桜楼閣
海空 大地
1
「ハァハァハァ...」
真夜中、
男の名前は
「ハァ...ちくしょう...どこか、どこでもいい、どこか身を隠せて、できれば...飯を食えるところ...」
額からは滝のように汗が吹き出し、眉間にはしわが刻まれ、焦燥とも苦悶とも取れる表情を浮かべている。
今年は特段雨が降らない年であった。そのくせ夏はやけに気温が高く全国各地で農作物がダメになる現象が起きていた。
いわゆる干ばつによる
元々多くの水田を持っているわけではない与作にとって今年の税はあまりにも重く払うことができない。
このような理由で村からの夜逃げを行ったものは
与作はまさに欠落人であった。しかし、小さいころに両親が他界し、身寄りのない与作にとって唯一の故郷である村から逃げることは実質的な死を示していた。
それでも与作が村を出たのは昔、村で他領のまでいけば身寄りのない者たちを受け入れてくれる宿場のある町が存在するという話を聞いたことがあったからだ。
地図もろくになく、確証もとれない噂話にのっかかった一か八かの賭け。
だが、それに賭けなければいけないほど今の与作は追い詰められていた。もう今の生活は沢山なのだ。
薄暗い森の中宿場町を目指し駆ける。村ではすでに欠落に気づいて追手が来ているかもしれない。足には自身のある与作だったが、決して緩めることは許されない。
そうして飲まず食わずで数時間がたったころ、流石に疲労がたたったのか足がふらつき始めた。既に森の奥深くに入り山の中腹付近に入ったところだった。
おそらく、この山を越えれば追手の心配もひとまず心配しなくて良くなるだろう。そう思い安堵した瞬間
「!?...っっっ」
視界が悪く眼前に崖が迫っていたことに気付かなかった。与作は疲労のあまり足を滑らせ崖の底に落ちて真っ逆さまに転落してしまう。
全身を強打し、薄れゆく意識の中で与作は最後に
(村から逃げようとしたことにお天道様から罰があたったのか...もういっそこのまま殺してくれ...)
そう思い、目を閉じた。
与作が次に目を覚ましたのは漆色の橋の上だった。
まだはっきりとしないしていない頭で状況を確認する。体のあちこちが少し痛むが全身を強打した割には大きな怪我はないようだ。
「不幸中の幸いってやつだな。しかし、これは一体...? 俺は山の中にいたはず...」
立ち上がって周りを見渡すとあたりは一面霧と湖である。霧が濃く端が見えないが桟橋のような橋が一本かかっており今自分がその上にいることが確認できた。
気絶している間に追手につかまってどこかに運ばれたのかとも考えたが、周りには人っこ一人いないし、普通こんな橋の上で無造作に放置しないで縛ったりして
どこかの倉にでも放り込まれるだろう。
まったく状況が把握できないのでとりあえず道なりに進んでみることにした。
橋のあちこちに神社にある
ここがどこの領地かわからないが、うまく取り入ることができればしばらく匿ってもらえるかもしれない。
打算的な推論から得た一抹の希望に胸を膨らませ足早に進む。
五分ほど経ったころだろうか。与作の目に信じられない光景が飛び込んできた。
「桜?...まさか、もう夏だぞ...」
霧が晴れた先に出現したのは桜、桜、桜。一面を染め上げるような桜の木の群生である。
しかし、与作の衝撃は季節外れの桜の開花によることだけではない。
なんと桜が水面から生えているのだ。足元は橋を除いてさっきと変わらず一面湖である。その上に桜が咲き誇り水面と橋を花吹雪で染め上げている。
「こいつは...いよいよあの世にたどり着いちまったのかもしれねえな...」
あまり馬鹿げた、だがそれは与作がそれまで見た中で一番幻想的な風景だった。
歩を進めるに連れて桜の木の密度は濃くなっていき、並木のように並んでいった。橋をそのままをさらに奥に進むとやがて一つの巨大な建物の影が見えた。
そのままさらに近付いていくとやがて影がはっきりとしていき漆と黒の配色で構成された最高層が見えないほど大規模な楼閣が浮かび上がってきた。
「な、なんだあ? こりゃああああああ!?」
眼前にそびえ立つ光景に思わず腰を抜かしそうになる与作。
都の城すら見たことがない田舎育ちの者からすれば無理もない。
天高く突き上がり先が見えないほどの高さを誇る楼閣だが、各層の規模も地主の屋敷と同等かそれ以上にあり、似たような構造である京の都の三重の塔や五重の塔と比べても規格外の建築物である。
ここで与作は自身の予測が正解であることを確信する。
これほど大きなお屋敷に住まわれているお方だ、相当な資産をもった地主に違いないし粗相をせずうまく取り入ることができれば当面宿と仕事には困らないかもしれない。
そう一人で頷くと、表門らしき入口を見つけ足を進める。
正確には目の前の建造物は屋敷ではなく楼閣であるし、中にいるのも地主とは限らないのだが、生まれてこの方村を出たことがない与作にとっては大きな建物はすべて屋敷であり、高貴な身分の者は全員地主である。
閉ざされた門に手をかけると、そのままギィィと鈍い音を立てて門が開いた。庭はそれなりに広くこれまでの道と同じように辺り一面に桜が植えられている。
「すいません、誰か、誰かいませんかああ?」
空腹のあまりたいして声が張れなかったが、与作は力いっぱい叫んぶ。それを何度か繰り返すと表口と思わしき引き戸がガラガラと音を立てて開かれた。
与作の前に艶やかな黒髪を揺らし、大振り袖の着物姿の少女が現れた。齢は十六、十七ほどに見える。
ゆったりとした着物の上からでもわかる華奢な体付き、血色の良い紅みを帯びた唇とぱっちりした瞳。
春に咲く杏子の花ように慎ましやかでありながら、ある種の妖艶な華やかさを放つ彼女の姿見に一瞬で与作は目を奪われた。
ややあって少女は鈴の音がなるような声で嬉しそうに呼びかける。
「お待ちしておりましたわ。貴方様のお名前は?」
自分を待っていたいう少女の言葉に困惑しながら与作は口を開く。
「お、おらは与作といいます...」
「与作様、ですね。ようこそお越しくださいました。私はこの
そう言うと華夜と名乗った少女はうやうやしく頭を下げた。
「や、やめてくだせえ、自分みたいなもんにお辞儀だなんて」
身に付けている衣類、何より溢れ出ている気品のようなものが華夜がただの村娘とは比べ物にならないほど高い身分にいる者だと伝えていた。
そんな身分の者に頭を下げれた事など勿論なかった与作はひどく困惑する。
目の前の少女は何者なのか?そして少女が言う桜楼閣が眼前にそびえ立つ巨大な建築物だとすると此処は一体全体どこなのか?
「外から来られた方は皆驚かれます」
華夜はなぜか少し寂しげな様子で与作のここがどこであるのかという問いに対して説明を始めた。
「ここは現世とは異なり霧が支配する世界。私たちはここ桜楼閣を拠り所として日々霧を晴らそうと尽力しています。
与作様はここに来るまでに桜の花々はお見えになられましたか? ここの桜は現世のものとは違い少し特殊ですの。
上手に手入れすれば水の上にも咲かすことができますし、何より桜にはこの煩わしい霧を遠ざける効果があるのです」
此処は現世とは異なるという華夜の言葉に与作は血の気が引いていくのを感じた。
「す、すいません、さっきから現世っていってっけど、
ここはつまりあの世ってことですかい?」
「あの世が黄泉の国を指すものであるならばそことこことは違いますわ。
しかし黄泉の国もここも現世の外側にある領域という点では共通しています」
なるほど、どうやらまだ自分は死んではいないらしい。しかしあの世ではないにしても現世の外側にあると言うことは帰るのは一筋縄では行かなそうだ。
「元いた場所に帰ることはできないんでしょうか?」
「この世界の大半は霧に包まれています。この霧は少し特殊な性質を持った霧でして、空間を隔てるような効果を持っています。なのでもし現世に帰ることがお望みであるのなら、霧を晴らすしかありません」
先ほどの桜の話と繋げると華夜は桜を植えることで霧を晴らそうとしているので、それを手伝うことが現世に帰る手段であるようだ。
だが、与作にとって今更現世に戻ってももう帰る場所はない。
村に帰っても両親はもう既にいないし、結婚もしてないので他に家族もいない。もし、いれば欠落なんてしなかったし出来なかっただろう。欠落に対するペナルティとして家族が罰せられるからだ。
華夜の話によると、ここはあの世と似て自分のいた世界とは隔絶された世界らしい。ならば追手も絶対にここまで来れないはずだろうし、しばらくの間ここでのんびり暮らすのもいいのかもしれない。元々逃避行なのだ。
「なあ華夜さん、俺にはここでも現世でも他に行く宛がなくて、身銭は一銭もねえけど、桜でもなんでも植えるからしばらくの間ここに置いちゃくれねえですか?」
神妙な面持ちで頼み込み与作に対し、
「ええ、もちろんです。桜楼閣は与作様の様な迷い人を保護する場所でもあります。ぜひ、ゆっくり休まれていってください」
華夜はニコリと笑って与作の手を引くと、扉の中に二人の姿は消えていく。ギィィという音と共に扉が閉まった後、あたりには静寂だけが残された。
桜楼閣 海空 大地 @umisora_daichi
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