結婚式でもらった離婚届はまだ取ってある?

仲瀬 充

結婚式でもらった離婚届はまだ取ってある?

【結婚20年後のある日、根津虹子(45歳)の場合】

「ねぇ、僕らの結婚式で清武のやつが離婚届をくれたよね、あれ取ってある?」

ギョッとしながらも私はとっさに嘘をついた。

「とっくに捨てたわよ」

夫はそれきり何も言わずにテレビドラマの続きを見ている。私も同じソファーに座ったままテレビに視線を戻したが心はざわついたままだ。なぜ急に離婚届の話を? 横にいる夫を薄気味悪く感じた。離婚を考えているにしては遠回しな切り出し方だ。今は本気ではないがやがてはありうるというあてこすりだろうか。今日の庭仕事の際もそうだったが私は日常的に夫をないがしろにしているという自覚がある。離婚届は確か押し入れにしまったままだ。縁起でもないから探し出して捨てておこう。それにまた昔のこととは言え私はあの届けに署名までしているのでなおさら夫の目に触れないようにしなければ。横目で夫の様子をうかがいながら私は20年前の結婚式を思い起こした。


 私たちの結婚は神前式だったので披露宴の2次会で教会式のまねごとをした。といっても夫の友だちの清武くんたちが計画した余興だったのだけれど。

「新郎根津ねづいさむ、新婦虹子にじこ、あなた方は病める時も健やかなる時も、富める時も貧しき時も生涯に渡って互いを愛し敬い慈しむ事を誓いますか?」

牧師役の清武くんに夫は片手を小さく挙げて宣誓した。

「僕は近眼なので遠い未来までは見えません」

皆がドッと笑った。どうやら清武くんと打ち合わせずみのようだった。

「新婦はどうですか?」

いきなり話を振られた私も流れに乗っかることにした。

「私は乱視なので近くもぼんやりしています」

客席はさらに沸いた。続いて清武くんは1枚の書類を取り出して掲げた。

「お聞きのように前途は多難なようです。備え有れば憂い無し、ここにつつしんでお二人に離婚届を贈呈しておきたいと思います」


 夫がさっき口にしたのはあのときの離婚届のことだ。友人だけの2次会での茶番劇だったのだけど私たちの新婚生活は本当に先が見えなくなった。子供好きの夫は結婚前から私が専業主婦になることを求めていた。子供は保育園に預けずに育て、主人が帰宅したときにはいつも妻と子供が家にいる。夫が望むそんな家庭像に私も異存はなく夫の両親が中古ながら戸建てのマイホームも準備してくれた。気の早い夫は結婚するとすぐに子供の名前を考えた。男の子なら悠斗はると、女の子なら萌愛もあい。けれど1年がたち2年目に入っても子供はできず夫は無口になっていった。そんな夫が急におしゃべりになったのは私からすると浮気の分かりやすい兆候だった。

「帰ろうとしたら先輩に飲みに誘われちゃって」

「仕事が立て込んでるんで部長に残業を頼まれてさ」

帰宅が遅くなってもそれまでは「疲れた、寝る」としか言わない夫だった。

「明日は取引先の接待で遅くなるから先に休んでて」

前もっての言い訳は女性との仲の深まりを感じさせた。


 結婚2年目が終わろうとする頃は夕飯のしたくも無駄になりがちで億劫おっくうだった。家には誰もいないのに買い物から戻って「ただいま!」と明るい声を出してみる。家庭団欒だんらんを夢みてそんな虚しい芝居をしていた頃のある日のことだった。夫からの電話が鳴った。

「もしもし?」

「ああ僕、今日はちょっと帰れそうにない」

私の返事も待たずに電話は切れた。明日は土曜日で休みだけれど言い訳さえ省いての外泊だ。受話器を戻して玄関に行き、夫の帰宅に備えてけておいた門灯のスイッチを切った。玄関ドアの縦に細長いガラスの部分がふうっと暗くなるのを見ると私の心までかげった。こんな夜を幾度過ごさねばならないのだろう。妻が不倫すると夫は妻を責めるが夫が不倫すると妻は不倫相手の女性を責めるという。私の場合は夫にも相手の女にも恨みはなくただただ悲しかった。


 夫の夕食にラップをかけ、食欲がない私は冷凍のタコ焼きをレンジで温めた。フーフー吹きながらタコ焼きを食べているうちに自分が滑稽に思えてきた。ウサギは寂しいと死んでしまうという話を聞いてから私も自分のことを可哀そうなウサギだと思っていた。でも夫に不倫されてフーフーと口を尖らせている今の私はタコかひょっとこだ。笑いと涙が同時にこみ上げてきた。

「涙とともにパンを食べた者でなければ人生の本当の味はわからない」

誰の言葉だったろうか。私は半ば自棄やけになってタコ焼きを次々に頬ばった。急いだせいか吐き気を催した。トイレに駆け込んで食べたばかりのタコ焼きを便器の中にもどしながら思った。この間抜けさが私の人生の味なのだ。別れよう、もう限界だ。


 2年前の結婚式で清武くんからもらった離婚届を押入れにしまった記憶がある。探してみると大きな角型封筒の中に婚礼関連の色々な印刷物と一緒に入っていた。「妻」の欄に署名、押印をした後で封筒に戻してベッドに入った。明日夫が帰宅したら話を切り出そう。脇の壁のカレンダーを見ると今日は3月3日。女の子がいればひな人形を飾り子供好きな夫も帰宅して家にいるだろうに。

「あかりをつけましょぼんぼりに おはなをあげましょもものはな……」

小さい頃に歌った歌が口をついて出た。ベッドの枕元の灯りを消した。離婚届に2名分の「証人」の欄があったけれど誰に頼もう、胃の調子が悪いので病院にも行かねば。そんなことを考えながら眠りに就いたのを覚えている。そして翌日は土曜日だったから午前中に病院に出かけて診てもらった。その結果、医者に告げられたのは恐れていた胃がんやストレス性胃炎などではなかった。急いで帰宅すると玄関に夫の靴があったが朝帰りも離婚も頭から消し飛んでしまっていた。

「ただいま!」

靴を子供みたいに脱ぎ散らかして夫の部屋に駆け込んだ。寝ていた夫はベッドの中で頭をもたげた。

「どうしたんだ? そんなに息を切らして」

「いい知らせがあるの! 来年はひな人形を飾れるわ!」

私の直感が産まれてくるのは女の子だと決めつけていた。あの日から18年、結婚してからはもう20年がたったのだ。夫は子供ができたことに狂喜し夫婦の仲も旧に復した。けれども時の流れは夫に気の毒だった。産まれた娘を溺愛できあいしていた夫は現在、高校生になった娘にうとまれ、結婚当初は従順だった私にもネグレクトの扱いを受けている。夫の身から出たさびとは言え、私も娘ともども反省しなければならない点は多々ある。



【同じく結婚20年後の同日、根津勇(50歳)の場合】

 「女は弱し、されど母は強し」とはよく言ったものだ。結婚して20年、妻の虹子も子供ができるまでの2年間はしおらしかった。新妻をほったらかして飲み歩く僕を同僚は「暴君タイラント」と揶揄やゆした。その暴君が今は恐妻家の共済組合を作りたいくらいにしいたげられている。妻だけならまだしも娘の萌愛もあいとの連合軍相手では勝ち目はない。娘は家の中で僕とすれ違うたびにクッと喉を詰める。高校生で多感な年ごろとはいえ息を止めるほどに父親の臭いを嫌がるとは。妻も僕の一挙手一投足にクレームを付ける。

「お父さん、耳ざわりだから足をって歩かないで。能や狂言の役者じゃあるまいし、ねぇ萌愛」

娘はスマホから目も離さずに同調する。

「どっちかって言えばゾンビじゃない?」

僕は「キャイーン、キャイーン!」と心の中で尻尾を巻きながら2階の書斎に退散する。家庭平和の極意は旦那が負け犬になることだ。


 そんなこんなのストレスが影響したのか健康診断で高血圧と診断されてしまった。当分の間毎日の血圧を記録するよう医師から指示を受けた。家庭用の血圧測定器を買ってさっそく使ってみた。ソファーに横たわり、まず腕帯カフを二の腕に一回り半ほど巻き付ける。次に本体のスイッチを押すとウィーンと音がして腕帯カフが腕を締め付ける。腕帯カフと測定器本体とはゴムの細いチューブでつながっている。妻が側に立ってしげしげと見下ろしているので測定器を珍しがっているのかと思ったが違った。

「そのうち病院のベッドで何本もチューブを体につながれるのかしら」


 ある日の午後、庭いじりを終えて妻と一緒にテレビドラマを見ていた。ドラマは夫婦の愛憎劇で、妻が離婚届を突き付けるシーンから始まった。妻が署名をして夫に迫る。

「さあ、あなたも書いて! 明日の朝一番で出しに行くから」

僕は婚姻届に「証人」の欄があったことを思い出した。離婚届にも証人欄はあるのだろうか。証人が必要ならば夫婦の署名だけで提出はできないからこのドラマは不自然だ。気になって傍らの妻を見た。

「ねぇ、僕らの結婚式で清武のやつが離婚届をくれたよね、あれ取ってある?」

妻の反応はそっけなかった。

「とっくに捨てたわよ」

それなら後で離婚届の書式をネットで確認すればいい。そう思ってドラマの続きを見ていると場面は夫婦の結婚当初の回想シーンに移った。このドラマの夫はかつての僕にそっくりだった。身勝手に飲み歩いて妻を寂しがらせ他の女性に手を出したりもしている。チャンネルを変えたくなった。横に座っている妻も画面と僕の表情を見比べているようでいたたまれない。ただ一つドラマと異なる点があった。僕の場合は妻に離婚届を突き付けられずにすんだことだ。今思えば子供ができるまでの間、妻をどれほど寂しく辛い目にあわせただろう。それを思えば娘と二人がかりでの僕への冷遇は自業自得だ。


 その日の夜、お茶を飲もうと階段を降りかけると階下の居間にいる妻の話し声が聞こえた。

「萌愛もお父さんに話しかけられたら返事くらいしなさいよ。家に帰って来たときにただいまって言うのもお父さんだけになったし、少しは優しくしてあげなきゃ。あんたにばっかりは言えないけど」

僕は足を止めて耳をそばだてた。

「お母さん、急にどうしたの?」

「いろいろ反省してるのよ。今日も昼間ね、花壇の手入れをするってお父さんが玄関から庭に回ったの。そしたらいっときしてお父さんが玄関のドアをドンドン叩くからハッとして」

話しながらの妻の笑い声が聞こえた。

「まさか締め出しちゃった?」

「庭にちょっと出るだけなのにうっかり鍵かけちゃってさ」

「無意識ってところがむごすぎる」

「お父さんが外に出るとなぜかしらすぐに鍵をかけたくなるのよね」

「それ潜在意識だよ。よっぽど一緒にいたくないんだ」

二人の遠慮のない笑い声を後にして僕は音を立てないように用心して2階に引き返した。



【そして結婚35年後の今(根津勇65歳・虹子60歳・萌愛32歳)】

「母さん、萌愛もあいは正月に帰って来なかったがゴールデンウイークは?」

勇が隣りの和室にいる妻の虹子に声をかけた。

「ゴールデンウイークは2か月も先じゃない、まだ連絡ないわ」

「そろそろ厄年やくどしじゃないか? 今年いくつになるんだ」

「32」

「なら数えで33だからやっぱり厄年だ。こんなにき遅れるのなら萌愛もあいなんてキラキラネームつけるんじゃなかったな」

「生まれる前からお父さんが決めてた名前でしょ。小さい頃は可愛くてぴったりだと思ったわ」

「それがだんだん顔が長くなってモアイ像みたいになって」

「そんなこと萌愛の前で言ったら二度と帰って来なくなるわよ」

「床の間のひな人形はいつ片付けるんだ、もうひと月近く飾ってるだろ」

「今日が3日でひな祭りだから明日か明後日しまうわ。片づけが遅くなれば婚期が遅れるっていうし」

「もう十分遅れてるじゃないか。それにしても娘が30過ぎて別居してても飾るもんなのか?」

「結婚するまでって思ってるんだけど。それにあの子を妊娠したのが分かったのが3月4日だったから明日までは飾っておきたいの」


「さっきから何をしてるんだ?」

虹子は勇と話しながら押し入れの中のものをあれこれと引っ張り出している。

「もう春だし断捨離だんしゃりよ」

虹子は大きな角型封筒を手にして中を覗いた。

「私たちの結婚式の案内状や座席表なんか捨てていいわね?」

「ああ、婚礼写真と披露宴のビデオだけ残しとけばいい」

「披露宴て言えば私たちをいじった清武くん、彼の方が離婚するなんて皮肉なものね」

「それよりここ数年の間に死んだ同級生が可哀そうだよ。今年から年金がもらえたのに」

「明日は我が身かもしれないわよ。ちょっと待って、お父さんに今もしものことがあったら専業主婦の私はどうなるの?」

虹子は作業の手を休めて勇を見た。

「遺族年金を受け取れる」

「いくらぐらい?」

「規定が複雑で分かりにくいんだ。たぶんうちは月額15万弱だと思う。それに母さん自身の国民年金が6万ちょっとのはずだから贅沢しなけりゃ何とかやっていけるだろう」

「でも私が年金をもらえるのはまだ先よ。それまでは15万弱で暮らすことになるの?」

「いや、母さんが国民年金をもらい始める65まではつなぎの特別加算額というのがあるはずだよ」

「へえ、ありがたいわね」


 虹子は段ボール箱を側に置いて不用品を入れ始めたがまた手を止めた。

「でもお父さん、最後はどっちかが一人になるんだからできるだけ貯金しといた方がいいわね」

「医療介護付きの老人ホームは金がかかるからな。萌愛が結婚しないままなら戻って来て面倒をみてくれればいいんだが」

「年を取ると病気や年金の話ばっかりって本当ね。憂鬱になるわ」

「気晴らしにこれから散歩がてら晩飯を食べに出ようか」

「じゃ断捨離の続きはまた明日。車を置いて歩いて行けばお酒も飲めるわね」

虹子は立ち上がって段ボール箱を部屋の隅に押しやった。


 玄関を出る前に虹子は門灯のスイッチを押した。ドアの細長いガラスの部分がふうっと明るくなった。外に出ると既に日が暮れている。ドアに鍵をかけて虹子は勇と並んで歩き始めた。

「近ごろ玄関のドアを開けるとき重たいんだけど」

「夏なんかと違って家を閉め切っているせいだよ」

「建てつけが悪くなってるんじゃないのね?」

「ああ。換気扇の影響などで家の中の気圧が低くなる分、外から押されるかたちになるんだ」

「ドアを押し開けるときに風が入ってくるのはそのせい?」

「うん、気圧の調整のためさ」

「家の内と外のバランスが取れるまでは吹き込むのね。町で何を食べるの?」

「寿司にしようか」

「回転寿司?」

「そうさ。回らない寿司を食べれば首も回らなくなる」


 行く手に垂れこめている雲がその下の商店街の灯りを受けてほんのりと明るい。しかし歩きながら話す虹子の声のトーンは急に暗くなった。

「ねぇお父さん、さっき話した清武くんの離婚、彼の浮気が原因だったみたいだけど私もずっと気になってることがあるの」

「なんだい?」

「萌愛を身ごもった頃のことよ。お父さんの浮気の虫がピタッと収まったけど、もし妊娠していなかったらって考えるたびにモヤモヤするの」

「いや、その場合でも同じだったろう」

勇は少しうろたえた表情を見せたが口調はきっぱりとしていた。

「どうして言い切れるの?」

虹子は半ば疑わしげな声で言った。

「実は母さんの妊娠と同じ頃、ショッキングなことがあったんだ」

「どんな?」

虹子の声は今度は不安げな響きを帯びた。


「電車の駅の通路で1枚のポスターを見かけただけなんだが浮気心が吹っ飛ぶ一大事件だった」

当時を思い起こすかのように勇は視線を宙に浮かせた。

「何のポスター?」

「それは覚えてないけどミニスカートの若い女が両腕で膝を抱えて床に座っていた。それを横から撮った写真だった」

「体育座りのかっこうね」

「いや、抱えていたのは片方の膝だけで手前の足はまっすぐ床に投げ出していた。両方の太ももが45度くらいの角度をつくっているそのポーズを目にした途端、激しい性欲を覚えたんだ」

虹子が眉をひそめて顔を曇らせた。

「そんな顔するなよ、ヌードじゃないごく普通の写真だし通勤途上だから僕も浮ついた気持なんかなかった。それなのにいきなり強い性欲が生じたんだよ? その意外さに自分でびっくりしたんだ」

「それが一大事件?」

「そのとき悟ったんだよ。メスのある種の姿態ポーズ形態フォルムを見るとオスは自動的に生殖本能を刺激されるようにプログラミングされているんだなって。カップルでいてもスタイルのいい若い女性を見かけると目を奪われる、そんな男を女の人は不愉快に思うみたいだけどあれもしゅの保存に適した対象を自動的に察知する機能がインストールされてるせいじゃないのかな。そんなふうに考えたら僕自身も条件反射で発情する1匹の動物に思えて情けなくなってね」


「それはそれとして、じゃあ女は結婚して子供を産んだら用済みなのね」

「身もふたもない言い方だなあ。夫婦間の愛情は性愛から情愛に移り変わると思わないかい? 異性としてよりも人間として見るようになっていく。そうしたらナンパや浮気と違って性愛は発動しにくくなる」

「なんだかうまく言いくるめられた気もするけど」

そう言いながら虹子は勇がポケットに突っ込んでいる右腕に自分の左腕を絡ませた。

「おっ」と勇は小さく驚いた。

「ふふ、腕を組むのもずいぶん久しぶりね。今日は曇ってるせいかしら寒くないわね、あっ!」

「どうした?」

「洗濯ものを取り込んでこなかった」

虹子は組んでいた腕をほどいて、来た道を振り返った。

「雨は降らんだろう」

「いいかしら?」

「いいさ」


 店に着いて中へ入ると店内は客で満員のようだった。待ち合わせ用のソファーにも2、3組の家族連れが腰かけている。

「多いなあ。どこかほかへ行くか?」

「お二人さまですか?」

若い女性店員が虹子に近寄って来て声をかけた。

「お父さん、カウンターなら空いてるって」

「じゃそうしよう」


 食事をすますと会計を終えて勇と虹子は入口のドアの前に立った。自動ドアが開くと軒下に掛けてある暖簾のれんがハタハタと店内側になびいた。勇がそれを虹子に示した。

「ほら、うちと同じだ」

「ほんと。外と中のバランスを取ろうとしてるのね」

虹子は細かく震える暖簾をそっと指でつまんだ。流れ込む春の夜気が娘の萌愛にもさちをもたらしてくれるように思われた。

「お父さん、この先のコンビニに寄りましょ」

「何か買うのか?」

「タコ焼き。今日はひな祭りだから」

「ひな祭りに付き物なのは桜餅だろう」

「わたし的にはひな祭りの思い出はタコ焼きなの」


 回転寿司店を出て歩き始めた虹子は空を仰いだ。

「あら、雨?」

勇も手のひらを上にして空を見上げた。

「降ってるのかどうかよく分からないな。小糠雨こぬかあめだ」

「洗濯物は軒の下に吊るしてるけどこんな霧みたいな雨じゃ湿っちゃうわね」

「じゃ、先に帰って取り込んでおくよ。母さんは買い物もあるだろうしゆっくり来ればいい」

「そうしてくれると助かる」


 虹子は商店街の通りのコンビニに入った。そして冷凍のタコ焼き2パックとビニール傘を買って店を出た。傘をさして歩いているうち、泣きながらタコ焼きを食べた日のことが思い出された。あれから30数年、もう我が家は大丈夫だろう。そう思ったとき虹子のスマホが鳴った。娘の萌愛からのメールでゴールデンウイークの帰省の連絡だった。しかしメールの文面は虹子と勇に必ず家にいてくれと念を押すことから始まり長々と続いていた。読んでいる虹子の足取りがしだいに速さを増した。

「ただいま!」

家に帰り着くと虹子は靴を子供みたいに脱ぎ散らかしてリビングに駆け込んだ。

「洗濯物は風呂場に…、どうしたんだ? そんなに息を切らして」

「いい知らせがあるの! もうひな人形は飾らなくてすみそう」

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