたが、狭いカバンの中のことですので私はそのくすぐったさにじっと耐えるより他ありませんでした。
痒いのに掻けない苦しみというものを味わったことがあるでしょうか。それは苦しく、どこか切なさを感じるものです。それが耳の中という体内にほど近いところのことですから、その切なさはひとしおで、おしっこがしたくなるほどでした。
ほどなくして、父の「エイッ」という掛け声とともに浮遊感を覚え、カバンは横に寝かされ、バッタンという音――私は車のトランクに詰められたのを知りました。
父の車はよく揺れ、あっちにぶつかりこっちにぶつかり、もしカバンに入っていなかったら大怪我していたことでしょう。カバンは古くカビだらけでしたが頑丈で、私を守ってくれていました。
そういえば、あれだけカビだらけのカバンに入っていたというのにカビ臭さを思い出せないのは、やはり私はあのとき死んでいて、息をしていなかったからなのでしょう。やがて、退屈した私は眠ってしまっていたようです。
「ほう、ほう、これは良い死体だ。特に顔がいい」
顔のすぐ近くで声が聞こえて、私は目を覚ましました。とはいっても、私のまぶたはずっと開いていたようです。起きていても目を閉じることができるように、目を開けていても眠れるのでしょう。
突然眼の前にご老人が現れ、私は声も出ないほどびっくりいたしました。すぐ近くに父がおり、「村中先生」と呼んだものですから、私にもこのご老人が村中先生だと分かりました。
村中先生は私の顔を見た後、父と大人の話をしておりましたが、やがて父は帰ってゆきました。私は子供ながらに父に捨てられたことがわかり、とてもとても悲しい気持ちになったことを今でも思い出します。
しかし当時の私は今よりずっと気丈で、ちょっとやそっとじゃ涙を流すことはなく、ただ村中先生に体を持ち上げられるがままにダラリと死んでおりました。
村中先生は慣れた様子で私をピカピカのステンレスの台に寝かせました。そして私の体を観察するのもほどほどに、先生はいそいそと私の服を脱がし始めたのです。
そのとき私の胸の内で、何かがぞわりと動き、まるで自分の体の中で別の生き物が動いているようで、とても奇妙に感じられました。
先生は私をすっかり裸にしてしまいますと、ピカピカの小さなナイフで私の胸を開き始めました。私の胸の中のぞわりぞわりは次第に恐怖に変わり、ようやく先ほどのぞわりが感情の一種であることを理解したのです。
当時の私は羞恥という言葉を知らないほどの子供でございました。
先生は私の胸や腹を綺麗に開いて、あっちを摘みこっちを持ち上げしておりました。卓上にはたくさんの鏡があり、私には私のお腹の中がよく見えました。たっぷり詰まった内蔵に最初こそ興味を持っておりましたが、飽きっぽい私は段々と退屈してきておりました。
「ふうむ、この娘は生きているようだ」
長い匙で私のお腹をかき回していた先生がそう言って手を止めましたので、私はようやく、
「寒いわ、早く閉じてちょうだい」
と言ったのでした。実際私は鏡の中の肺や胃が動いているのを見ていましたし、もうちっとも死んだ心持ちがしておりませんでした。村中先生は私が話しかけたことにちょっと驚いたようでしたが、流石はお医者様といったところでしょうか、
「せっかく開いたんだ。もう少しよく見せてごらん。もし悪いところがあったら直してあげよう」
平然とそう言いました。そしてあちこちを掻き分けたり引っ張ったりしておりました。 しばらくそうしていますと、突然
「やや、これはすごいぞ」
と大層興奮した様子で、長い匙で私の脇のあたりをカリカリし始めたのです。ちょっと想像してみてください。脇というのは外からカリカリされるだけで悶える程に可笑しいのに、それを内側からやられるのです。
「止めてちょうだいよう、アハ、アハ」
私は大笑いしながらお願いしましたが、先生は「うん、うん、も少し、も少し」と私が暴れないよう体を組み伏せ、カリカリ、カリカリと、ちっとも止めてはくれませんでした。
「アハ、アハ、一生のお願いだよう、止めてちょうだいよう、アハ、アハ、止めてちょうだいよう。」
私は先生の顔を蹴飛ばし、先生はそれを押さえつけ、私は空いた手で先生の髪を引っ張り、最後にはふたりともぐったりしてしまって、一緒になって大笑いしました。そういうわけで、私は村中先生にすっかり気を許し、先生のお家に住むことになったのでした。
私の脇腹から取れたものは、米粒のような見た目をしていましたが、村中先生は「虫卵のようだ」とおっしゃいました。
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