第2部「分別ざかり」 最終章 『評伝 グロワス13世』抄
グロワス13世像変遷の諸要因
グロワス13世 1692〜1735
サンテネリ国王(在位1712〜1735)。父グロワス12世の死去に伴い即位。アキアヌ大公を首班とする枢密院の主催者として二重戦争を開始。在位中に顕著となった王権の失墜は、のちの
この小著の初めに、我が国の大学入学資格試験に用いられる歴史用語集よりグロワス13世についての記事を掲載しておこう。彼の父や息子たち、娘たちのそれが十数行に渡る分量を誇り、見出しに頻出を意味する星印が付される一方で、グロワス13世のそれは至極簡素なものと言える。
この状況が生み出されるに至った原因を考察するところから始めたい。
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人の行動の連なりをまとめ記録する営みは、人類が文字を発明した太古にまで遡ることができる。だが、それらが「学」として体形的な理論を備えるに至ったのは意外にも最近——第16期のことである。サンテネリの人文学者ラースが記した『諸王国の記録』はその端緒にあった。この大部な書物はサンテネリ王国を中心に、中央大陸諸王侯・貴族の伝記をある種の因果関係とともに連ねたものである。形式自体に特段目を引くところはない。ラースの作品がその内に秘める真に偉大さは彼が導入した一つの概念にある。
ラースはサンテネリひいては大陸の歴史を、正教の神がその存在を人を通じて現世に現す過程とみなした。登場人物の行動は全てこの単一の目的に沿って“解釈“がなされ、そこにはある一本の「流れ」が描かれた。神の御裾の元、この世にその意思を実現する人間という構図は、のちの歴史学に大きな影響を与えることとなった。
ラースが切り開いた“歴史の学“は、その「目的」を置換することによって様々な変種を生み出すこととなる。その中でも最も大きな影響力を誇ったものは、18期後半から19期初頭にかけて勃興した“国民史観“と呼ばれるものであろう。
歴史とは、不正と隷属の中にあった人間が偉大な人物の活躍を契機として、徐々に自由を手に入れていく営みであるとするこの史観は、実に21期の現代に至るまで隠然たる力を持ち続けている。例えばジュール・レスパンやメリア・ルロワなどはまさにこの史観の主役、少々文学的表現を用いるならば“英雄“であろう。
一方で、国民史観と並び我が国の歴史理解を二分するものに”王党史観”がある。神の意思を受けた王権の維持と拡大こそが人々を幸福に導くとするそれは、ラースが描いた16期の素朴な正教史観の近期的な変奏である。このいささか反動的ともいえる史観が、共和国においてなお国民史観と併存する事実は、我が国がいまだに二つの要素を根幹に持つ国家であるという政治的自認——大陸随一の歴史を誇る王国であり、かつ世界に先駆けて大改革を成し遂げた自由の国であるという——を分かりやすく理解させてくれるだろう。この王党史観の主役にはグロワス7世や11世、12世、そして流浪王グロワス14世、あるいは復古王ロベル3世を挙げることが出来る。
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以上、長らく我が国の歴史界を支配したこの二つの史観だが、そのいずれもが存在を無視した人物がいる。それは明らかに不自然な、隠蔽と評しても過言ではないほどの冷淡さであった。
その人物は王党史観の代表人物を父にもつ。その人物の子どもたちは国民史観と王党史観の両者において主要な存在であり続けている。にもかかわらず、その存在は両史観にとって誠に都合の悪いものであった。
「
一方、本来であれば擁護に回るべき王党史観においてもグロワス13世は厄介者である。彼は神聖なルロワの王権を臣下に掠め取られた無能者であり、後の忌まわしき「
しかしここに奇妙な空白が訪れる。
サンテネリの歴史界を長らく支配した両史観はそろってグロワス13世を断罪しうる。だが、彼が為したことを声高に批判するのは難しい。国民史観を奉ずる者から見れば、グロワス13世治下の政策は”古史”の枠に囚われた王が成せる最良のものばかりである。王党派から見れば、その行動は邪な意志ゆえではなく無能からくるものだ。目の不自由な人が真っ直ぐに歩けないからといってそれを
ゆえに判断は保留された。正確には「研究に値しない、取るに足らぬ人物」との判断が下されたというべきだろう。前途ある研究者が時間を割くべきは、国民史観に立つならば市民メリアやレスパンであろうし、王党史観ならばグロワス14世やロベル3世なのだ。
21期の今、人物研究の対象として人気の1、2を争うグロワス13世だが、このような理由から不遇の時代が非常に長かった。
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党派性以外にも理由は存在する。
グロワス13世が何を考え、何を成したのか。それを研究し理解するための資料が少ないのだ。彼は自己の記録を一切残さなかった。驚くべき事に、当時、貴族であれ平民であれ相応の地位を占める人物であれば必ず記した日記の類が全く残されていない。
王と同時代を生きた人物の手記は豊富に残るものの、その中でも政治的に最も近しい存在であった二人の人物、枢密院宮廷大臣フロイスブル侯爵マルセルと枢密院首相を務めたアキアヌ大公ピエルの日記は、それぞれが絶妙な塩梅で王の素顔を覆い隠している。前者のそれは古式ゆかしい家宰の手記、つまり編年体で淡々と記されている。後者のそれは情感にあふれた筆致ながら、当人の性格が反映してか虚飾の混じる度合いが大きいものであるがゆえに、文中から王の実像を精密に把握するのが困難なのである。
グロワス13世にとって誠に不幸なことに、これら確固たる資料の欠如は彼の実像をいわゆる“通俗的人物像“に引き寄せることとなった。学者たちは出来る限り客観的であろうと努めるものの、やはり「巷間に流布するグロワス13世像」を頭の中から完全に閉め出すことはかなわない。歴史家たちは王に対して与えられた哀れみすら誘う悪評を、もちろん鵜呑みにはしなかった。だが程度の問題であろうとは考えた。つまり「言われているほど酷くはないが、そこそこには酷い」という結論である。
この先入見を排しきれぬ定説が再考されるためには、よほどの衝撃が必要だった。20期の終わりに発見されたレスパン遺稿がそれにあたる。
共和国の父、人類の解放者、大指導者。ジュール・レスパンが当時第一級の知性を備えた思想家であり、強力な実行力を持った政治家であったことは異論を俟たない。
この“偉人“が残した言葉こそが、腰の重い——よく言えば慎重な——歴史家たちをしてグロワス13世像の本格的な修正をなさしめた最大の要因の一つである。
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グロワス13世の再評価に際してレスパン遺稿と並んで多大な貢献をもたらした力は、意外にも学問の世界の外からやってきた。
サンテネリを代表する時計・宝飾品企業であるブラーグ社の動向がまさにそれであった。
アブラム・ブラーグという天才時計師の存在は、グロワス13世と同じ時代を生きた人物として研究者の間でもよく知られていた。王と直接言葉を交わした彼の手記は第一級の資料である。だが、あくまでもその内容は王の私的な趣味の側面に限定されている。十も二十もある王の蔑称の一つ「時計を弄ぶ白痴の王」の由来となった趣味人としての姿である。
ブラーグ社は当然のことながら王にまつわる世評をよく理解していた。その証拠に、彼らが19期を通して展開した広告にグロワス13世は一切登場しない。代わりに紙面を飾ったのはグロワス14世とロベル3世、そしてメアリ・アンヌ王女である。特にメアリ・アンヌのブラーグ愛用は盛んに喧伝された。「共和国の女神に時を告げるブラーグ時計」といった売り文句とともに。
ブラーグ社は18期から20期にかけて目まぐるしく変転するサンテネリ政治の荒波を上手く乗り切った。共和国期には市民メリア(メアリ・アンヌ王女)の愛用品であり、復古期にはグロワス14世とロベル3世の愛用品として、彼らは自社の名声を喧伝した。
アブラム・ブラーグは生前、グロワス13世の子供達に一本ずつ手製の時計を製作している。特に有名な“5707“は、贈物の類を頑として受け付けなかったメリアが唯一受け取り、以降死ぬまで腕に巻き続けた作品であり、その実物は現在ルー・サントルのブラーグ本店に併設された博物館に展示されている。
20期の中葉以降、新大陸の大量生産品を前にしてサンテネリの手工芸産業は窮地に陥った。世界最高峰五大時計の一角に名を連ねながらも経営は上手くいかず、ブラーグ家所有時の末期には軍用時計を作り、軍からの受注で細々と生を繋ぐ有様であった。
しかし、20期最末期に訪れた宝飾品業界の再編成により状況は大きく変わった。高級宝飾品製造を国策産業と位置付けたサンテネリ政府の意向を受けて、公金を注入された有力資本連合体がブラーグ社を買収、ブラーグ銘の再構築を図ったのである。
国家の威信をかけて新生されたブラーグが再興の第一手として行ったのは、創始者アブラム・ブラーグが制作した伝説的な一品の再制作であった。
世界初の
グロワス14世が所有したこの品はその有名な流浪譚の最後、新大陸への渡航時、混乱の中で逸失していたが、ブラーグ社はそれをアブラムが残した詳細な設計図をもとに完全再現したのだ。
この復活劇の要は広報だった。
グロワス14世の故事が使用されるとの大方の予想を裏切り、ブラーグはあえて無名の男の名前を宣伝の主題に据えた。グロワス13世である。
“天寵は覆い隠される“
全世界で展開された宣伝活動で使用されたこの台詞は、筐体と文字盤の下に隠された機械こそがブラーグ時計の真髄——始祖アブラムの天寵であることを表すものであるが、同時に、「大グロワス」を捧げられた男もまた天寵を得た人物であることを主張していた。
この戦略が実行される10年程前から、ブラーグ社は歴史学研究に大量の資金を提供していた。高級宝飾品企業が学者や芸術家を後援する例はそう珍しいものではない。商品が高額になればなるほど”上品”な雰囲気が求められるが、流行りの芸能人を宣伝に起用すると”色”が付いてしまい、結果安っぽく感じられるのだ。実態はさておき、学者は色が付きにくい。”知的”な雰囲気がよいのだろう。もちろんあくまでも雰囲気に過ぎないのだが。その点において、ブラーグ社は高級時計会社の中でも社史を重視する傾向が強く、歴史研究と相性がよかった。
資本連合体の膨大な資金を背景に彼らが望んだものは、美しい社屋でも店舗でもなかった(もちろんそれらも十分に与えられたが)。彼らが欲したのは栄光の歴史である。社史を最大の資産と位置づけるブラーグ社のこと、アブラムとグロワス13世の関係は熟知している。にもかかわらず、創始者が認めた男が不当な蔑視を受け、無視されることへの不満があったのかもしれない。あるいは世間の非難を恐れて王との関係をひた隠しにした過去への後ろめたさゆえかもしれない。いずれにせよ、ブラーグ社は経済的合理性に反する冒険を為した。それはつまり、創始者アブラムが自身の唯一の理解者と認めた王、グロワス13世の再評価を求める動きであった。
だが、提供される豊富な資金を利用して研究者たちが導き出した結論が、ブラーグ社の宣伝担当者を十分に満足させたとは言い難い。筆者を含めて学者達が言えることは、単純に言えばただ一つであったからだ。
つまり、これまでの評価に反してグロワス13世はそこそこにまともな王であった可能性がある、といった程度の。
断言することは全くできない。だが、グロワス13世に関わる思いつく限りの文献にあたり総合された情報は、従来枢密院の大物達によるものと考えられてきた様々な政策について、少なくとも王の関与があったことを明らかにした。ただし、その程度はあくまで推測の域を出ない。最も好意的な者は王が「主導した」可能性を推し、否定的な者は「認知していた」と述べるにとどまる。
当然のことながら、ブラーグの担当者は前者の意見を採用した。
そして正教新暦2015年、グロワス13世没後280年を記念した特別企画展「暗君の光と闇 ー近世サンテネリ王宮を彩る王と王妃たちー」が
ことここに至り、歴史学者の狭い世界を飛び出して、新しいグロワス13世像が世間に広まることとなる。
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現在のグロワス13世人気は様々な要素が偶然に撚り合った末に起こったものである。
まず、20期中盤の歴史学界を支配した構造的手法が往時の勢いを失い、伝統的な人物研究が再び日の目を浴びようとする時期が来た。そこにレスパン遺稿という特級の資料が発見された。さらに、ブラーグ社の多分に商業的な目的を秘めた学術支援と広報宣伝が加わる。
すべてが噛み合った時、「王冠の台座に過ぎない」とまで軽侮された男は一躍新たな装いを纏うこととなった。
半ば独立国とも言える大公領の主と中小貴族たち、そして旧態然とした軍を強大な政治力で統御しつつ、一方では大指導者レスパンを心服せしめるほどの知性と開明性を誇る、多分に現代的な価値観を備えた男。軍制改革を皮切りに、枢密院の設置、平民階層の政治参加容認、全国統一税制の確立、貴族課税と、サンテネリが現代国家となるために必須のものである諸要素を生み出した男。
その治世の立証し得ない部分を極限まで好意的に解釈した場合、グロワス13世に冠する称号は一つしかない。
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次章では、グロワス13世の治世を時系列に沿って追いながら、旧来の通俗的解釈が最新の研究成果を経てどのように変化したのか、その詳細を見ていきたい。
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